「霊なるキリストが内に宿る」ということで、パウロは神秘的な体験を語っているのではありません。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、キリストを信じる一人ひとりに分け与えられるのだと語っているのです。内に住むキリスト(霊なるキリストの内住)とは、父子聖霊なる三位一体の神が、永遠に共にいてくださる、ということのパウロなりの表現(理解)であるといえましょう。わたしたちも、霊なるキリストに住んでいただき(支配していただき)永遠の祝福(命と平安に満ちた世界)へ向かうのです。
ペンテコステの日に聖霊が降り、主の教会が始まりました。世にキリスト教が広まりました。その目的は何であったのか。教会の数を増やし、願望や理想を実現するためではありません。主なる神が、御子キリストを遣わすほどにして、世と人とを愛されて、神の支配を実現し、先祖アブラハムに誓ったように、世界が神の祝福に満たされるためです。教会はそのためにのみ存在しています。わたしたちも。ペンテコステの日に降った聖霊は今も注がれています。主が再び来られるその日まで、わたしたちは、約束の地を目指して、ヨルダン川を渡り続け、強く雄々しく歩み続けてまいりましょう。
わたしたちは、時間枠の中に生きています。それはマモン(お金)と結びついています。主イエスの教えは、時間も関係なくお金の要らない気楽な暮らしの勧めではありません。永遠なる神の世界を見失っている人間の危険性について語っています。「時は金なり」という言葉がありますが、信仰者はそれを越えた世界に招かれています。神は想像以上に大きく広く豊かな世界の神です。しかも、この神は一人の人間(イエス)に宿られた神でもあります。それはわたしたちを愛されているからです。この神の愛の深さ広さ高さに導かれながら、やがて、永遠なる世界へと入ってゆくのだと思います。
神の前にやがては消え去るであろう世の秩序に対して、今ここで御心に照らし合わせて、正しいとか正しくないとか、果たして言い切れるものでしょうか。確かにこの世に生きる限り、従わなければならない世の決まり事というものはある。そのことに敢て、神や信仰を持ち出してまで荒立てる必要があるのか、という主イエスからの問いかけです。勿論、そうはいっても、明らかに間違った(神に逆らっている)世の秩序を放っておいて、悲惨な結果が待ち受けることがあるかもしれません。その時には、抗うべきかどうか問われるかもしれません。そのことを覚悟しつつも、最初から、あたかも喧嘩腰のようにして、世の秩序に立ち向かう必要はないのだといえましょう。
神の招きに一度応えた程度で終わってしまうことは赦されません。招かれる人は多いは、主なる神は、全人類という大人数だけの招きではなく、招きの回数のことではないかと思います。御子キリストを遣わすほどに、わたしたちを愛し憐れんでくださった神は、何度も招き続けてくだいます。神が一度選んでくださったならば、簡単に見放されることはありません。でありますのに、今日は〇〇ですからといって、神の招きの声を聞き逃してしまい、そのうちに無視し始め、神抜きの生活と人生を始めてしまう。「選ばれる人は少ない」は、そのことへの警告だと思います。選ばれたことを感謝をもって受け止め続けられない者からは、選びは取り上げられるのだという戒めです。
主イエスのたとえは、厳しい裁きで終わっています。しかし、わたしたちの主は、厳しい裁きだけを語って終わる方ではありません。この恐ろしい神の裁きのすべてを御自分が引き受けて十字架に架かられます。十字架の死は、神に従えない(=良きぶどう園の管理者となれない)者が、主なる神に拠って裁かれる姿です。神の裁きはかくも恐ろしいものなのです。本当は、ユダヤ人はもちろん、わたしたち一人ひとりが十字架には架からなければならないのです。でありますのに。架からずに済んでいるだけなのです。わたしたち、神に従いきれない罪人は確かに主によって裁かれます。しかしその裁きに伴う苦しみを味わうことはないのです。そこに十字架の主の恵みがあります。
主イエスがいわれている「後で考え直す」という言葉が「悔い改め」=神の方へ向き直すという意味であるとすれば、宗教指導者(祭司 民の長老 ファリサイ派)であれ、徴税人や娼婦であれ、間違った信仰に陥っていたとしても、神に従う救いの道に導かれる機会は開かれています。B.ヨハネは、今のわたしたちでいえば、たえず、神の方へ向き直して、真の救い主であるイエス・キリストへの出会いへと導かれる”出来事”であるかもしれません。あるいは、信仰者(信仰の友)といってもいかもしれません。最初はどうであっても、「後で考え直して」最後の最後には、神に従う道を歩むことになるならば幸いであるということです。
主イエスから言質を取ろうと思った彼らの謀は失敗します。彼らは「分からない」としか答えようがないわけです。結局、この後最後まで「分からない」と答え続け、主イエスから言質(証拠)を引き出せないまま、十字架へ架けてゆくのです。祭司長たちはそのことによって、彼らの権威を守り通したとします。しかしそれは、明らかに、神の権威に背くことでした。天からの権威は、ときに、「分からない」としか答えようがないほどに、わたしたちを窮地に追い込むのかもしれません。なぜなら、自分たちの(自分の)権威(プライド)を捨てられないからです。それを手放して「天からの権威です」と素直に(率直に)答えることができたとき、本当に救われるのだといえましょう。
先生イエス(ナザレのイエス)は十字架に架かられ死なれました。それは罪人としての全ての人が受けなければならない神の裁きという死を一人で引き受けられたということです。先生イエス(ナザレのイエス)として伝えていたことは、神のもとへ戻ること(悔い改め)でした。しかし、その宣教が敗れ去った時、先生イエス(ナザレのイエス)は死を迎えざるを得ませんでしたが、父なる神は、そのイエスを裁かれた死者が行き着く陰府の世界から”引き上げます” それが「死者の復活」であり「キリストの復活」です。裁きとしての死で終わることはない、という神の救いと赦しとが、キリストの復活によって示されたのです。マグダラのマリアは、そのことの紛れもない証人となったのです。
神は崩壊の中にあっても、全てを滅ぼし尽くされず”残りのもの”を起こされます。神の時をわきまえ知った”僅かな人たち”によって、その後、主の教会が建てられ、今日に至るキリスト教が成立します。わたしたち教会は、日本社会の中にあって僅か1%に過ぎません。もしも神が、この国を偽りの平和に満ちていると判断なさっておられるなら、わたしたち教会がなさなければならない大きな務めがあるといえるかもしれません。