キリスト教は救いの宗教です。しかしそれは、単なる“お助け”とは違います。キリストが語り示される救いとわたしたちが思い描く救いとはしばしば異なっています。主イエスは、救い主としてエルサレムへ入城されました。そのとき勇ましい軍馬のいななきと共にではなく、ろばの子にまたがって入城なさいました。しかしその滑稽さに気づく者は一人もいませんでした。人々は熱狂的に主イエスを迎えます。世の権力や都合によって救いが実現するのではなく神のなさりよう(十字架と復活という愛の業)によってのみ救いは実現するのです。
わたしたちは“無駄”を好みません。合理的で計算し尽くされた人生や世界を望んで来ました。しかしながら、ここ最近の状況の中で、それは果たして正解なのだろうかと疑問が生じています。懸命に計算し尽くして築き上げたものが一瞬のうちに崩れ去る経験をさせられています。格別、コロナ感染症は人間の力のなさを如実に表しています。ここに登場する女性は一瞬のうちに1年分の賃金にあたる純粋で高価な香油を主のために使ってしまいました。それは世の何ものにも代えられない主への愛のゆえです。主はその信仰を顧みられます。
最初のクリスマスに、東方の博士(占星術の学者)らが星に導かれてエルサレムへ着きました。東方の生活が嫌になったからではありません。救いの星を見てしまったからです。神の救いは知っているだけでは見出せません。“救いのしるし”に気づくことです。「そのときだ」と信じて行動を起こすことです。博士らは、御子の誕生に出会って救いを得ました。そのとき、黄金、乳香、没薬をささげます。キリストに出会った者はこれまで支えて来たものを一度捨てて、再び、キリストの名によって一つひとつ拾い直す、新しい人生を歩み始めます。
ヘブライ人への手紙は、聖書が語る罪と言う障害物を取り除くためのユダヤ教の犠牲に属する全てのものは「絡み付く罪」にもかかわらず、神への接近を永遠のものにするような方法で“主イエスが成し遂げたこと”を論じています。ハイデルベルグ信仰問答21の答えの中に「大祭司」という言葉がありますが、真の大祭司はイエス・キリストです。この方の性格は、罪のある人間の生活を思いやるところにあり、それは、十字架の苦しみを経て復活された救い主であるキリストの姿そのものです。このことを信じることが堅固な信仰となります。
今年ほど、クリスマスを待ったことはありませんでした。春先に始まった新型コロナウイルスの感染症によって、わたしたちの世界は突然の闇に覆われてしまいました。9ヶ月経た今も状況は変わりません。希望の見えない日が続いています。しかし、「今日救い主がお生まれになりました」希望の主であるキリストが今年もわたしたちのもとへ来てくださいました。光が灯されたのです。希望のこの光を見出す方法はただ一つです。天を見上げることです。たとえ、周りを囲まれても、天は開けています。そこから希望の光は差し込まれます。
クリスマスの物語は驚きの連続です。決定的に神が主導者であられるからです。年老いて子どものいない夫妻に子が与えられる。婚約中の若い乙女に子が宿る。わたしたちの日常の風景で、多くの一般常識の中では起こらないような出来事が次々と起こることから次第に始まります。「そんなことが起こり得ようか」それがクリスマスの始まりに告げられるメッセージです。それは一つの“衝撃”となって、わたしたちに臨みます。“受けとめられない恵み”それが、クリスマスの内実です。それを受けとめることから、クリスマスの恵みは授けられます。
神は不思議なことを起こされます。いえ、訳の分からない事柄を起こされます。それも突然にです。天からの命令として響き渡ります。そのとき、わたしたちは圧倒されます。しかし神は、一方的なメッセージだけではなく、この世において「そうなんだ!」と分かる“てがかり”を示してくださいます。今マリアが向かっている先にそれはあります。年老いたエリサべトに子が宿ったという事実を見て、確かめるために。そうして神の御業を確信したマリアが歌ったのが“マグニフィカート”(マリアの賛歌)です。圧倒的な神の恩寵を歌い上げます。
処女(おとめ)マリアは、一人のか弱い信仰者です。世の人々が崇めまつって来たような処女(おとめ)ではありません。天からの突然のお告げに戸惑いを隠せないで怖じ惑う女性です。「どうしてそんなことが有り得ましょうか」と。しかし彼女は“祈る女性”でした。人生には分からないこと、不思議なこと、そして、不条理なこと…たくさんあります。そのとき信仰者はどうすればよいのか。マリアは教えてくれます。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と。その先に思いもかけない主の祝福が待っています。
人生とその周りの世界は謎と不条理に包まれています。その中で、わたしたちは喜ぶこともあれば、怒りに満ちることもあります。詩編37編の詩人はわたしたちの姿と重ね合わせられます。あらゆる事柄に、格別不正と悪に耐えられず如何ともし難い思いにかられます。しかしこの詩人はうたい綴ります。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな」と。怒ったり、いら立ったりしないで、主なる神に任せよと。アドベントに入ります。救い主から来る希望のときを、待ち望みましょう。
兄弟ラザロを死からよみがえらせた主イエスの名声は今や鰻のぼりでした。しかしそれによって、ユダヤの宗教指導者層は一つとなって主イエスに対します。 その中心に大祭司カイアファがいました。彼は事もあろうにいいます。「一人の 人が死ぬことによって全ての国民が救われる」と。カイアファがキリスト教で 言う「贖罪論」を語ったとは思えません。その証拠にその後「キリストの殺害」 を企てて行きます。神はカイアファを用いて、救いの計画を進めて行かれます。 それは理解できないことですが、世の不条理を解くカギがそこにあります。