• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020-05-17(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 7:25 - 36「今がその時」 道家紀一牧師

神の業は、わたしたちの想像を超えたところに顕れ出ます。そのしるしこそは 主イエス・キリストです。まことの神であり、救い主(メシア)であった主は、 ナザレの人となられます。 “受肉”その意味は、日常の景色の中に神はいてくだ さるということです。神は、特別な時と場所ではなく、ごく当たり前の日々の 中に、普通の人生の中に関わっていてくださる=インマヌエルの神です。楽し い日々、苦しい日常に関係なく共にいてくださいます。新型コロナウイルス禍 に苦しむ今も間違いなく、共にいてくださる救い主と信じてよい神なのです。

2020-05-10(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7:10 - 24「神の真実と人間の都合」 道家紀一牧師

神の真理と人間の都合はしばしばぶつかります。神において最高の事柄は、人 間にとっては正反対だからです。主イエスが故郷のガリラヤから都エルサレム へ現れた時、評価はまっ二つに分かれました。 「悪霊に取りつかれている」と騒ぎたてる者もいれば、「良い人だ」と言う者もいました。しかし、どちらも確信がないことは同じでした。主ご自身が「遣わされた方の言葉を語っている」と 言われていることが信じられないのです。主は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」といわれます。神について何を見るのかが問われます。

2020-05-03(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7:1 - 9「神の時とわたしの時」 道家紀一牧師

人生にはあらゆる“時”(カイロス)があります。旧約聖書のコヘレト(集会の指導者)は、人生には様々な時があるが、それらはみな「神の御心に適う時」であると説きます。聖書で言う“時”(カイロス)とは“決定的な時”です。クロノスという時系列の時とは違います。神との関係で考える時のことです。それはまた時をささげることを意味します。人生の様々な時の中で、格別節目となるような時を自分のためにではなく、神のためにささげる時にすることが出来るのか?十字架に身をささげた主イエスの姿にそれを見ることが出来ます。

2020-04-26(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:66 - 71「留まった12人」 道家紀一牧師

主イエスの言葉に次第に人々は躓き始めます。最後に残ったのは12人でした。12使徒のことです。彼らは、多くの人々が離れ去って行く中で、残った12人でした。彼らが残れた理由は、主イエスの言葉を信じたからです。今日のように完全な形で受け入れていたとはいえませんが、少なくとも真実な神の言葉として受け入れたのです。わたしたちもそういう意味で留まった12人として礼拝をささげます。時には、十字架の恐ろしさに匹敵するような艱難によって離れ去ることもありますが、再び呼び戻されて、真に礼拝する者となって行くのです。

2020-04-19(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:60 - 65「許しがなければ…」 道家紀一牧師

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今朝より皆で礼拝室に集まって共に礼拝をささげることを休止しました。オンラインでつながって同時間に礼拝をまもる人、自宅で一人祈って同じ時間に過ごしておられる方、様々です。しかし、今朝、わたしたちの主なる神は、一人ひとりを礼拝に招いてくださっています。ささげる仕方は異なっていても、わたしたちは霊においては一つの群(礼拝共同体)です。どんな礼拝であろうとも神の許しの招きがなければ、ささげることは出来ません。一つに結び合わされ、ささげられる幸いに感謝します。

2020-04-12(復活祭礼拝)マタイによる福音書 28:1 - 6「ここにはおられない」 道家紀一牧師

コロナウイルス感染症拡大の恐れの中で復活祭の日の礼拝を迎えました。死人の復活=神の大きな奇跡(絶大な力)を信じることが出来ない私たちの前には、躓きの大きな石があります。罪という頑なな石です。それは、主イエスの墓の入り口を塞いでいた石のようです。朝早く主イエスの墓へ向かう婦人たちの愚かな望み(主イエスの遺体に触れたいという儚い望み)に立ち塞がったのが大きな石でした。しかしその石は神が取り除いてくださいました。罪の石が取り除かれた先にはあるのが、主の復活という神から来る大いなる希望です。

2020-04-05(棕櫚の日礼拝)マタイによる福音書 21:1 - 5「主がお入り用です」 道家紀一牧師

棕櫚の日を迎えました。救い主イエス・キリストは、ただ一つのことのためにエルサレムへ入城されます。人の罪を赦すために「十字架に架かる」ためです。間違っても、イスラエルの王(世の王)になるためではありません。しかし、人々は取り違えて、歓喜の声を持って迎え入れます。「ホサナ、ホサナ」と。世と人々を救うのは「人ではなく神」であるということが分かりません。救いは神のご計画の下に実現します。御子キリストが十字架に架かられるのは、神の御心です。ろばに乗って入城するキリストに、それを見なければなりません。

2020-03-29(受難節第Ⅴ礼拝)マタイによる福音書 3:1 - 12「救いの道を整えよう」 道家紀一牧師

今日、世界は様々な課題を抱えています。格別、新型コロナウイルスによって混乱する世界があります。洗礼者ヨハネは、バビロン捕囚で苦しむユダヤの人々に向かって語ったイザヤの預言「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」の通り現れた神の人です。神は彼を通して呼びかけます。見るに耐えない世界の中から“救いの道”を示す声が響き渡っている。これに聞けと。神は厳しい時代状況の中でこそ救いの道を示されます。大切なのはその道を見出すことです。いつの時代も洗礼者ヨハネの声は響いています。

2020-03-22(受難節第Ⅳ礼拝)マタイによる福音書 17:1 - 13「今こそ神の声に聴く時」 道家紀一牧師

主イエスは、十字架に架かられる前に、「わたしはエルサレムへ上り捕えられ、鞭打たれた後、死に渡される。しかし三日の後に復活する」と弟子たちに語られました。しかし、弟子たちは理解できませんでした。そこで主イエスは、それを悟らせるために高い山に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて登られます。そこで主イエスは栄光の衣に包まれますが、それは復活の“先取り”でした。見終えた後、主イエスはペトロらに、今見たことを告げることを禁じられます。誤解を避けるためでした。十字架から復活という順番をまちがえないために。

2020-03-15(受難節第Ⅲ礼拝 日本伝道推進を祈る日)マタイによる福音書 16:13 - 23「神の前に出てはならない!」 道家紀一牧師

主イエスに問われたペトロは「あなたこそ救い主キリストです。」と答えます。大正解です!「あなたの上に教会を建て、“天の国へ入る鍵”を預ける」とさえいわれます。しかし直後に、主イエスが「わたしは、十字架に架かって死んで復活する」と語られますと、途端にペトロは主をいさめ始めます。「そんなことがあってはなりません」と。これは主の救いの道筋を曲げる行為です。神が思われる道筋と人が考える道とは異なっています。そのことが分からないとき、「サタンよ、退け」といわれてしまいます。神の前に出る行為となるからです。