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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020-02-09(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:34 - 40「本物の命に生きる」 道家紀一牧師

人は汗水たらして、蓄えて生活を安定させて、人生を組み立てます。しかし、その過程で、どうしても避けられないのが、罪と言う問題です。ある人は言います。「人は罪を犯しながら生きて行く」と。だからといって食べないわけにはゆきません。主イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることも渇くこともない」と。罪を犯しながら生きて行くその先にあるものは何かと言う問いです。生きるために犯す罪を赦された者が行き着く先は、神の命に生きる人生です。そこから来る生き方が問われます。

2020-02-02(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:28 - 33「天からパンを降らせる信仰』」 道家紀一牧師

わたしたちは思います。一生懸命信仰したら“健やかな人生”を送って最後は“神のもと”(天の御国)へ行けると。聖書の時代のユダヤ人もそう考えていました。神の戒めを滞りなく守り切った先に神の祝福が待っていると。信仰にそういう面があるのは確かです。しかしそれだけなら、人間の努力や修養によって神の祝福が決まることになります。主イエスはそうとは語りません。「天からの命のパンを降らせたのはモーセではなく神である。そのパンはわたしである」と。信仰とは、神からの賜物であるキリストを信じ受け入れることに尽きます。

2020-01-26(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:22 - 27「最後の1デナリを求めて」 道家紀一牧師

人として地上に生れたからには、出来る事なら人並みに、もしかしたら人並み以上に生きたいと思うのが常です。しかし実際、簡単なことではありません。生きるに窮し、人生に躓くことしばしばです。そんなわたしたちに主イエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と。どんな人生を歩もうが、その人生は神が与えた命の営みであるかぎり、走り終わった先で「神の1デナリ」(永遠の命)が与えられます。

2020-01-19(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:16 - 21「神と共に歩む旅」 道家紀一牧師

歴史の教会はしばしば自らを“舟”と例えて来ました。教会に集う一人ひとりの人生も船旅に例えて来ました。大切なことは船旅をする舟に「主イエスなる神」が乗っておられるかどうかです。神が乗っておられない舟に乗って出港することほど危険なことはありません。山に登って一人祈られる主イエスをおいて弟子たちは勝手に舟を漕ぎ出しました。案の定嵐に遭い、恐れ迷います。主イエスこそ分からなくなります。しかし主イエスは近づかれます。「恐れるな」と。そして、舟に乗り込んでくださいます。不思議にも、嵐は静まります。

2020-01-12(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:1 - 15「あなたはどっち」 道家紀一牧師

5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々が満足したという話しは聖書の中でももっとも有名で知られた奇跡物語です。教会はこの話について様々な解釈の歴史をもっています。「本当はみんな弁当を各々もっていた。一人の少年が差し出した5つの2匹の魚がきっかけとなってみんなで分け合って満足した話である」、「礼拝の聖餐式(パンとぶどう酒に与る)を表した物語(フィクション)である」‥しかしこれは「こんな僅かしか」と思わず「こんなにもある」と信じて神に差し出して委ねると本当に神の祝福が起こると言う奇跡の話しです。

2020-01-05(栄光祭礼拝)コリント人への第二の手紙 5:16 - 21「生き直すために背中を押す方」 道家紀一牧師

パウロは、肉のキリスト=ナザレの人イエスに出会っていません。彼は熱心にキリスト教徒を迫害する人でしたが、キリストは彼に出会ってくださり、回心します。したがって、彼はこう語るわけです。「肉によって、キリストを知ろうとはしない」と。肉によってとは人間の思いによってということです。パウロの回心の出来事は、徹底的に肉の思いを排する信仰を築かせます。キリストの思いは只一つです。神と人との和解と人と人との和解です。そのために神の命を捨てられました。この命によってわたしたちは生き直すことができるのです。

2019-12-29(年末感謝礼拝)ヨハネの第一の手紙 1:1 - 4「礼拝に始まって礼拝に終わる」 道家紀一牧師

クリスマスにお生まれになったキリストは、ナザレの人イエスとして生まれました。まことの神がまことの人として地上に降り立たれたのです。インカーネーション(受肉)といいます。ヨハネの手紙は、この事実を伝えます。「わたしたちが目で見て、手で触ったものを伝えます」と。仮想の事柄でも作り話でもなく、天的な言葉(ロゴス)である神そのものが、人となってくださった、と言う歴史の事実を率直に伝えます。この聖なる事実に「命の言葉」が宿っていると。教会に伝えられていることは、この「命の言葉に満々ちた喜び」です。

2019-12-22(クリスマス礼拝)ルカによる福音書 2:1 - 20「救いの御子の誕生」 道家紀一牧師

クリスマスの出来事は人間の思いも、人間の努力も、そのすべてが力尽きたところから始まります。わたしたち人間は、大きいものが好きです。美しいものが良いと思います。それも人間の目線から言ってです。しかし神は、わたしたちの目線からではなく、天のまなざしを注がれます。小さな幼子イエスの中に、エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムに、神は救いのしるしを与えられます。わたしたちは、そこにこそ目を留めねばなりません。羊飼いたちが天使の調べに合せてベツレヘムに向かったように。エルサレムではなく…。

2019-12-15(アドヴェントⅢ:待降節第三礼拝)ヨハネによる福音書 1:19 - 28「聞け、荒れ野から届く声を」 道家紀一牧師

教会の信仰は今のときを平安に暮らすだけの信仰ではありません。やがて訪れる最後のときへ向かう信仰です。個々人としては死に向かって、世界と社会は終末に向かって、祈る信仰です。わたしたちは積み重ねの上に事柄が形造られると考えます。しかし、最後まですべてのことを完結することは出来ません。完成は神が成し遂げてくださいます。いいえ、実は、最初から神の愛と恵みが注がれているのです。そして、最後のとき、その愛と恵みに気づいてどれだけ神のために生きたかが問われます。それから天の御国の扉が開かれるのです。

2019-12-08(アドヴェントⅡ:待降節第二礼拝)ペテロの第二の手紙 1:16 - 21「明けの明星が昇るときまで」 道家紀一牧師

罪の力が世界を覆っています。「キリストは明日には来られる」(マラナ・タ)は、世にある罪と世の不条理に苦しみ続ける信仰者の切なる願いと祈りです。ペトロの手紙が書かれた時代、教会の信仰に生きる多くの人々は「キリストは明日お出でになる」と信じていました。しかし、キリストはなかなか来られませんでした。キリストの再臨を待つ祈りは今も続いています。キリストが来られない理由は「人々が悔い改める時を待っているからだ」とペトロの手紙は語ります。日々預言の言葉(御言葉)を聞き違えることなく待つことが大切です。