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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年01月26日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章16節〜19節「知恵と真理は自ら証しする」 道家紀一牧師

神から授けられた知恵は、神を畏れつつ用いてこそ、始めて、知恵は知恵としてその正しさが証明されるのです。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とはそういうことだと思います。人間の英知=知恵は軽んじられる必要はまったくないといえましょう。ただ、その知恵が何処から来ているのか、なぜ与えられたのか、そして、それを何のために用いればよいのか。その用い方(働き)によって、その知恵が持っている正しさというもの、すなわち、神が与えた本物の知恵であるかどうかは明らかになるといえましょう。神を畏れ、神への祈りをもって、与えられた知恵を用いるとき、知恵の元である神の知恵と真理とは自ずと証明される(明らかとなってゆく)こととなります。

2025年01月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 11章12節〜15節「苦難の先駆者」 道家紀一牧師

神の永遠の救いとは、これまでに汗を流し、あくせく稼いで、持ち合わせたあらゆる物を並べ立てても、手に入るものではありません。一度はすべて手放さなければなりません。洗礼者ヨハネは、その意味では、わたしたち信仰者の模範でもあります。悔い改めて=神の方へ向き直って、ただひたすらにキリストが来られる(救いが与えられる)ときを祈って待ち望む。信仰者のあるべき姿は、それしかないといえましょう。

2025年01月12日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章7節〜11節「荒れ野に何を見に行ったのか」 道家紀一牧師

荒れ野、それは、場所とか地形ではありません。世俗の中にあっても神に近づくことが出来る場所です。わたしたちプロテスタント教会は、ある意味、世俗を重んじて来ました。それは世俗にまみれて信仰生活を送るということではありません。神がそこで生きよと命じられた場所でありながら、しかしそこが神から自分を遠ざける場所であることを弁えつつ、荒れ野に立って歩むことを志す信仰を積み重ねる道なのです。そのためには、主イエスがヨハネについて語られた言葉「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」の深い意味を祈ってゆかねばならないといえましょう。

2025年01月05日(新年礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「来たりて拝め」 道家紀一牧師

この個所(博士来訪)のこれまでの解釈の多くは、「希望の星」が救い主の場=救いへと導くというものです。その解釈も間違っていないでしょう。しかし、その救いの星は、いつもそれと分かるような仕方で、希望の星として輝いているとはかぎりません。いやむしろ、そう見えないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。東の方の博士らが「不気味な星」として認識したように、わたしたちを惑わせ、訝しがらせるような状況へ追い込む現象として起こっているかもしれません。しかし、まさに、そのときに、東の方の博士らのように「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と救い主誕生の場所=救いの場を尋ねる求めることから始めてゆきたいと思います。

2024年12月29日(年末感謝礼拝)イザヤ書 60章1節〜9節「栄光と救いの到来」 道家紀一牧師

起き上がって光を放つようになるあなたがたの働きによって、やがて、数え切れない人々が颯のように、あなたの子となるために、金銀を携えてわたしのとこへやってくるであろう。これはイザヤが幻のうちに見た壮大な光景かもしれません。しかしそれが現実となると信じるとき、今の状況は徐々に変わってゆくのです。その積み重ねの先で最後には、ただ、主の御名が、神の民イスラエルの栄光なる神の聖なる名がほめたたえられるのです。「ただ、神の栄光のために」それが、神によって造られ、御子をキリストを遣わされるほどにして救ってくださった神にささげる祈りと応答です。

一年を終えるにあたり、もう一度、思いを新たにして、歩み出したいと願います。

2024年12月22日(クリスマス主日礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「神は我々と共にいる」 道家紀一牧師

夢から覚めたヨセフは、すべてのことを理解し、マリアを迎え入れる決断をします。今自分に課せられた務めは、神の大いなる救いの計画の一端を担うことなのだと信じて。「神は我々と共にいる」ということは、信仰者ヨセフが、神の民イスラエル(ユダヤ人)が、そして、わたしたちが、本当に”正しく”生きるとは何か、ということに気づくまで、伴われる神なのです。わたしたちも、ヨセフのように、神の救いの計画を担う一人ひとりとなる祈りをささげつつ、クリスマスの御子キリストをお迎えしましょう。

2024年12月08日(待降節第Ⅱ礼拝)ヨハネによる福音書 1章6節〜18節「キリストが来られる」 道家紀一牧師

光の主イエス・キリストが来られるまで、ユダヤ人(とユダヤ人を救いの基とする人類)は律法を守ることによってしか手段をもっていませんでした。しかし、それは律法主義という帰結で破断します。もはや、律法は罪を暴き立てるだけで、救いは授けられないと。ゆえに創造主なる神は、ここに救いの恵みと真理を目いっぱい(尽きることなく)携えた御子キリストを遣わされたのです。したがって、この方の言葉、この方のなさることの中に、神の全てが示されているといえましょう。「神を見た者はいない。父のみふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」これはキリストを信じる者は「救いを見る者となる」という意味です。御子の誕生を祈りつつ待ちましょう。

2024年12月01日(待降節第1礼拝)イザヤ書 2章2節〜5節「戦いは終わった」 道家紀一牧師

主なる神は、わたしたちと世界を見捨てられることはされません。「ヤコブの家」に集う者よ、いや、呼び戻される者たちよ、「主の光の中を歩もう」ではないかと、よびかけ続けられるのだと、イザヤは語ります。神の教えと神の言葉に耳を傾けようとする人々は必ず現れます。主がお選びになられます。「その日」は「終りの日」として必ず来ます。今一度の艱難は、その日に向かっている「神の裁き」のときなのです。そのこと悟って、この裁きの時を、受け止めて待ち続けて、人々と世界の模範となること、それが、教会には求められていることだと信じます。剣を鋤に、槍を鎌に変えることがおできになる方が、今年も、まもなく誕生されます。光の主イエス・キリストの誕生を、待ち望みましょう。

2024年11月24日(収穫感謝礼拝)マタイによる福音書 11章2節〜6節「主イエスに何を見るか」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「わたしにつまずかない人は幸いである」と。つまずくの語源はスキャンダルです。多くの人にとって、主イエスは”つまずき”です。主イエスの姿と言葉を見聞きして、人は戸惑いを覚えます。「まさか、そんなことがあろうか」と。しかしそのつまずきの中にこそ、真の救いへの”道”が隠されているのです。驚くべき主イエスの御業にこそ、救いがあります。御言葉を謙遜にへりくだり受け入れるとき、わたしたちは、そこに、神の救いを見ることが出来るのです。使徒パウロはいいます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(一コリント1:18)十字架の主の姿に救いはあります。

2024年11月17日(主日礼拝)マタイによる福音書 10章40節〜11章1節「キリスト者は小さき者」 道家紀一牧師

異邦人の国日本はキリスト者でない人々ばかりです。家族も、職場も、学校も、地域も。そのような環境で、神に仕える「小さき者」(少数者であるキリスト者)がいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような反応を得ることが出来るかどうかが問われます。「どうせ話しても無駄だとか」「関心などもたいないだろう

」と諦めてはなりません。(教会の外にいる)人々の救いに関わることなのです。「永遠の命になど興味はない」とか「死んだらそれで終り」と呟いている人々からいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような関心を得られるか。それが、主イエスを伝道するということであり、一人でも多くの人を救いの真理(信仰)へ導くということになるのです。