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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年11月23日(収穫感謝日礼拝)マタイによる福音書 19章16節〜30節「永遠の命を得るには」 道家紀一牧師

ここで主イエスがいわんとされていることは、家族よりも神とか財産よりも神という単純なことではありません。与えられている家族や財産は、どこから来てるかという問いです。自分の力で得たかもしれないが、神なのです!という問いです。わたしたちは、何もかも手に入れたいと思っています。ともすれば、信仰さえも、手に入れたいと思っています。しかしそれを決めるのは、神なのです。最後の言葉は、そのことを語って余りがあります。「 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と。神のみが、お決めになる「聖なる選び」があるのです。

2025年11月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 19章13節〜15節「天の国はこのような者たちのもの」 道家紀一牧師

子どもにしろ、大人にしろ、真に、心を入れ替えるには、主イエスの力をお借りするしかないのです。わたしたち、神から引き離されている罪人たちを、神の前に出られるようにするために、自ら神の命を投げだしてくださり、復活なさった主イエス・キリスト、この方に”手を置いて祈っていただく”しかありません。それが、洗礼という聖なる出来事=サクラメントです。洗礼を受けるとき、罪人であるわたしたちは一度、水の中で死にます。そして、神の復活の命にあやかって、罪赦された者として、神の前に立つことが可能となるのです。そのとき、わたしの心は、前の心とは全く入れ替わって、新しくされているのです。

2025年11月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 19章1節〜12節「受け入れることができるなら」 道家紀一牧師

誰にでも不条理な人生があります。しかし主イエスはいわれます。「それがあなたの人生です」と。課題は、それを「受け入れられるか、受け入れられないか」でしょう。生きていれば良いことばかりではありません。神を信じている者であろうと、信じていない者であろうと、降りかかる災難は同じです。信仰者の信仰者たる戦いは、そこから始まります。「受け入れることができるなら」という聖なる戦いです。そのために、わたしたちは、聖書の言葉=神のご意思に聞き続けてゆきます。間違っても、ファリサイ派のように、自分勝手に捻じ曲げて解釈することがあってはなりません。真摯に、主イエスの御声と聖霊に導かれながら、神の御心である聖書の言葉に、聞き続けてゆきたいと思います。

2025年11月02日(聖徒の日礼拝)詩編 51章1節〜11節「神の御顔を見る日」 道家紀一牧師

罪が洗い清められるということは、神の御顔を仰ぐことが出来るということです。詩人(ダビデ)は、そのことを知った上で、あえて、こううたいます。「わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください」と。罪の汚れにあるままで、神の御顔を向けられたら、詩人(ダビデ)もわたしたちもひとたまりもありません。ならば、神よ、その御顔を、わたしの罪にはお向けにならないで、罪(咎)をことごとく拭ってくださいと願います。罪の汚れを洗い清められたとき、何の恐れもなく神の御顔を仰ぎ見ることが出来ます。先に召されていった一人ひとりは、今、神の御顔を仰ぎ見る希望の下眠っておられます。それと同じ希望をもって、私たちもまた、その日そのときまで歩んでゆきたいと願います。

2025年10月26日(宗教改革記念礼拝)マタイによる福音書 18章21節〜35節「こころから赦す」 道家紀一牧師

神による罪の負い目の帳消し=罪の赦しは、免罪符など買うことなく、わたしたちに与えられることを再発見したのがルターです。「 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:22、23) ただ、イエス・キリストを、その十字架の贖いの死による恵みを信じることによってのみ、わたしたちの罪は赦され、天の国への扉は開かれるのです。

2025年10月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 18章15節〜20節「あなたがたの中におられる」 道家紀一牧師

教会の信仰に生きるとは、教会の働きに生きるということす。教会の働きとは「赦しの業」です。罪の赦しの権能を託されているものとして、赦しの業を祈ってゆくのです。これは、優しい道ではありません。「神の愛」に努めるということだからです。日本に愛という言がなかったとき、神の愛という言は「神のお大切」と訳されたそうです。神は、ご自身がお造りになられた世界と人々を、御子キリストをささげるほどに、大切になさってくださる、というのが神の愛ではないでしょうか。その神の愛に生きるとき、わたしたちもまた、主の後ろ姿に倣って生きて行くのです。それが「赦しの業」に生きて行く、祈って行く、ということになるのだ、といえましょう。

2025年10月12日(神学校日礼)マタイによる福音書 18章1節〜14節「迷い出た一匹のために」 道家紀一牧師

100匹の中からいなくなった1匹に思いをかける羊飼いのたとえは、今日、リスクという言葉で表されることかもしれません。そのぐらいはしょうがない。計算済みの損失であると。そのことが如実に出ているのが戦争です。戦う前から、何人死ぬか計算され、命がいとも簡単に軽んじられている世界です。1匹や2匹を気に掛けるな、それよりも、残っている99匹(98匹)のことを気にかけていこうではないかという生き方です。考え方です。落ちこぼれはおいて行こう。という方針です。最近の言葉に「持続可能」とか「一人も取り残さない」というのがありますが、それは、今の世界の在り方に対する一つのアンチテーゼであるといえましょう。「たかが1匹ではなく、されど1匹」という生き方です。

2025年10月05日(世界聖餐日礼拝)エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節「一つの聖なる民」 道家紀一牧師

教会は神との間に平和を得ている一人ひとりが集っている聖なる交わりにある群れです。したがって、教会に集う一人ひとりに違いがあっても関係のないことになるのです。外国人も寄留者も分け隔てなく交わる場所それが教会でなくてはなりません。なぜなら、この世の国籍は関係なくなるからです。「わたしたちの国籍は天にある」という関係に生きるからです。それこそが「聖なる民に属する者、神の家族」という交わりに入るということです。使徒信条がうたっている「聖なる交わり」のことです。

2025年09月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 17章22節〜27節「主イエスの自由に生きる教会」 道家紀一牧師

わたしたちも神の子キリストに結ばれていることにおいて神の子たちです。したがって、世の取り決めた制度や規則に縛られることはないといえます。しかしその上で、主イエスが語られたもう一つの大切な御言葉「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」という愛の配慮に生きることが求められます。地上に生きている限り、様々な取り決めや制約があります。人間関係においても、ややこしいものがあります。本来、神の子であるわたしたちは、それからは解き放たれた”自由”を手に入れています。しかし、その自由を、何のために用いるのか。自分たちの思いや我が儘な欲望を通すために用いるではなく、主イエスのように、愛の配慮を実現するために、用いてゆきたいと願います。

2025年09月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 17章14節〜20節「できないことはない」 道家紀一牧師

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と。これは、小さな信仰を言っているのではありません。たとえ、からし種のような小さな一粒であったとしても、それが神へのまったき信頼に基づいた”本物の信仰”であるならば、山に向かって「動け」といえば、山をも動かせるはずであると。そういう意味で、あなたがたが本物の信仰をもてば、悪しき霊を追い払い、神への全き支配の下に取り戻されて、できないことは何ひとつなくなる、すなわち、あなたがたが想像する以上の奇跡が起こるのだと。