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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年05月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章1節〜9節「種を蒔く人と場所」 道家紀一牧師

御言葉に聞いて、自分が蒔かれた畑を、それが世間から見て(人の目から見て)好ましい場所であれ、そうでない場所であれ、耕し続けて行くということが大切です。パウロは語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれ働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(一コリント3:6~9)どこに蒔かれようと「神の畑」と信じて、神による成長を確信し「御言葉に聞き続ける」ことが大切と思います。

2025年04月27日(主日礼拝)ルカによる福音書 24章13節〜35節「エマオへの道で」 道家紀一牧師

主イエスがパンを裂いて二人の弟子に渡したとき、二人の弟子の“目が開けて”、主だと分かります。「主は生きておられる。復活なさった」という信仰的体験です。二人は、全てのことを想い起こします。“目が開けて”と訳されている“ディアノイゴー”には「説明する」という意味があります。復活の主が話し説明していたことは、彼らの目が開かれるためでありました。礼拝においてキリストが今も生きて働かれていることを確信し、救いの信仰を分かち合います。礼拝(聖餐式)において、今ここに十字架と復活の主がおられる(臨在されている)という確信をもって、御言葉に聞くとき、わたしたちの心の目は開かれて、燃えるような思いをもって、救いの信仰に導かれるのです。

2025年04月20日(復活祭主日礼拝)ルカによる福音書 24章1節〜12節「主の復活」 道家紀一牧師

ルカはキリストの復活について混乱した状況を包み隠さず記録します。キリストの復活は神の救いの力の証明です。わたしたち人間が抱えているあらゆる問題の根底にある人の罪を解決する唯一の道です。しかしそれを信じることについては、初代教会にも混乱と戸惑いがあったことが分かります。キリストの復活とそれに基づく救いの力については戸惑いとおそれがあります。立ち帰るべき姿は婦人たちです。墓を塞ぐ石の存在”にもかかわらず”墓へと向かった…その先で見させられたことは、不可能を可能とする救いの事実です。聖書と礼拝を通して救いの言葉を日々聞かされているわたしたちも救いの事実にも出会ってゆく一人ひとりであることを想い起こしたいと願います。

2025年04月13日(棕櫚の日礼拝)ルカによる福音書 19章28節〜44節「主にあって生きる人々」 道家紀一牧師

神の国は今も建設されています。わたしたちにはとても納得できないような世界情勢があります。受け入れ難い出来事が続いています。それでも、神は生きて働いておられると信じることができるとき、事情は変わります。弟子たちや群衆のエルサレム入城の迎え方には間違いもあったと思います。しかし、彼ら彼女らは少なくとも、ファリサイ派やサドカイ派のように拒否はしませんでした。神が来ていること(神の時)をおぼろげであってもみようとしたからです。その“信仰の一歩”によって、一つひとつ“神の時”が明らかにされてゆきます。初代教会は、主よ来たらせたまえ(マラナ・タ)と祈りつつ、そのときを待ち続けました。その信仰の息吹は今も続いています。

2025年04月06日(受難節第五主日礼拝)マタイによる福音書 12章46節〜50節「主にあって生きる人々」 道家紀一牧師

マリアは、世の母としては、最大な嘆きを経験します。絵画ピエタはその悲しみを表現しています。ですが、そこで、マリアは終わることはありませんでした。十字架の死後、主イエスの復活を信じる群れの中心になって、祈り続けて、聖霊降臨(ペンテコステ)のときを迎えます。神のご計画とそれに対する深い御心を知ったからです。キリスト教の歴史には、母マリアのような人々がたくさんいます。神に従う道で苦しい思いをした人、嘆きと悲しみに暮れ続けた人、それでも、主に従う道を選び続けた人々がいます。その人々(主にあって生きる人々)の群れの積み重ねが主の教会であり、そこに生きる人々=教会の歴史です。そのような信仰者の一人ひとりとして歩み続けたいと願います。

2025年03月30日(受難節第四主日礼拝)マタイによる福音書 12章43節〜45節「悪い時代となるのはなぜか」 道家紀一牧師

人間は反省します。しかし、それは一瞬の点で終わります。よくいわれる「喉元過ぎれば熱さを忘れる」です。神の前に罪を赦された者は、そこで悔い改めたはずです。悔い改めたということは、もはや悪霊を主とはしないで、キリストを主とした者に変えられた、ということです。社会も、組織も、世界も、時に、悔い改めますが、瞬時で終わってしまい、まっすぐな神へと向かう線にしていかないならば、再び、神ならぬものに支配されて、やがては、滅びに至ってしまうのです。今日の世界は、どうでしょうか。わたしたちの国は、社会は、どうでしょうか。そして、教会は…一瞬の悔い改めではなく、主に向かった決断を、何度も何度も悔い改めながら、続けてゆきたいと願います。

2025年03月23日(受難節第三主日礼拝)マタイによる福音書 12章38節〜42節「ヨナとソロモンにまさる者」 道家紀一牧師

わたしたちは、目で見て触って、手ごたえのある世界に生きています。証拠の積み重ねの世界観に生きています。”エビデンス”とか”ファクトチェック”いう言葉が普通に用いられるような時代に生きています。しかし、聖書の世界は違います。「見ないで信じる者は幸いです」という世界です。それは、闇雲に神を信じなさい、ということではありません。目で見て手で触って生きて行く、あるいは、そう生きて行かざるを得ない世界において、それだけではない世界=しるし(証拠)を求めない「真実なる世界」があることを信じることの大切さを、主イエスキリストという方は、わたしたちに示し続けてくださっているのだと思います。今日求められていることの一つだと考えます。

2025年03月16日(受難節第二主日礼拝)マタイによる福音書 12章33節〜37節「自分の言葉に責任をもつ」 道家紀一牧師

「つまらない言葉」について少し調べてみました。他の言い方では「無益な言葉」とありました。ということは、神に対して「役立たない言葉」という捉え方が出来るのではないでしょうか。いつも、いつも、神のために益する、あるいは、神の国(神の支配)に益するような言動は出来ていないかもしれません。しかし、それでも、キリストの救いに与かっていることを信じ、祈りをもって言葉を紡ぎ、その言葉に基づいて行動を繰り返してゆくならば、最後の日を、恐れなく迎えることが出来るのではないでしょうか。自分の為に語る言葉ではなく、神と神が造られた隣人と世のためになる言葉を紡ぎ出す祈りをささげてゆきたいと願います。

2025年03月09日(受難節第一主日礼拝)マタイによる福音書 12章22節〜32節「神の国は来ている」 道家紀一牧師

主イエスがいわれることは、次のことです。人が神とキリストイエスに対して犯す罪については赦されるであろうが、主イエスに授けられた聖霊を退ける者は決して赦されることはないと。主イエスに授けられた神の霊は十字架と復活の後天に戻られた主イエスご自身から、約束の霊として、教会へ降り注がれました。ペンテコステの出来事です。主イエスに授けられた神の霊は聖霊なる神となって礼拝されることとなったのです。主イエスがいわれていることはその一連の出来事です。神が御子キリストを遣わし、その血を流させるほどに、その肉を割かさせるほどにして、実現しようとなさった「赦しの御業」を否定する者は赦されないのだと。聖霊は神がわたしたちを罪から救おうとなさった全ての出来事を、わたしたちにはっきりと分からせてくださる神そのものなのです。

2025年03月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 12章15節〜21節「神が選んだ主の僕」 道家紀一牧師

神の正義が実現するまでは、「傷ついた葦」となっても「くすぶる灯心」となっても、神の名によって、望みを置くしかないのでしょうか。人間の間違った正義が振りかざされる中において、神の正義を貫くことは、今にも倒れそうな葦のようにもなるでしょうし、消えそうなろうそくの火ともなるでしょう。しかし、そこでこそ、なお、踏みとどまるのです。神へ期待して。神の愛は、わたしたちを引き離すことはないと信じて。
神を信じる者は、見える人の時の流れの中で見えない神の時を待ちながら祈る人のことです。主イエスは、その神の時を、神に選ばれた僕として歩み続け、最後には十字架の死をもって、“このとき”(神の時)を示されたお方といえましょう。