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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020-09-13(主日礼拝)ヨハネによる福音書 10:7 - 21「囲いの外に向かって生きる」 道家紀一牧師

主イエスは、神の牧草を食べるための“門”です。昔イスラエルでは、囲いの一か所が開いており、そこに羊飼いが寝そべって門のような働きをしていたようです。主イエスはそれを譬えています。羊が勝手に囲いの外に出ようとするならば捕まえます。入ろうとするなら入れてあげます。神の国への救いの扉のような働きを、主イエスはなさるのです。神さまをなんとなく知っているだけでは不十分です。キリストという救いの門を通らなければ、神の永遠なる牧草地にはたどり着けません。救いの扉は、イエス・キリストだけです。

2020-09-06(振起日礼拝)ヨハネによる福音書 10:1 - 6「神の牧草を食べて生きる」 道家紀一牧師

聖書の中でも最も有名な話の一つです。「羊飼いと羊のたとえ」です。主イエスがわたしたち羊の良い羊飼いである、というたとえです。しかしよく読みますと、なかなか難しいたとえでもあります。羊の囲いとは何か、囲いの門を通って外に出て行くのは何をたとえているのか、門番とは誰か…イメージを膨らませるとかえって分からなくなります。ただ一つだけはっきりしていることは、真の羊飼いである主イエスの御声を聴くことによって、わたしたちは神の牧草にありつけて、健やかな日常と人生を歩み出せるのだ、ということです。

2020-08-30(主日礼拝)ヨハネによる福音書 9:35 - 41「見えると言う罪」 道家紀一牧師

キリスト教は愛の宗教であるとともに言葉の宗教ともいわれます。それゆえに、しばしば「聖書を読む」あるいは、「聖書を学ぶ」と言う姿勢が大事にされます。しかしそれと同時に、わたしたちは「礼拝する」という聖なる跪きを忘れてはなりません。主イエスはいわれます。「見える」と言い張るそこに罪があるのだと。キリスト教は解る宗教ではなく、信じる宗教です。「そうなんだ」と納得する宗教ではなく、「信じます」と告白する宗教です。生まれつき目が見えなかった人は、救われた恵みの事実の前に、「信じます」と告白する他なかったのです。

2020-08-23(主日礼拝)ヨハネによる福音書 9:24 - 34「神を愛する意味」 道家紀一牧師

神が起こされる事実(奇跡)に出会った人は、この世の諸々の勢力に対する恐れがなくなります。主イエスに目を開けていただいた“彼”は、もはやユダヤ当局(神殿祭司 律法学者 ファリサイ派)の追求に、真実しか答えなくなりました。どんなにユダヤ当局者たちが罠を仕掛けようが、彼は陥れられません。「あの方はわたしの目を開けてくださいました」彼は彼に起った真実だけを語ります。それ以外に語ることはないからです。神の真実に出会った者はいたずらな飾りはしません。自分が味わった真実な恵みのみを証しするのみです。

2020-08-16(日本伝道の推進を祈る日の礼拝)ヨハネによる福音書 9:18 - 23「葛藤の中で告白する」 道家紀一牧師

キリスト教は今でこそ世界宗教の一つですが、その原初は、迫害の歴史です。ヨハネ福音書はその事情も反映しています。目の見えない人が癒された出来事を通して、「イエスは救い主キリスト」と“告白する”苦闘の様子が、登場人物の姿を通して映し出されています。信仰告白をすることは容易いことではないのです。今日、教会は、この歴史を忘れています。癒された者の両親はユダヤ人の圧力(迫害)の中で精いっぱいの告白をしました。「後は息子に聞いてください」これは逃げの姿勢ではなく、神に全てを委ねた両親の信仰と思います。

2020-08-09(主日礼拝)ヨハネによる福音書 9:13 - 17「勇気ある告白」 道家紀一牧師

日本のキリスト者の人口はわずか1%です。100万人程度です。日曜日の朝に、礼拝をささげているのは1%の奇跡と言えましょう。しかしこの1%の奇跡に意味があります。奇跡とはとてつもないことが起こることではありません。ある人は「生まれただけで奇跡だ」とも言っています。日常の風景の中に奇跡はあります。わたしたちの世界は神から離れた罪の世界です。しかし、そこから救われて礼拝をささげる者とされていることが奇跡です。この盲人のように、罪ある世間に負けることなく告白出来ること、それが一つの奇跡です。

2020-08-02(平和聖日礼拝)ヨハネによる福音書 9:1 - 12「神の栄光が現れる場所」 道家紀一牧師

生れながらに目の不自由な人がいました。本人はもとより両親はそのことで、随分と辛い思いをさせられていました。当時のユダヤ社会では、障がいは本人または両親の罪が理由とされていたからです。しかし主イエスは驚くべき答えをされます。「神の栄光がその人に輝くためである」と。聖書の信仰の急所です。見栄えの良いもの、多くの人が認めるもの、地上において輝くものの中に神の栄光は輝くと思う人間の誤った信仰を、主イエスは打ち砕きます。十字架の主は最も惨めな姿です。しかしその惨めさの中に神の救いの栄光は輝いています。

2020-07-26(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:48 - 59「わたしはある」 道家紀一牧師

教会が信じている神=イエス・キリストは、罪のないまことの人でありますが、この方は完成された人間ではありません。天地創造の前から永遠なる世界にて存在されておられた方=主なる神その方です。ナザレのイエスとは、天の世界に“ある”神なる方が、地上で肉の姿をとられた方です。主イエスの言葉は、天の父なる神の言葉であり、主イエスの行いは天の父なる神のなさりようです。それが理解できないのは、諸々の悪しき勢力に捕らわれているからです。主・イエスは命を投げ打って、その悪しき勢力を滅ぼし、命を注いでくださいます。

2020-07-19(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 8:39 - 47「神に属する者が聞く言葉」 道家紀一牧師

族長アブラハムはイスラエル人の誇り、信仰の民の父でした。彼ら以外の民族を“異邦人”(神の祝福とは関係ない人々)と呼びました。アブラハムの系譜にある者は神の側に属する者と考えたからです。しかし主イエスは、その彼らの誇りは間違っていると。本当に神の側にある者は神が遣わした御子の言葉に耳を傾けるはずであると。ところが彼らは、御子の言葉に聞きません。ナザレのイエスなどにアブラハムの誇りは見られないからでした。本当に聞くべきものに聞くことが出来ない彼らは、わたしたちにも起こり得る信仰の危険信号です。

2020-07-12(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:31 - 38「父を見た自由と、父に聞いた自由」 道家紀一牧師

わたしたちは、今日社会的人権としての自由を手にしているといえましょう。しかし、その自由はどこか不安定なものです。定まったものではありません。自分では、真の自由を守ることは出来ないのだ、という弱さ(至らなさ)と罪深さを知って、キリストの真理(十字架と復活による罪の赦しのたしかさ)に聞くしかありません。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」という主の言葉を信じるしかないのではないでしょうか。