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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020-07-26(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:48 - 59「わたしはある」 道家紀一牧師

教会が信じている神=イエス・キリストは、罪のないまことの人でありますが、この方は完成された人間ではありません。天地創造の前から永遠なる世界にて存在されておられた方=主なる神その方です。ナザレのイエスとは、天の世界に“ある”神なる方が、地上で肉の姿をとられた方です。主イエスの言葉は、天の父なる神の言葉であり、主イエスの行いは天の父なる神のなさりようです。それが理解できないのは、諸々の悪しき勢力に捕らわれているからです。主・イエスは命を投げ打って、その悪しき勢力を滅ぼし、命を注いでくださいます。

2020-07-19(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 8:39 - 47「神に属する者が聞く言葉」 道家紀一牧師

族長アブラハムはイスラエル人の誇り、信仰の民の父でした。彼ら以外の民族を“異邦人”(神の祝福とは関係ない人々)と呼びました。アブラハムの系譜にある者は神の側に属する者と考えたからです。しかし主イエスは、その彼らの誇りは間違っていると。本当に神の側にある者は神が遣わした御子の言葉に耳を傾けるはずであると。ところが彼らは、御子の言葉に聞きません。ナザレのイエスなどにアブラハムの誇りは見られないからでした。本当に聞くべきものに聞くことが出来ない彼らは、わたしたちにも起こり得る信仰の危険信号です。

2020-07-12(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:31 - 38「父を見た自由と、父に聞いた自由」 道家紀一牧師

わたしたちは、今日社会的人権としての自由を手にしているといえましょう。しかし、その自由はどこか不安定なものです。定まったものではありません。自分では、真の自由を守ることは出来ないのだ、という弱さ(至らなさ)と罪深さを知って、キリストの真理(十字架と復活による罪の赦しのたしかさ)に聞くしかありません。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」という主の言葉を信じるしかないのではないでしょうか。

2020-07-05(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:21 - 30「父と一つである主イエス」 道家紀一牧師

罪あるままでは、天の国(神が全き支配をされている世界)に入ることはできません。その道はただ一つです。主イエス・キリストを通るしか(信じるしか)ありません。しかし、その道に気づかない人々(ファリサイ派と律法学者)=罪ある人々(肉の思いにとらわれている人々)は、主イエスを否定します。彼は何を言っているのか分からないといって。主イエスは父なる神の御心のままに話されているにもかかわらず、それを救いの真理として聞くことができません。御子キリストは「父なる神と一つである」それを信じるしかないのです。

2020-06-28(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8:12 - 20「ただひたすらキリストに」 道家紀一牧師

聖書は「罪からの救い」を語り示します。その中心はイエス・キリストです。教会は、そのことを、信じ続けて来ました。信徒信条で告白する通りにです。しかし、初めて、主イエスが、ガリラヤのナザレから出て来られたとき、そうではありませんでした。素性も良く分からないイエスと言う男の語る救いの道など信じる人はいませんでした。格別、律法学者やファリサイ派の人々は彼を退けようとしました。「わたしは命であり、世の光である」この言葉を語られる主イエスは天から遣わされた真実な方です。この方以外に救いはありません。

2020-06-21(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 8:1 - 11「行きなさい」 道家紀一牧師

「まず罪のない者から石を投げなさい」女性の罪を裁こうとする人々に向けた主イエスの御言葉です。わたしたちは、人を批判すること早く、事柄を非難することを喜び、物事の良し悪しを直ぐに判断しようとします。その基準はどこにあるのでしょうか。多くは、自分です。自分の価値観、あるいは、自分の気持ちです。しかしそれは確実ではありません。昨日と今日では気持ちも状況もかわります。他者を裁くとしたら、その基準はあなたにはない!と主イエスははっきりと言われたのです。裁きは神の業であり、同時に赦すのも神の業なのであると。

2020-06-14(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7:45 - 52「人間の思い込みと神さまのなさりよう」 道家紀一牧師

神さまの働きはどこに顕れるのか。聖書の民ユダヤ人にはいろいろな言い伝えがありました。「預言者、〇〇から生まれる」…しかしその中に“ガリラヤ”はありませんでした。むしろ、「ガリラヤから何の良いものが生れるだろう」とさえ言われていました。ところが、その“ガリラヤ”から「救い主イエス」は生まれたのです。「まさか、そんなことが」というようなところから救い主は誕生したのです。それが聖書の語るメッセージです。わたしたち人間は都合よく考えるその愚かさを打ち破るようにして、神は救いの御業を起こされます。

2020-06-07(三位一体主日礼拝)詩編 8:2 - 10「なぜ神は人を顧みられるのか」 道家紀一牧師

人は何ものなので神は顧みられるのでしょう。これは、旧約聖書の詩人の疑問です。しかし、この問いは今も続いています。人は、時に、何ゆえに生きているのか分からなくなる時があります。落ち込んだ時、間違いを犯したとき、罪の苦しみにある時、自分の存在が消えかかる時があります。「こんな自分がなぜ生かされているのか」と。詩人は答えます。「神は、人を、ほんのわずかに、ご自分に劣る者として造られた」と。神は、したがって、わたしたちに期待を寄せておられます。神に従う健やかさに生きることを。主イエスがその希望です。

2020-05-31(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2:1 - 13「分裂を繕う聖霊の働き」 道家紀一牧師

聖霊降臨は、天に戻られた主イエスが、“約束の聖霊”を弟子たちに降り注がれた出来事です。弟子たちは、主イエスの約束を信じ切ることが出来ずに恐れと戸惑いの中にありました。人は見える“確かさ”の中で安心します。しかし、必ずしもそうとはならないときがあります。信じるしかないときがあります。「見ないで信ずる者は幸いである」と主は語られます。今、わたしたちは見えない不安(コロナウイルス感染症)の中にいます。しかし、もう一つの恐れることのない“確かさ”(聖霊)の中に生かされていることもおぼえましょう。

2020-05-24(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7:37 - 44「人生に渇く者が飲む水」 道家紀一牧師

神によって造られたと信じる(理解する)人が、次に望むことは、人を愛し、 人に愛される健やかな人生を過ごすことです。聖人君子のような生涯を送りた いと願うことです。もちろんそうなれば喜ばしいことでありますが、現実は必 ずしもそうとはなりません。人を思わず傷つける言動、他者の過ちを赦せない自分がいます。知らず知らずの内に犯す過ちもあります。罪という問題を解決できない限り、神によって造られた麗しい人生を送ることはできません。そのためには、主イエスが注がれる“生きた水”=聖霊を受けるしかありません。