• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020-03-22(受難節第Ⅳ礼拝)マタイによる福音書 17:1 - 13「今こそ神の声に聴く時」 道家紀一牧師

主イエスは、十字架に架かられる前に、「わたしはエルサレムへ上り捕えられ、鞭打たれた後、死に渡される。しかし三日の後に復活する」と弟子たちに語られました。しかし、弟子たちは理解できませんでした。そこで主イエスは、それを悟らせるために高い山に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて登られます。そこで主イエスは栄光の衣に包まれますが、それは復活の“先取り”でした。見終えた後、主イエスはペトロらに、今見たことを告げることを禁じられます。誤解を避けるためでした。十字架から復活という順番をまちがえないために。

2020-03-15(受難節第Ⅲ礼拝 日本伝道推進を祈る日)マタイによる福音書 16:13 - 23「神の前に出てはならない!」 道家紀一牧師

主イエスに問われたペトロは「あなたこそ救い主キリストです。」と答えます。大正解です!「あなたの上に教会を建て、“天の国へ入る鍵”を預ける」とさえいわれます。しかし直後に、主イエスが「わたしは、十字架に架かって死んで復活する」と語られますと、途端にペトロは主をいさめ始めます。「そんなことがあってはなりません」と。これは主の救いの道筋を曲げる行為です。神が思われる道筋と人が考える道とは異なっています。そのことが分からないとき、「サタンよ、退け」といわれてしまいます。神の前に出る行為となるからです。

2020-03-08(受難節第Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 12:22 - 32「神の働きを妨げるもの」 道家紀一牧師

古代イスラエルでは、病気など不幸な事が起こると「悪霊の仕業」としていました。悪霊の仕業=神の祝福を受けられない状態、という理解です。しかし、それは神は悪霊をも支配される力であられる、という信仰に真っ向から逆らう考え方です。神を神として信じていない者=自分中心に信仰を組み立てる者は、納得できない(治められない)事柄はすべて、悪霊の仕業に追いやって関わろうとしません。しかし主イエスなる神は、まさにそこに切り込んで来られます。悪霊をも統べ治める方として、神の力を信じない人間の罪を癒されるのです。

2020-03-01(受難節第Ⅰ礼拝)マタイによる福音書 4:1 - 11「神の言葉によって生きる幸い」 道家紀一牧師

わたしたちの主イエスは、まことの神であり、同時にまことの人です。それはこの世にあっては超人であった、ということではありません。むしろ、弱くて脆くて、そして罪深い一人の人間として、この世を歩まれました。しかし、「罪」を犯す方ではありませんでした。ただ、罪を抱えた一人の人間を“経験”された(味わわれた)ということです。主は、すでに罪に勝たれた方だからです。マタイ4章の「悪魔の誘惑」は“罪に打ち勝つ信仰者”の在り方(姿)を示しています。「退けサタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。

2020-02-23(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:52 - 59「キリストが来ました」 道家紀一牧師

初任地の四国で伝道していたとき、高知(土佐)で長く伝道している牧師から聞かされました。「土佐では“さかな屋”が来たとは言わないんだよ。“さかな”が来ましたと言うんだよ。この違いがわかるかい。キリスト教とキリストは違うと言うことなんだよ」と。人が信仰をもつには、キリスト教を学んでも身に着けても駄目だということです。キリストを信じなければ信仰に至りません。主イエスが言われる「わたしの血と肉を食べる者は永遠に生きて終りの日に復活する」とはそういう意味です。キリストに結ばれて生きる大切さのことです。

2020-02-16(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:41 - 51「命の定まり」 道家紀一牧師

旧約聖書の民は「救い主」を待ち望んでいました。しかし、そこで求められる救い主の像は、どうしても人間の考える領域(イメージ)を越えるものではありませんでした。主イエスは、そういったイメージとはかけ離れていました。「ガリラヤの大工のせがれヨセフとその母マリアの息子ではないか」と。神はあえて、この世の王や富裕な者ではなく、貧しく小さな人間の中に降り立たれました。それが神の愛と救いのメッセージです。世を生かすパン=キリストを信じるとは、世の価値観に惑わされない定まった人生を生きる“命の糧”です。

2020-02-09(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:34 - 40「本物の命に生きる」 道家紀一牧師

人は汗水たらして、蓄えて生活を安定させて、人生を組み立てます。しかし、その過程で、どうしても避けられないのが、罪と言う問題です。ある人は言います。「人は罪を犯しながら生きて行く」と。だからといって食べないわけにはゆきません。主イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることも渇くこともない」と。罪を犯しながら生きて行くその先にあるものは何かと言う問いです。生きるために犯す罪を赦された者が行き着く先は、神の命に生きる人生です。そこから来る生き方が問われます。

2020-02-02(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:28 - 33「天からパンを降らせる信仰』」 道家紀一牧師

わたしたちは思います。一生懸命信仰したら“健やかな人生”を送って最後は“神のもと”(天の御国)へ行けると。聖書の時代のユダヤ人もそう考えていました。神の戒めを滞りなく守り切った先に神の祝福が待っていると。信仰にそういう面があるのは確かです。しかしそれだけなら、人間の努力や修養によって神の祝福が決まることになります。主イエスはそうとは語りません。「天からの命のパンを降らせたのはモーセではなく神である。そのパンはわたしである」と。信仰とは、神からの賜物であるキリストを信じ受け入れることに尽きます。

2020-01-26(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:22 - 27「最後の1デナリを求めて」 道家紀一牧師

人として地上に生れたからには、出来る事なら人並みに、もしかしたら人並み以上に生きたいと思うのが常です。しかし実際、簡単なことではありません。生きるに窮し、人生に躓くことしばしばです。そんなわたしたちに主イエスは言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と。どんな人生を歩もうが、その人生は神が与えた命の営みであるかぎり、走り終わった先で「神の1デナリ」(永遠の命)が与えられます。

2020-01-19(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6:16 - 21「神と共に歩む旅」 道家紀一牧師

歴史の教会はしばしば自らを“舟”と例えて来ました。教会に集う一人ひとりの人生も船旅に例えて来ました。大切なことは船旅をする舟に「主イエスなる神」が乗っておられるかどうかです。神が乗っておられない舟に乗って出港することほど危険なことはありません。山に登って一人祈られる主イエスをおいて弟子たちは勝手に舟を漕ぎ出しました。案の定嵐に遭い、恐れ迷います。主イエスこそ分からなくなります。しかし主イエスは近づかれます。「恐れるな」と。そして、舟に乗り込んでくださいます。不思議にも、嵐は静まります。