異邦人の国日本はキリスト者でない人々ばかりです。家族も、職場も、学校も、地域も。そのような環境で、神に仕える「小さき者」(少数者であるキリスト者)がいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような反応を得ることが出来るかどうかが問われます。「どうせ話しても無駄だとか」「関心などもたいないだろう
」と諦めてはなりません。(教会の外にいる)人々の救いに関わることなのです。「永遠の命になど興味はない」とか「死んだらそれで終り」と呟いている人々からいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような関心を得られるか。それが、主イエスを伝道するということであり、一人でも多くの人を救いの真理(信仰)へ導くということになるのです。
自分の十字架を担うことを恐れ、担おうとしない者は、「自分の命を得ようとする」=「守ろうとする」者であると一蹴されます。その人は、結局は神から与えられている「命」(生きる生命そのもの)を失うことになるであろうと。たとえ命を長らえても、生きているようで死んでいる人生に過ぎないのだと。しかし、主イエスのために、少しでも、自分の十字架を担おうとする者は、神から与えられている命を全うして、人生を終え、永遠の命(神の命)の世界へ導かれるであろうと。神から与えられた命を、何のために用いるのか。神の愛と真理を証しするため、神の栄光を指し示すために、わたしたちは、喜んで、感謝して、命をささげてゆきたいと願います。「主よ用いてください」と。
「慰め」という言葉を聞くと「慰められる」という感傷的な響きを感じるが、そうではない。キリストと結び付けられる言葉である。キリストから与えられる「慰め」である。宗教改革期(16世紀)の有名な「ハイデルベルク信仰」の問1「唯一の慰めは何ですか」に対し「生きている時も死んでいる時もイエス・キリストのものである」と答えている。これはローマ14:8「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」に基づいている。友人の最期に見舞いをしたときに「体も魂も主のものです」と祈った。慰めという字は、心を「熨す」という意味がある。萎えた心を引き延ばすのが、キリストによる「唯一つの慰め」であることを確信したい。
わたしたちは最後に問われます。神を信じ、キリストを仰ぎ見て生きたのかと。世を恐れて、キリスト者であることを恥じて、過ごすことはなかったのかと。キリスト者は、最後の審判を恐れるべきです。主イエスに執り成していただけるような歩みを心がけるべきです。しかし気を付けるべきことは、神の恵みに応えて行くという姿勢です。
キリスト者らしい発言をしたとか、実践したとかいう積み上げ(功績)ではなく、ただひたすらに、神を恐れて、神の愛と恵みの支配の下に生きようと祈り努めた結果として、最後の審判のときに「あなたはわたしの仲間である」といっていただけるよう「恐れることなく、信仰が伴う人生と生活とを歩んで行くこと」です。
主イエスは、耐え忍ぶ者の「心構え」の言葉を残されます。弟子が師に勝ることがないように、僕が主人を超えることがないように、神には仕えるのだと。神を超えてはならないということです。信仰の道は、どこまでいっても、先立つ主の後ろ姿を仰ぎ見つつの歩みです。たとえ、その主がベルゼブル=十字架に架けられる罪人といわれようとも、その主を信じて、世の迫害に耐えて行くのが信仰者です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、『逃れの道』をも備えていてくださいます」(一コリント10:13)
ここで起こっている出来事は、「捨てて、拾う人生に変えられた3人」ともいえます。キリストに出会ったならば、これまでの自分の人生を脇へ置くのです。ある意味捨てるのです。そうした上で、神に仕える、神に従う人生に必要なものを、一つひとつと、主イエスの御名によって、拾い直してゆくのです。必要なものもありましょう。必要でなくなるものもありましょう。捨て切ってしまうにも祈りがなければ意味がありません。拾うにしても同じです。主に召され、主に従って行くのに本当に必要なものを身に着けたとき、わたしたちは、信徒教職区別なく、主の証し人となり、その生き方が、伝道者ともなっており、キリストの教会を造ってゆくのです。
神学校を卒業するときに伝えられた言葉があります。「教会で苦手な人はいても仕方がないが、嫌いな人はいてはならない」と。教会に生きる一人ひとりには間違いなく神の愛が注がれています。その神の愛によって一人ひとりは主と教会に仕えています。同じ一つの主を信じ、同じ一つの洗礼を授けられた者同士です。そのことを忘れて、悪しき人の思いにとらわれるとき教会は内側から壊れます。聖餐式に与かります。招集者はキリストです。全ての者が信じた一人の主です。いろいろな違いがあったり、ときに問題があったとしても、教会とそこに生きる者がなぜ一つなのかの「紛れもないしるし」です。この聖なる一致こそが、益々混迷する現代社会に求められていることであると信じます。
人間は人間の理屈を述べ立てて、神の救いは不条理だ(納得できない)と、叫びます。しかし救いのためには、神の裁き(審判)はさけられないのです。ですが、わたしたちの救い主キリストは、裁きに伴う様々な痛みと諸々の苦しみを十字架ですべて引き受けてくださったのです。(くださっています)そこに、キリスト教信仰の救いの恵みがあります。この恵みに支えられ、主を信じ、主のご用意のために遣わされてゆきましょう。
12弟子の中から、主イエスを裏切る者が出ます。イスカリオテのユダです。彼については、様々な解釈がありますが、それはすべて、人間の思いです。神の思い=主イエスのお考えではありません。思えば、イスカリオテのユダだけを責めるのもおかしなことです。その他の11弟子も全員、十字架の主イエスを置いて逃げ去ったのです。主を裏切ったのです。それでも、主イエスは、この12弟子を選ばれた。神の選びの不思議さを思うと同時に、わたしたち一人ひとりも、また、主の基準で選ばれて、ここに集っている一人ひとりです。そのことを思うとき、主の深い愛と恵みをも思わざるを得ません。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。「収穫は多い」とは、主の憐みを受け、真実な飼い主の下に取り戻されねばならない多くの人々がこの世にはいるということです。しかしその収穫を得るために働く人が少ないと。これは伝道者が少ないという意味ではありません。熱心に神に向かって、嘆きと悲しみと罪に満ちた地上に神の力が及ぶように、神に祈り願いなさい!と。実際の「働き手」はその祈りから呼び起こされるのだと。それは、祈ったあなたかもしれない。神さまがお決めになり、選びだされることです。教会とそこに集う一人ひとりが、神の収穫のためになすべき務めは、それはまず、祈りなのです。