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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年03月24日(棕櫚の日礼拝)マタイによる福音書 21章1節〜11節「エルサレム入城」 道家紀一牧師

エルサレムというこの世の権力が詰まった町に住んでいる人々は口を揃えていいます。みすぼらしい主イエスの姿をみて「これはどういう人だ」と。穏やかではないからです。世の楽しみと権力を手に入れても、魂の平安と神の国への切符を手に入れられない人々の叫びです。それに比べて主イエスを迎えている群衆は違います。「この方はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。この群衆が三日後には”心変わりする”と批判的な解釈がなされて来ました。ですが、救い主と明確に告白できなくとも、「預言者」として認める(気づく)ことから、救いの信仰は始まっていくのではないでしょうか。

2024年03月17日(受難節Ⅴ礼拝)マタイによる福音書 6章5節〜8節「主イエスを見出す道」 道家紀一牧師

主イエスは、具体的な祈り方についてお教えくださいます。異邦人とは本当の神を知らない人々という意味です。「父」と呼ばせていただけるような関係を作れていない者は、神への絶対的な信頼関係がないので、結果として、くどくどとした、言葉数が多い祈りになっているのだと。信頼関係がない間では空しい言葉がいたずらに飛び交うだけです。そういう祈りになってはならないと。神はすべてをご存じだから、祈らなくてよいのではないのです。全てをご存じだからこそ、なお一層わたしたちは、父なる神を信頼して、祈りをささげてゆくのです。祈りは「委ねること」でもあります。この方ならと信じて、祈るとき、思いもよらない神からの報いが与えられます。

2024年03月10日(受難節Ⅳ礼拝)マタイによる福音書 6章1節〜4節「神の報いと承認」 道家紀一牧師

善き業である施しをするにあたっては次のことを心がけねばなりません。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないために」と。右の手のすることを左の手に知らせるなとは不可能です。それほどにして人の目には触れないようにすべきであるという意味です。信仰らしい演技は止めなさいの教えです。

そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださると。隠れた業とはこっそりとではなく、観客を呼び込むような施しは意味がないということです。世には、演技をして、賞賛を得ることを顧みない働きをしている人々がいます。そういう人が、神から永遠の命という何ものにも代え難い報いを、神から間違いなく授けられるのです。

2024年03月03日(受難節Ⅲ礼拝)マタイによる福音書 5章38節〜48節「キリストに倣う道」 道家紀一牧師

ここでの主イエスの教えの帰結は、「天の父のように完全になる」です。それは神の愛そのものに包み込まれてしまうということを意味しています。しかし、それは本当に難しい道です。十字架の主イエスの後ろ姿を見失うことなく、歩み続けねばならない道だからです。主の背中には、鞭を打たれて肉が裂け、血潮が噴出しています。それはすべて、わたしたちの愛のなさであることを意味しています。罪そのものを背負われている主イエスの愛の背中を見つめ続けることによって、わたしたちは、キリストの愛を一歩一歩知ってゆくのです。

2024年02月25日(受難節Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 5章33節〜37節「然りを然り、否を否」 道家紀一牧師

主イエスは「神に対して誓ってはならない」とはいわれません。神のものとされているものの生き方のことです。誓いには願いや意志が入り込みます。それを神がどう判断なさるかは神に委ねるほかありません。願いは聞かれたかのように誓い始めてしまうという、神に「然り」と「否」をお聞きすることなく、都合や願いを一方的に神に押し付けるように誓い始めることによって引き起こされる「罪の問題」を指摘されるのです。神に対して誓いをするならば、神が然りと言われることにも神が否といわれることにも従う覚悟をもつべきであるというのが主イエスの教えです。その覚悟を身をもって示されたのが十字架の主です。そのことを、レントのときもう一度思い起こしたいと思います。

2024年02月18日(受難節Ⅰ:日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章27節〜32節「神の戒めでなく愛に支えられて」 道家紀一牧師

ファリサイ派や律法学者が、主イエスに厳しく批判されてしまった原因は「神の愛に応えて生きる」という姿勢を見失ったからです。むしろ、神の愛を手に入れるための手段として、厳しい戒めを守るという方向に向かってしまったのです。十字架に架かり、神の子としての命を投げ出すほどに愛を注いでくださった恵みにどう応えて行くのか?そのことを考えるレントでありたいと思います。

2024年02月11日(信教の自由を守る日の礼拝)ガラテヤの信徒への手紙 5章13節〜15節「キリスト者の自由」 道家紀一牧師

「信教の自由」から考えるわたしたちキリスト者の自由とは、自分を主語主体として、何を信じてもよいということとは違います。十字架のキリストが約束してくださった罪の赦しと永遠の命という報い以外には何一つ望まないという信仰から来る(信仰者の)応答による「自由な生き方」のことをさしているといえましょう。

2024年02月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章21節〜26節「怒りは遅く、和解は早く」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」のだと。それが神によるわたしたちへの総決算(最後の審判)です。しかし、そこから抜け出す一つの道があります。主イエスによる神への執り成しの御業を信じることです。十字架に架かられた主イエスは、わたしたちに対する神の裁きを一身に引き受けてくださいました。そのことによって、わたしたちは神へ怒りをぶつけるという愚かな罪から解き放たれて、神との和解の道へと進むことが可能となるのです。そして、そのような救いの恵みに包まれている者は、何事に対しても「怒るに遅く、和解は早く」という穏やかで健やかな人生を歩むことができます。

2024年01月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章17節〜20節「天地が滅びても滅びないもの」 道家紀一牧師

ファリサイ派や律法学者が犯した最大の過ちは「自分で義を立てる」ということです。神がご覧になってという視点の欠如です。自分たちは神に祝福されているという傲慢を主イエスは撃ち砕かれます。彼らと同じ過ちを犯しているならば律法を全うして、神の国へ入ることはないのだと。今日は多様な価値観や生き方が認められている一方息苦しさ感じているのは、自分で自分の義=正しさを証明しなければならないからではないでしょう。それは一人ひとりが自分で自分の義を立てねばならないという厳しい生き方です。キリストなる神以外に正しさはないという安心な基盤(土俵)の上で認め合う(赦し合う)ことがあってこその多様性ではないでしょうか。

2024年01月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章13節〜16節「地の塩 世の光」 道家紀一牧師

キリスト者が自ずと放つ神の愛と赦しの光を見て、世の人々は、天の父なる神をほめたたえるようになってゆくのだと、ただそのことのみを誇りとして、生きなさいと主イエスは教えられているといえましょう。立派なクリスチャンとは、人々から賞賛されるような人格者のことではありません。神の愛と赦し=キリストを立派に証している人のことです。それは難しいことではありませんが、厳しい道でもあります。ただひたすらに、いかなる事情にあろうとも、どんな状況にあろうとも、天を仰いで、神を信じることに徹することだからです。