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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2022年09月11日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 5章1節〜10節「偉大な大祭司 主イエス」 平澤基幸牧師

ヘブライ人への手紙は、主イエスを旧約聖書時代の大祭司になぞらえます。4章の後半から5章にかけて、そのことが語られます。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」と書きはじめ、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されているのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」と。罪の贖いの務めに当る大祭司が、自分を献げる仕方で大祭司となったのです。

2022年09月04日(振起日礼拝)ルカによる福音書 13章1節〜9節「神中心の道へ」 道家紀一牧師

「実を結ばなければ切り倒される」という神のご意志は変わることはありません。しかし、主イエスは、恐ろしい神のご意志の決済を、少しでも待っていただくために、十字架にひとりお架かりになられたのであります。この深い主の恵みを味わい知ったわたしたちは、ほんとうの悔い改めに導かれるはずです。洗礼を受けたということは、このキリストの恵みを受け入れて、常に神のもとに立ち帰ってゆく者(=悔い改める者)に変えられた、ということです。

2022年08月28日(主日礼拝)エフェソの信徒への手紙 4章1節〜6節「世界は教会になる」 道家紀一牧師

わたしたちは皆、一つの神=主を信じます。一つの信仰を告白します。そして同じ一つの洗礼を受けます。そのことによって、わたしたちの一切合切を統べ治めておられる神の支配を受け、その神の働きによって一人ひとりに与えられている賜物が生かされ、組み合わされて、キリストの体という教会が形造られ、それがモデルとなって伝道されるとき、世界は神の国となるのです。「世界は教会になる」ということが起こるのです。キリスト教が、公同信仰を信じる宗教であるということは、決して個々人の信仰に留まらない力をもっているということです。

2022年08月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 28章16節〜20節「神の愛と希望は尽きることがない」 道家紀一牧師

神を信じる者と教会(主の群れ)は、今何を祈り、何をすべきか迷いの中にあります。しかし祈るべきこと、すべきことは、ただ一つです。神の愛が今もここに働いていると信じ、そのしるしである洗礼を授ける命令に生きることです。一人でも多くの受洗者が与えられることを願って!「神の愛はここにある。その愛に基づく希望がここにはある」と、本気で信じて!神の存在を疑っている人、何をすべきか迷っている人に、神の愛を示し続け、洗礼へと導き続けて行きましょう。神の愛と希望は決して尽きることがないのですから。

2022年08月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 8章16節〜17節「実現される主イエス」 永瀬よしこ牧師

主イエスは、マタイによる福音書において、多くの人を癒やされる医者の如くに、描かれてきました。主イエスが世に遣わされたその目的は、天の父の愛の律法の完成のためでした。主イエスは、悔い改めを勧めます。私たちは、天の国へと国籍を移すためには、主イエスの教えを受け入れる事から始まるのです。そこには、イスラエルの民に留まらず、国籍、男女、階層などのこの世の枠組みの全てを超えて、解放が与えられるためです。主イエスは、十字架の苦しみを受けました。しかし、死を超えて私たちに福音を語られるのです。ですから、この神の国に入ることは、大きな希望なのです。

2022年08月07日(平和聖日礼拝)マタイによる福音書 5章9節〜9節「平和を実現する人々」 道家紀一牧師

神と争っている人は、自分と自分の人生を受け入れることができていません。神を恨んでいるからです。この自分を生み出した神のことを恨んでいるからです。そういう人は、周りにいつも戦争状態を引き起こしがちです。平和がないからです。自分を引き受けられてはじめて、わたしたちは平和を伝えられる者となれます。そのためには、わたしたちは、神の子としての身分、すなわち、神の創造物、神の作品であることを、取り戻さねばなりません。神の子に立ち帰る、あの放蕩息子が父のもとへ帰ったように、わたしたちも、父なる神のもとに立ち帰るとき、神の子としての身分を取り戻して、平和を実現する幸いな自分になれるのです。

2022年07月31日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 18章28節〜31節「真理に聞く勇気」 道家紀一牧師

“この世の”という文脈しか頭に無いピラトは“王”=支配者という言葉に拘ります。そして、主イエスに「とにかく王なのだな」という確認を迫ります。しかし主イエスは、それは「あなたがそう言っているのであって、わたしは一言も言っていない」私が言っているのは、「真理を証しするために来た」ということだけだ。あなたもそれを聞くのか聞かないのか、と問いかけるのでした。世の原理に振り回わされず、キリストの語る真理に耳を傾け、その真理に立つ勇気は、彼ピラトにはありませんでした。わたしたちがピラトから学ぶとすれば、この点でありましょう。世の言葉や原理に惑わされずに、キリストの語る真理に耳を傾ける勇気をもつことであります。

2022年07月24日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 18章19節〜27節「わたしを見なさい」 道家紀一牧師

主イエスは、十字架に架かられることによって、一方的に関係性を切り離してゆく人間の愚かさや弱さや罪深さを癒し(赦し)、わたしたちとの関係性を保ってくださるのです。後に、ペトロは、そのことを知る時が来ます。そして彼もまた、主のために殉教する最期を迎える人生を選び取ってゆくのです。主イエスは、わたしたちの潔さや逞しさを見られる方ではありません。わたしたちが抱えている弱さ、やるせなさ、矛盾…そして何よりも罪深さに目を留めてくださり、「それでもよい。わたしを見なさい」と声をかけてくださる、深い愛をもったお方です。

2022年07月17日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 18章12節〜18節「心の揺れと人間の脆さ」 道家紀一牧師

神の前に立とうとするが立てないのがわたしたちなのです。主を否認したペトロですが、それでも彼は、火にあたってその場を立ち去ろうとはしません。主を否みながらも、なおも、主を信じようとする姿が、そこにはあります。神を信じることにおける、心の揺れと人間の脆さを、ペトロは示しています。そんなわたしたちを丸ごと救ってくださるのが主イエス・キリストです。

2022年07月10日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 5章1節〜10節「救いのみなもとなる御子」 平澤基幸牧師

大祭司はすべて人間の中から選ばれました。彼は人間の罪の贖いのために犠牲の供え物をささげる務めに仕えていました。しかし大祭司も弱さをまとっている一人の人間でした。それゆえ、人を思いやることができたのです。そして、その弱い自分自身のためにも、罪の贖いの供え物をささげなければなりませんでした。それと同じように、いやそれ以上の方としてキリストも神によって選ばれ、人間を救う犠牲の供え物として自らをささげられ、永遠の救いの源となられました。