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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019-12-29(年末感謝礼拝)ヨハネの第一の手紙 1:1 - 4「礼拝に始まって礼拝に終わる」 道家紀一牧師

クリスマスにお生まれになったキリストは、ナザレの人イエスとして生まれました。まことの神がまことの人として地上に降り立たれたのです。インカーネーション(受肉)といいます。ヨハネの手紙は、この事実を伝えます。「わたしたちが目で見て、手で触ったものを伝えます」と。仮想の事柄でも作り話でもなく、天的な言葉(ロゴス)である神そのものが、人となってくださった、と言う歴史の事実を率直に伝えます。この聖なる事実に「命の言葉」が宿っていると。教会に伝えられていることは、この「命の言葉に満々ちた喜び」です。

2019-12-22(クリスマス礼拝)ルカによる福音書 2:1 - 20「救いの御子の誕生」 道家紀一牧師

クリスマスの出来事は人間の思いも、人間の努力も、そのすべてが力尽きたところから始まります。わたしたち人間は、大きいものが好きです。美しいものが良いと思います。それも人間の目線から言ってです。しかし神は、わたしたちの目線からではなく、天のまなざしを注がれます。小さな幼子イエスの中に、エルサレムではなく、小さな町ベツレヘムに、神は救いのしるしを与えられます。わたしたちは、そこにこそ目を留めねばなりません。羊飼いたちが天使の調べに合せてベツレヘムに向かったように。エルサレムではなく…。

2019-12-15(アドヴェントⅢ:待降節第三礼拝)ヨハネによる福音書 1:19 - 28「聞け、荒れ野から届く声を」 道家紀一牧師

教会の信仰は今のときを平安に暮らすだけの信仰ではありません。やがて訪れる最後のときへ向かう信仰です。個々人としては死に向かって、世界と社会は終末に向かって、祈る信仰です。わたしたちは積み重ねの上に事柄が形造られると考えます。しかし、最後まですべてのことを完結することは出来ません。完成は神が成し遂げてくださいます。いいえ、実は、最初から神の愛と恵みが注がれているのです。そして、最後のとき、その愛と恵みに気づいてどれだけ神のために生きたかが問われます。それから天の御国の扉が開かれるのです。

2019-12-08(アドヴェントⅡ:待降節第二礼拝)ペテロの第二の手紙 1:16 - 21「明けの明星が昇るときまで」 道家紀一牧師

罪の力が世界を覆っています。「キリストは明日には来られる」(マラナ・タ)は、世にある罪と世の不条理に苦しみ続ける信仰者の切なる願いと祈りです。ペトロの手紙が書かれた時代、教会の信仰に生きる多くの人々は「キリストは明日お出でになる」と信じていました。しかし、キリストはなかなか来られませんでした。キリストの再臨を待つ祈りは今も続いています。キリストが来られない理由は「人々が悔い改める時を待っているからだ」とペトロの手紙は語ります。日々預言の言葉(御言葉)を聞き違えることなく待つことが大切です。

2019-12-01(アドヴェントI:待降節第一礼拝)ローマ人への手紙 13:11 - 14「新しい時代が始まる前」 道家紀一牧師

いつの世の人々もいいます。「今の時代は暗い、将来が見えない」と。主イエスの時代もそうでした。しかし、ほんとうにそうでしょうか?罪に覆われている世は、いつも神からご覧になれば、暗い時代に存在しているのではないでしょうか。神は、そのために、独り子イエス・キリストを遣ってくださいました。朝の来ない夜はありません。神の恵みは常に備えられています。わたしたちは、この恵みの光をキリストに見るのです。アドヴェントはクリスマスを待ちつつ、神の時を待つことを学びます。救いの時は必ず来るとの信仰を学ぶのです。

2019-11-24(収穫感謝・謝恩日礼拝)ヨハネによる福音書 5:43 - 47「選ばれて生きる根拠」 道家紀一牧師

人はなぜ、そこに生れて生きるのでしょうか。考えても考えても答えはありません。それと同じように、なぜ今、わたしたちはイエス・キリストなる神を信じて、毎週礼拝をささげているのでしょうか。キリスト者(クリスチャン)になった理由は、人ぞれぞれありましょう。しかし、洗礼は人の決心だけではないのです。神による“選び”という「一方的な恩寵(恵み)」がなければ、人は神を信じる人にはなり得ません。人間の理由と根拠は違います。大切なのは、神によって選ばれ、今ここに信仰者として生かされているという根拠です。

2019-11-17(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 5:37 - 43「聖書から聴き取ること」 道家紀一牧師

聖書は信仰の依るべき正典であり、教会の土台です。会堂を建築するときや家を建てるときに「礎」として聖書を本当に埋めます。それは象徴的なことですが、イエス・キリストを信じる信仰の根拠は聖書です。しかし、聖書そのものが、信仰の土台となるわけではありません。聖書を通して証しされるイエス・キリストが、わたしたちに与えてくださる救いの恵み(十字架と復活の出来事)が、信仰の土台となるのです。「あなたがたは聖書の中に…」と主イエスがいわれていることはそのことです。聖書から何を聴くかが大事なことです。

2019-11-10(主日礼拝)ヨハネによる福音書 5:31 - 36「キリストを証しする愛の業」 道家紀一牧師

キリストはキリストご自身で完結される方です。人間の証明など必要はありません。しかしあえて、洗礼者ヨハネを引用されます。「彼は神の真理を示していた」と。ですが、人々はヨハネの証しする真理=イエス・キリストを捉え損ないます。主イエスは、もはや、ご自身によって、ご自身を証明するしかなくなります。それは、すなわち、わたしたちの罪深く愚かな人間を救うための愛の業=十字架と復活の出来事です。十字架と復活の業のみが、主イエスが父から遣わされた救い主なる御子キリストであることを指し示します。

2019-11-03(聖徒の日礼拝)ローマ人への手紙 6:1 - 11「軽やかな命の希望に生きる」 道家紀一牧師

キリスト教の歴史は教会の歴史です。格別、教会の信仰に生きた人々の歴史です。彼らのことを「聖徒」と呼びます。今彼らは眠っています。その日その時を待って。キリストが再び地上に降り立ち、私たち一人ひとりと、世界の全てについて“総決算”なさる日(最後の審判日)まで、彼らは眠っています。私たちもまた、定められた時に、彼らの列に加わります。死を迎えます。しかし、そこで終わることはありません。彼らと共に主の前によみがえって、永遠の命を得ます。この本物の命の希望に生かされて、軽やかな今があるのです。

2019-10-27(宗教改革記念礼拝)ヨハネによる福音書 5:19 - 30「人生の最期における大きな違い」 道家紀一牧師

宗教改革はルターの「塔の体験」から始まりました。当時のローマカトリック教会が発行していた免罪符に疑問をもった彼は大学の図書館で聖書を読み続けました。そして「キリストの恵みのみ」「キリストへの信仰のみ」「聖書のみ」という福音(救いの信仰)の真理を発見します。主イエスはいわれます。「私が父なる神の全てを示している(証ししている)」と。聖書を通してキリストのみを信じる信仰が、私たちを救いの真理(永遠の命の世界)に導きます。人生の最期において問われることは、ただこの一点のみです。