わたしたちも、毎主日、主イエスと共に、礼拝という高い山に上っています。そして、そこで、神の救いの計画の全貌を啓示されます。復活の主の栄光を見るのです。そして、山を下って帰ります。そのとき、主はいわれます。今見たこと(幻)は何であったのか、きちんと受け止められないうちは、誰にも語ってはならないと。すなわち、日常生活の中で、人生の中で、あなたは本当に「十字架と復活の主イエスは救いである」と告白してゆくことが出来てゆけるのか?そのことが毎主日、主イエスから問いかけられています。
このときにはまだ、弟子たちも初期の教会の人たちも、地上で立ち会えると思っていたことでしょう。しかし彼らも、その後の教会の先達たちも皆、地上の生涯を終えてゆきました。そして、今日のわたしたちがいます。主イエスは、ひょっとすれば、明日来られるかもしれません。そのとき、先に召された人たちと同じように立たされ「あなたはわたしのように十字架を担いだか」と必ず問われます。そのことには誰一人言い訳は出来ません。謙虚に神の前に申し出るしかありません。神の前に出ることなく、ひたすらにあなたの後ろ姿を追って、十字架を担って来ました。そう答えられるように、今からでも歩み直してゆきたいと思います。
主イエスが今日のような教会群を造ることを志されていたかは分かりません。主イエスがイスラエルにとわたしたちに伝えたかったことは「神の国の到来」です。ご自分が地上に遣わされたことによって、神の全き支配が始まったのだから、全ての人は、神の支配の下に戻らなければならない。そうすれば、神が望まれる平安なる世界(シャロームなる世界)が訪れるであろうということです。教会が、伝道し続けることの意味は、そこにあります。平和とか平安については、宗教以外にもいろいろな伝え方や造り方はありましょう。しかしわたしたち教会は、主イエスから託された「鍵の権能」(神の支配の下へ戻す権能)を行使することによって、それを達成するようにと召されているのです。
わたしたちは「救いのしるし」を求めます。「ああ、これが神の救いだ」と。しかし、ともすれば、それは、自分の思い込みや勘違い、あるいは、願望や希望に過ぎないかもしれないことに注意を払わなければなりません。わたしたちにとっての救いのしるしは、主イエスの十字架と復活=ヨナのしるし以外にはない。すべてのしるしは、それに基づいて判断していかなければならない、ということを、大切にして行きたいと思います。天からのしるし=神からのしるし、それは、十字架と復活!そこにいつも立ち帰りながら、信仰を整えてゆきましょう。
この奇跡は、さらに続いて行くことが、7つの籠に残ったパンくずが表わしています。神の祝福は、たった(男子)4000人で終わることはないのです。7つとは初代教会の7つの役職(聖なる職務)という説もあります。(真意は分かりません)弟子たちは神の祝福がいっぱい詰まった籠を携えて、主イエスの死後、異邦人伝道へと向かってゆくことになります。神はユダヤ人(イスラエル)の回復から、世と人をご自分のもとへ取り戻す救いの御業を始められます。しかし、その御業は、ユダヤ人(イスラエル)を越えて、さらに拡がっていったのです。わたしたちの日本にも、パンくずの籠を携えた宣教師たちが来て、神の救いの祝福が、日本各地に拡がっていったのです。
主イエスは、彼女を顧みられます。「婦人よ、あなたの信仰は立派」だと。元の言葉では「大きい」という意味です。今でいう「メガ」です。湖で沈みそうになって騒いだ弟子の小さな信仰と比べ何と大きな信仰でしょう。この話しを通して示されていることは、神には神の秩序があることをきちんと認めつつ、不平を述べずに神へ信頼を寄せて行く。そのとき、想像を超える奇跡が起こるのだ、ということです。教会はある種の危機にあります。社会も世界も、混迷の中にあります。神に不満を述べたい思いが募ります。しかし、それでも、神の救いの秩序を信じ、神に委ねて、そのときを縋るほどに待ち続ける、そういう信仰が今の時代は、求められているのではないでしょうか。
今、わたしたちの世界は、神の怒りの器になる寸前のところまで来ています。いつ神が忍耐を止めて、打ち壊されても仕方がないところまで来ています。しかし、神は、御子キリストの贖いの業(十字架と復活の出来事)によって、今に至ってもなお耐え忍んでくださっていると信じます。世界と人々が、憐みの器として取り戻される(造り直されるよう)篤き平和への祈りを携えて、御言葉の宣教(伝道)に仕え続けましょう。
米国に「サンデークリスチャン」という言葉が古くからあります。日曜日だけキリスト者のことです。週日は全く神から離れた生活をしていながら日曜日なるとクリスチャン顔をして教会に集うことを揶揄した言葉です。わたしたちも日曜だけのキリスト者になっていないか。よくよく考えてみる必要がありはしないでしょうか。
最後に、主イエスは、「食事の前に手を洗うことの無意味さ」を付け加えます。外面上、幾ら整えても、全く無駄であることを繰り返し、念を押すようにいわれます。「神はお見通しである」という畏れをもち、世と人を汚す言葉や行いではなく、世と人を救う(建て上げる:健徳的な)言葉と行いに祈り努めてまいりましょう。
主イエスはペトロを救い起こした後にこう言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。信仰が弱いと言われたのです。疑わなければ水の中に落ち込むことはなかったであろうと。これがわたしたち信仰者です。「主よ、ついてゆきます。どこまでも」と答えつつ、その瞬間から「主よ、無理です。お助けください」と叫び出す。この繰り返しの中に生きています。その中でも、主イエスは、わたしたちをしっかりと拾上げてくださいます。主イエスと共にペトロが船に戻りますと、たちまち逆風は静まります。信仰はあるのです。神を信頼したい思いもあるのです。それでも…というところにまで、主イエスは伴ってくださり、「信仰の薄い者よ」と叱りつつ、育ててくださるのです。
この話は、主イエスが、弟子たちに命じられたので、起こった奇跡ということには、注目したいと思いうのです。二匹の魚と五つのパンは、弟子たちが携えていたものです。少なくとも、伝道旅行には必要だと思って持参していたものです。二匹の魚と五つのパンは、わたしたちも教会も持っています。ただ、それが、主イエスがここぞと思われるときに、差し出すことが出来るかどうかということが、この話で問われていることではないでしょうか。伝道になど結びつかないと思い込んでいる、しかし、たしかに持参している、二匹の魚と五つのパン…主イエスの命に従って、それを差し出してみるとき、思いもよらない奇跡が起こるのだということを示されているように思います。