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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2017年04月30日(主日礼拝)ルカによる福音書 9章57節〜62節「」

キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる人には、あるイメージがあります。他者のために命を捨てる人です。「塩狩峠」(三浦綾子著)の「長野政雄」青年のように、多くの人を救うために、キリストと同じように十字架の死を選ぶと言う生き方です。しかし、多くのキリスト者(クリスチャン)はそこまで覚悟して信仰生活を送ることは出来ません。主イエスがわたしたちに求められる弟子の覚悟は、主以外のものとの関係に振り回されない本物の強さのことです。

2017年04月23日(主日礼拝)ルカによる福音書 9章51節〜56節「」

神を信じる人と信じない人とがいます。キリストなる神を信じる人と他の神を信じる人とがいます。神を信じる人は、そしてキリストを信じる教会は正義と愛が、自分たちの側にあると思います。そして、信じない人々を「裁きの対象」とします。「神を信じない人々」として退けます。しかし、そこに悲しい断絶が生れます。わたしたちは、主なる神に造られたものとしては一つなのです。同じ神の尊い作品として、互いにいがみ合ってはならないのです。

2017年04月16日(復活祭)マルコによる福音書 16章1節〜8節「」

人は死を恐れます。死を乗り越えようと生きています。しかし誰にも死は訪れます。どんなに栄華を極めようが人は必ず死にます。(必死という言葉には深い意味があります)ところが、その死からよみがえった方がおられます。救い主イエスです。十字架に架かり死んで墓に葬られた(陰府に落ちた)主イエスは、三日後に、父なる神の力によって復活されました。常識外れの出来事です。しかしそこに、罪の報酬としての死を乗り越える神の業が啓き示されてます。

2017年04月09日(主日礼拝)マルコによる福音書 11章1節〜11節「」

主イエスはエルサレムに入られます。その姿は馬にまたがった堂々としたものではなく、子ろばにまたがった弱弱しいものでした。しかし迎える人々は熱狂し、服を敷き、枝枝を敷き、迎えます。それは彼らの主イエスへの期待でした。ところが、その週の終り、同じ彼らが「十字架につけろ」と叫びます。彼らの期待が外れたからです。十字架に架かるような弱い主ではなく、力強い主を望んでいました。しかしそれは、主の御心ではありません。十字架が御心です。

2017年04月02日(主日礼拝)ルカによる福音書 9章49節〜50節「」

立川において本格的に朝礼拝をはじめて3年経ちました。この間、土地と建物を探し続けて行きました。しかし、「教会には売らない」とか「先に買われました」とか…いろいろなことがありました。「もうこの地での伝道は難しい」と思うような日々もありました。しかし主イエスはいわれます。「あなたがたに逆らわない者は味方である」と。思えば、ビルの一室を貸してくれる人もいます。土地を探してくれている人もいます。そうです。「町は味方です!」