新約聖書の始まりマタイによる福音書は「アブラハムの子イエス・キリストの系図」から始まります。なぜこのような系図から始めたのでしょうか。もっと読みやすい始まりの方がよいに決まっています。しかし、この系図には意味があります。神の長きに亘る「忍耐とご計画」が込められています。アブラハム、ダビデ、ソロモンと続く神が選ばれた人々、そして、その最後はヨセフ。このヨセフからイエス・キリストは生まれました。単純に計算しても2000年以上のときが流れています。神は人間の救いのためには待ち続ける神なのです。
一年の終りは、新しい一年の始まりでありつつ、確実に終りに近づいています。聖書で終りを意味する言葉は「主の日」です。テサロニケの人々は「主の日」を真剣に受け止めました。ところがその結果、「明日は主の日」「明後日は主の日」と勝手に決めてしまい、やがて「どうせ明日(明後日)来るならば」と、ある人は諦めはじめ、ある人は自暴自棄になりました。パウロはそれを戒めて、「キリストを信じるならば終りの日が恐ろしい裁きの日ではなく、救いの日となる」ことを説きます。十字架の主は裁き主であり救い主でもあるのだと。
終りの日=終末などと聞きますと、多くの人々は「世の終わり」というような“世の末”を思い浮かべます。しかし聖書の信仰は、違っています。聖書が語る世の終りは「神のわたしたちに対する総決算」の日のことです。神の愛によって生み出されたわたしたちは、神の愛によって導かれ続けます。しかし、神に従うことは出来ず、結局、罪を抱えたまま、最後の日を迎えます。その日、神は、わたしたちの行いの一つひとつを吟味され、「審判」をくだされます。その審判に耐えられるかどうかはキリストの贖罪の恵をしんじるかによります。
ときに主イエスは恐ろしいことをいわれます。「あなたの愛する人々を捨てて来なければわたしの弟子にはなれない」と。洗礼を受けてキリストの弟子となって生きて行こうとするとき、わたしたちは「何かを捨てる」ということは知っていますが、その何かは、出来る限り、自分の損失にならないようにと願います。しかし主イエスは「愛する者を捨てよ」といわれる。これは弟子の覚悟のことです。一度、わたしたちがしがみついている愛着あるものから離れて、キリストを信じる者として本当に必要なものを拾い直すことが求められます。
わたしたちは日々何かを選び取って生きて行かねばなりません。しかし何を選び取るかは、多くの場合、自分が損失を被らないようにということが先だちます。ところが、神を信じる者は違うのです。「キリスト・イエス」が基準だからです。神は最後のとき大宴会(神の国の宴)を開かれます。その宴がいつ開かれるかは神だけが知っておられます。その宴の招待を受けたとき=神の招きのとき、わたしたちはどう答えれたらよいのでしょうか?
それこそ、日々の選択が問われます。信仰によって、多くの中から何をどう選び取れるのかを。
聖書で語られる、あるいは教会で語られてきた「罪」とは、命の支配者である主なる神へ“言い逆らう”ことです。そして、その罪ゆえに、まことの命(命の尊さ)を失い、生きづらさを感じて疲弊し、また、あり得ない過ちを犯してしまうことがあるのです。救い主イエス・キリストは、この問題から解き放つために地上に遣わされて、十字架に架かって死なれました。十字架の上でわたしたちの愚かな命に生きる罪の体は滅ぼされ、新しい命によって生きる神の前に取り戻された体が与えられたのです。
宗教改革は、1517年のマルティン・ルターのヴィッテンベルグ城門に95の提題を貼ったことに始まりますが、そこに至るまでのルターの葛藤がありました。彼は神の義について、深く悩み続けていました。もしも神の義が現れたら、罪ある人間は死ぬしかない。救われることはないというジレンマから抜け出せなくなっていました。しかし、なお懸命に聖書 (ロマ書)を読み進める内に世紀の大発見をします。「キリストへの信仰のみに因って救われる神の義」です。神の義は神自らの命の犠牲によって示される救いの恵であったのです。
わたしたちの社会にはいろいろな会合・会議・宴席があります。そのとき困ることの一つは、どこに座ったらよいのか、ということです。いわゆる“上席”というのがあるからです。
はじめから上席に座ると叱られますし、かといって余りにも末席に座ると、もっと前の席へと勧められます。ちょうど好い加減の席などはありません。では、神が開かれる宴席に上座とか下座とかあるのでしょうか。あります。上座は天国に近い席です。下座は天国から遠い席です。しかし、どこに座れるかは、神を信じて生きた信仰によります。
安息日=礼拝日は、人間の休息日ではありません。神が“ひと息”入れられた日です。だから、人間も休むのです。この日は、神の御心がもっとも示される日でもあります。神の愛の心がよく分かる日です。ファリサイ派が形式的に守っていたように、日曜日に礼拝をささげても、そこに神の愛はありません。「自分の子どもや家畜が井戸に落ちたら助けないか」という神の子としての当然の愛の行為に訴えて、主イエスは安息日の本来の意味を問い返されます。神の子として神の愛を取り戻す日、それが安息日です。
神の都エルサレムは、神の都であり続けねばなりません。しかし、その歴史は残念なことに、神に逆らう歴史でした。神は何度も呼びかけます。「悔い改めて、立ち返れ」と。ですが、エルサレムは立ち返ることはなく、一度は滅びます。しかし神は、再び、これを、いいえ、何度でも建て直します。神の都は、地上の救いの基だからです。わたしたちの教会も、この都エルサレムにつながっています。この世の救いの基であらねばなりません。主イエスの嘆きの声、「ああ、エルサレム」と言われないように励みたいと願います