わたしたちの社会にはいろいろな会合・会議・宴席があります。そのとき困ることの一つは、どこに座ったらよいのか、ということです。いわゆる“上席”というのがあるからです。
はじめから上席に座ると叱られますし、かといって余りにも末席に座ると、もっと前の席へと勧められます。ちょうど好い加減の席などはありません。では、神が開かれる宴席に上座とか下座とかあるのでしょうか。あります。上座は天国に近い席です。下座は天国から遠い席です。しかし、どこに座れるかは、神を信じて生きた信仰によります。
安息日=礼拝日は、人間の休息日ではありません。神が“ひと息”入れられた日です。だから、人間も休むのです。この日は、神の御心がもっとも示される日でもあります。神の愛の心がよく分かる日です。ファリサイ派が形式的に守っていたように、日曜日に礼拝をささげても、そこに神の愛はありません。「自分の子どもや家畜が井戸に落ちたら助けないか」という神の子としての当然の愛の行為に訴えて、主イエスは安息日の本来の意味を問い返されます。神の子として神の愛を取り戻す日、それが安息日です。
神の都エルサレムは、神の都であり続けねばなりません。しかし、その歴史は残念なことに、神に逆らう歴史でした。神は何度も呼びかけます。「悔い改めて、立ち返れ」と。ですが、エルサレムは立ち返ることはなく、一度は滅びます。しかし神は、再び、これを、いいえ、何度でも建て直します。神の都は、地上の救いの基だからです。わたしたちの教会も、この都エルサレムにつながっています。この世の救いの基であらねばなりません。主イエスの嘆きの声、「ああ、エルサレム」と言われないように励みたいと願います
神の都エルサレムは、神の都であり続けねばなりません。しかし、その歴史は残念なことに、神に逆らう歴史でした。神は何度も呼びかけます。「悔い改めて、立ち返れ」と。ですが、エルサレムは立ち返ることはなく、一度は滅びます。しかし神は、再び、これを、いいえ、何度でも建て直します。神の都は、地上の救いの基だからです。わたしたちの教会も、この都エルサレムにつながっています。この世の救いの基であらねばなりません。主イエスの嘆きの声、「ああ、エルサレム」と言われないように励みたいと願います
礼拝をささげるのはただ神を賛美しているのではありません。礼拝をささげるとき、わたしたちは、「神の被造物」であることを思うのです。神の作品として造られていることを感謝して、本来の姿に立ち返らせていただき、神の愛を伝える者として、世に遣わされてゆくのです。礼拝をささげる教会は、かぎりなく神の国に近いのです。神に愛が満ち満ちています。その愛に触れた一人ひとりが、悪と罪に支配された世において、神の愛を満たしてゆくのです。神にあっては敵対する者は誰一人いないことを伝える。それが伝道です。
神を信じ、天の御国に入るには、“神のとき”を知らねばなりません。主は、それについて一つのたとえを話されます。「狭い戸口から入るように努めよ」とのたとえです。家の主人が思うような入り方をしなければその戸は永遠に閉められてしまうのだと。多くの人=わたしたちは思うのです。家の主人が戸を開けてくれるに相応しい“とき”を刻んできたのだと。しかし家の主人は言います。「知らない不法な者よ」と。わたしたちが神に従っていると思う“とき”と神が定められる“とき”には違いがあります。それを見分けねばなりません。
からしだねのたとえは、この伝道所の名前です。それははじめは小さくとも、やがて大きくなって木になる。多くの鳥がやって来て巣を作るような木になる、という話しです。からしだね伝道所も、そのような成長をしたいと名づけました。しかし、それは、一気に起こることではありません。毎日の、毎月の、毎年の、礼拝をはじめとする一つひとつの小さな働きの積み重ねです。どんなにつまらないと思えるようなことでも祈って仕えて行きたいと願います。その先に成長があると信じて。
長い間、病に苦しむ女性がいました。彼女は、病だけでなく、そのことから来る様々な苦しみにさらされていました。あらぬ中傷、貧困、偏見…これらは、この世の悪しき諸々の霊から来る“縛り”でした。彼女の人生を存分に苦しめていました。彼女は、神によって造られた健やかな姿を失っていました。
主イエスは、その女性を、あらゆる縛りから解き放たれました。彼女は自由になって神を賛美します。しかしその日は安息日でした。人々は批判します。他の日にしろと。しかしそれこそが、安息日に起こるべき回復の御業なのです。
わたしたちが信仰をもつに至ったのは、「悔い改めて」神に仕えるためです。しかし、いつの間にか、自分の幸せのための(身の保全のための)信仰になっているところがあります。ですから、不幸なことが起こったり、災いに遭ったりする人に向かって「信仰がないからだ」と心無い言葉を浴びせるようになります。しかし主イエスはいわれます。「悔い改めなければみな神の裁きに遭う」と。誰一人例外はないのだと。神は罪あるわたしたちを裁かれます。しかし、その裁きの苦しみは主が代わって受けて下さいます。そこに救いがあります。
わたしたちには固有名詞があります。生まれたら必ず名前をつけられます。その名前は生涯伴います。「○○○○」とこの世の様々な機関で登録されます。しかし神を信じる者は、そのような仕方とは異なる“覚えられ方”があります。
パウロは「あなたがたの国籍は天国にある」(フィリピの信徒への手紙3:20)と語りました。主イエスがいわれる「あなたがたのは名は天にしるされている」と同じです。あなたという存在の行き先は決まっているのです。だから安心して歩みなさいと主イエスは語ります。