長い間、病に苦しむ女性がいました。彼女は、病だけでなく、そのことから来る様々な苦しみにさらされていました。あらぬ中傷、貧困、偏見…これらは、この世の悪しき諸々の霊から来る“縛り”でした。彼女の人生を存分に苦しめていました。彼女は、神によって造られた健やかな姿を失っていました。
主イエスは、その女性を、あらゆる縛りから解き放たれました。彼女は自由になって神を賛美します。しかしその日は安息日でした。人々は批判します。他の日にしろと。しかしそれこそが、安息日に起こるべき回復の御業なのです。
わたしたちが信仰をもつに至ったのは、「悔い改めて」神に仕えるためです。しかし、いつの間にか、自分の幸せのための(身の保全のための)信仰になっているところがあります。ですから、不幸なことが起こったり、災いに遭ったりする人に向かって「信仰がないからだ」と心無い言葉を浴びせるようになります。しかし主イエスはいわれます。「悔い改めなければみな神の裁きに遭う」と。誰一人例外はないのだと。神は罪あるわたしたちを裁かれます。しかし、その裁きの苦しみは主が代わって受けて下さいます。そこに救いがあります。
わたしたちには固有名詞があります。生まれたら必ず名前をつけられます。その名前は生涯伴います。「○○○○」とこの世の様々な機関で登録されます。しかし神を信じる者は、そのような仕方とは異なる“覚えられ方”があります。
パウロは「あなたがたの国籍は天国にある」(フィリピの信徒への手紙3:20)と語りました。主イエスがいわれる「あなたがたのは名は天にしるされている」と同じです。あなたという存在の行き先は決まっているのです。だから安心して歩みなさいと主イエスは語ります。
コリントの信徒への手紙二12:1~10で、パウロは「わたしの身に一つのとげが与えられました」それは、「思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタン方から送られた使いです」と語ります。パウロはこの使いについては離れ去るように三度主に願いましたが、主の答えは「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われます。そのときパウロは、“弱いときこそ強い”という確信を与えられました。
人生には不満や不平があります。しかしそれを言い続けるだけではなく、一歩御前に進み出てみる。なぜ、このような人生を歩んでいるのか。神の憐れみの中で解き明かされることを祈り求めてみる。そこに、救いがあります。教会は、主キリストの御体です。肉を裂かれ、血を流しながら、わたしたちの弱さを受け入れ健やかに生きられるために、命を献げたキリストの命が満ちています。教会が語る福音の喜びの中に歩むとき、人生は、たしかなものとなります。
神を信じている人は、神を信じていない人のことを軽蔑とはいわないまでも、低くみる傾向(癖)があります。せっかく聖書の話をしているのに、教会へ誘っているのに、いっこうに関心を示さない人のことを、避けようとするところがあります。主イエスがいわれている「塵を払って町を去る」とは、神の言葉を受け入れない人を簡単に裁いてしまうこととは違います。伝えるべきことは伝えて、それでも受け入れない人は主に委ねなさい、ということです。
キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる人には、あるイメージがあります。他者のために命を捨てる人です。「塩狩峠」(三浦綾子著)の「長野政雄」青年のように、多くの人を救うために、キリストと同じように十字架の死を選ぶと言う生き方です。しかし、多くのキリスト者(クリスチャン)はそこまで覚悟して信仰生活を送ることは出来ません。主イエスがわたしたちに求められる弟子の覚悟は、主以外のものとの関係に振り回されない本物の強さのことです。
神を信じる人と信じない人とがいます。キリストなる神を信じる人と他の神を信じる人とがいます。神を信じる人は、そしてキリストを信じる教会は正義と愛が、自分たちの側にあると思います。そして、信じない人々を「裁きの対象」とします。「神を信じない人々」として退けます。しかし、そこに悲しい断絶が生れます。わたしたちは、主なる神に造られたものとしては一つなのです。同じ神の尊い作品として、互いにいがみ合ってはならないのです。
人は死を恐れます。死を乗り越えようと生きています。しかし誰にも死は訪れます。どんなに栄華を極めようが人は必ず死にます。(必死という言葉には深い意味があります)ところが、その死からよみがえった方がおられます。救い主イエスです。十字架に架かり死んで墓に葬られた(陰府に落ちた)主イエスは、三日後に、父なる神の力によって復活されました。常識外れの出来事です。しかしそこに、罪の報酬としての死を乗り越える神の業が啓き示されてます。
主イエスはエルサレムに入られます。その姿は馬にまたがった堂々としたものではなく、子ろばにまたがった弱弱しいものでした。しかし迎える人々は熱狂し、服を敷き、枝枝を敷き、迎えます。それは彼らの主イエスへの期待でした。ところが、その週の終り、同じ彼らが「十字架につけろ」と叫びます。彼らの期待が外れたからです。十字架に架かるような弱い主ではなく、力強い主を望んでいました。しかしそれは、主の御心ではありません。十字架が御心です。