主イエスが天に戻られた後、弟子たちは母マリアをはじめ婦人たちと祈っているとき、突然激しい風が吹き始め、炎のような舌が、天から吹き荒れます。ルカが描く、ペンテコステの出来事です。わたしたちの想像を超える物凄いことが起こったのでしょうか?聖霊は、優しい風でも、和みの息でもありません。人をして、主イエスの赦しの福音の信仰に生きる力を与えるものです。弱弱しい霊ではありません。教会とそこに生きる一人ひとりは、天から注がれる、この力強い聖霊によって生み出され、支え続けられるのです。
主イエスは復活なさった後、40日間弟子たちのところにおられました。しかし復活された主は、もはや地上の身体ではなく、天の身体(御体)です。長く地上に留まることは出来ません。そこで、主は、天に戻られる時が来ます。そのとき、約束をなさいました。「わたしが天に戻った後、約束の聖霊が降って地の果てまで“証し人”になるであろう」と。教会の始まりの約束です。すなわちペンテコステの予告です。その後、天の主は戻られます。しかしこの主は再び地上に来られます。そのときまで証し人として生きるのです。
ときに主イエスはドッキッとすることを言われます。「死体のあるところに禿鷹が集まるであろう」と。これは、終わりの日の様子について語られた最後の言葉です。わたしたちは、目に見えて、手で触って、確かめられる時間の中に生きています。そして一喜一憂しています。自分の人生も世界の行く末も、この時間の枠の中でしか考えません。しかし神(キリスト・イエス)にあっては、もう一つの時間=神の時を備えておられます。多くの人は(信仰者でさえも)これを知ることなく、最期のときに「そうだったのか!」と気づかされます。
聖書(福音書)にはキリストの癒しが数多く書かれています。福音書を編集した人々は、たくさんの主イエスの癒しの言い伝え(伝承)を知っていたのでしょう。福音書の記事のところどころに書き記してあります。しかし主イエスはなぜ癒しをなさったのかについて、わたしたちは誤解してはなりません。主は奇跡を見て信じることを求められたのではありません。奇跡は神の力のしるしです。わたしたちは、この神の力の凄さを、奇跡を通して知るのみです。神の力の真髄は、罪の癒しです。その癒しによって健やかな人生を築くのです。
人生の中で一番難しいことは「赦し」です。他者に傷つけられた。自分を嫌いになる。人は、赦しを実行できなくて苦しみます。主イエスはいわれます。「悔い改めるなら赦しなさい」と。もしそれが出来なければ、「首をひき臼に縛られて海に投げ込まれる方がましだ」と。それはあなたにとって“もっとも小さな人”をつまずかせることになるからであると。赦せない他者は“小さな人”です。嫌な隣人、不利益を被らせてくる人、…みな“小さな人”です。主にまず赦されている幸いに感謝し、赦しの信仰に生きることがもとめられています。
ルカによる福音書の中でも分かり易い話です。金持ちは陰府(地獄)へ、貧しいラザロは天国へという話しです。しかし主イエスは、そんなこと(因果応報とか宿命論)を語るために話されたのではありません。神の国へ入るのは、神のみがお決めになられるということです。そこには人の事情や思いが入る余地はまったくありません。金持ちであったとか貧乏であったとか…実はどうでもよいことなのです。神が、その人の人生をご覧になって、お決めになられるのです。わたしたちに出来ることはひたすらに御言葉に聞くことだけです。
神の国へ入りたい!永遠の命(神の命)を授かりたい!神を信じる者の偽らざる願いです。課題は、ではその道は(方法は)ということです。神を信じる者は神に頼るのが本筋です、ところが、そこでわたしたちは間違うのです。この世の原理と同じように、信仰の原理も進められると思うのです。人の目に立派と映る信仰が、神の国へ入る資格になり得ると思い始めます。一生懸命に奉仕をしている、礼拝を休まない、献金を献げている、当然のことが人間の努力にすり替わります。十字架と復活の主のみが与える信仰を忘れてはなりません。
人はどんなに栄華を誇っても必ず死にます。死だけはどうしても乗り越えられない“人生の壁”です。死を乗り越える力は、わたしたち人間にはありません。十字架の死からよみがえられた復活の主の御力によります。「主は十字架にかかって死なれたが、復活なさってここにはおられない!」主イエスを死を乗り越えられた方として、信じられるかどうかにかかっています。そのためには、主イエスとわたしたちとの間にある大きな罪の石=主イエスの墓を塞いだ大きな石を除かねばなりません。それを取り除くのも、神の御力⇒信じる力です。
洗礼を受けて神の国を目指すのがキリスト者の歩む道です。課題はその道を何に根拠を於いて歩むかです。多くの人が間違った歩みをしてしまいます。救いを得る根拠を、十字架のキリストではなく、自分の自助努力においてしまう過ちを犯します。わたしたちが、真実救われて、神の国に入り永遠の命授けられるのは、ただ一つの道、十字架のキリストを一心にみつめて歩み続けること以外にありません。多くの歓声をもって迎え入れられた主イエスは、王座に就くのではなく十字架に架かられるため、エルサレムへ入城なさったのです
キリスト教に触れて信仰をもち、洗礼を受けて教会の生きた肢として生きる。それはいったいぜんたいどういうことでありましょう。この世でいささかでも称賛を浴びるような人として生きることでしょうか?ヤコブとヨハネは、主に申し出ました。「あなたが神の座に着かれるとき、わたしを右に、わたしを左に」と。彼らは、主イエスのこの世での栄光に着きたい願望をもっていました。しかし主イエスはいわれます。「それを決めるのはわたしではない」と。主の十字架の後ろ姿に従う者のみが、栄光の座に着くことができるのです。