人はどんなに栄華を誇っても必ず死にます。死だけはどうしても乗り越えられない“人生の壁”です。死を乗り越える力は、わたしたち人間にはありません。十字架の死からよみがえられた復活の主の御力によります。「主は十字架にかかって死なれたが、復活なさってここにはおられない!」主イエスを死を乗り越えられた方として、信じられるかどうかにかかっています。そのためには、主イエスとわたしたちとの間にある大きな罪の石=主イエスの墓を塞いだ大きな石を除かねばなりません。それを取り除くのも、神の御力⇒信じる力です。
洗礼を受けて神の国を目指すのがキリスト者の歩む道です。課題はその道を何に根拠を於いて歩むかです。多くの人が間違った歩みをしてしまいます。救いを得る根拠を、十字架のキリストではなく、自分の自助努力においてしまう過ちを犯します。わたしたちが、真実救われて、神の国に入り永遠の命授けられるのは、ただ一つの道、十字架のキリストを一心にみつめて歩み続けること以外にありません。多くの歓声をもって迎え入れられた主イエスは、王座に就くのではなく十字架に架かられるため、エルサレムへ入城なさったのです
キリスト教に触れて信仰をもち、洗礼を受けて教会の生きた肢として生きる。それはいったいぜんたいどういうことでありましょう。この世でいささかでも称賛を浴びるような人として生きることでしょうか?ヤコブとヨハネは、主に申し出ました。「あなたが神の座に着かれるとき、わたしを右に、わたしを左に」と。彼らは、主イエスのこの世での栄光に着きたい願望をもっていました。しかし主イエスはいわれます。「それを決めるのはわたしではない」と。主の十字架の後ろ姿に従う者のみが、栄光の座に着くことができるのです。
ガリラヤでの伝道活動のある日、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登りました。頂上に至った時、主イエスの姿が変貌しました。白く輝き始めました。そしてその両脇には偉大な預言者エリヤと指導者モーセが見えました。ペトロたちは驚きつつも、この輝きをそのままとどめようとします。しかし神は「わが子に聴け」と告げます。主イエスは「十字架の死と三日後の復活」を語ります。神の救いの栄光は十字架の死を経た先にあると主は語られたのです。十字架のない復活は、本物の赦しの恵ではありません。
神を信じるようになりますと、いろいろ“お願い”をしたくなります。「神さま、あのね…」となります。しかし、なかなか神さまが答えてくださらない、あるいは、自分が願った通りにならない、ということがあります。そのとき、「自分の祈りが間違っていたのかも」と思えればよいのですが、なかなかそうとも行きません。「もういい、思う通りにしよう」と思うことがあります。しかしそのときまさに「神の前に出る」という罪を犯します。主イエスのペトロに叱責「サタンよ去れ」とは、神の前に出る罪を戒めているのです。
主イエスの働きは聖霊の御力でもあります。しかし多くの誤解する人々がいます。悪しき霊によって、不思議な御業を行っているに違いないと。イエスが神の子キリストであることを認めない人たちです。主イエスは言われます。「神とわたしを冒涜する罪は赦されるが、聖霊を冒涜する罪は赦されない」と。神の働きそのものである聖霊の働きを認めない者は、神とキリストを拒む者より罪が重いと言うのです。どんなにキリストを否定する人がいても構いません。しかし、神の赦しの働き=聖霊の御力を拒むことは出来ません。
受難節(レント)を守る習慣は、古代教会からありました。イースター前の40日間です。ただし、主の復活日である主日は除きました。この期間はまた、洗礼準備の期間でもありました。心身ともに神の前に清めて洗礼を受ける備えに入るのでした。洗礼を既に受けている者も、思い起こして、神の前に赦されている幸いをおぼえるのでした。この40日は、マタイによる福音書4章にある「悪魔の誘惑」に主イエスが40日40夜遭われたことに起源があります。主イエスは、そこで、「ただ神の御言葉によって生きる幸い」を示されました。
不正にまみれたお金で友を作る!?そんな話が聖書の中に、しかもイエス様の話として書かれています。本当なのでしょうか?キリスト教は、そして聖書は、「清く、正しく、美しく」を勧めるものであって、間違っても不正なお金の話など、ましてや、それを使って友だちを作りなさいなど、信じられる話ではありません。しかし聖書には書かれているのです。イエス様は次のことを教えられたのではないでしょうか。「『肉の体を持って地上を生きる限り罪は犯す』しかし、それでも、罪にまみれながら、赦されつつ生きるのが人間である」と。
聖書の中でとても有名な話です。「放蕩息子」の話です。絵画や小説など芸術の世界でもたくさん描かれています。往々にして、話の焦点は「放蕩した息子」に当てられますが、本当の主題は「父なる神の愛」です。どんなに愚かで失敗の連続をしている者も、神は本気で赦し、受け入れてくださる。神の測り知れない深い愛が、この話の父です。この父にはもう一人息子がいました。堅実な兄です。彼は赦された弟を受け入れません。そして父の愛も理解できません。しかし父は、この兄も変わらない息子として愛しているのです。
使徒パウロは、ローマで弁明するために、囚人たちといっしょに舟に乗せられました。ところが、暴風雨に遭い(こういうことはしばしばありました)、舟が難破してしまいます。囚人を管理していた兵士は、逃亡をおそれて、囚人を殺すと計ります。ところが、全員を率いていた百人隊長は、それを思い留まらせて、全員を助けます。ここにパウロの言葉はありません。しかしパウロは、「主イエスの言葉」に留まり続けていたと思います。「わたしは必ずローマに行かねばならない」との信念を、神はあらゆる形で支えられるのです。