裏切の合図は“接吻”でした。イスカリオテのユダは、主イエスに近づき接吻しました。それを合図に、捕える者たちが押し寄せます。そのとき、気が動転した弟子の一人が“剣を振り回します”。主を信じ従おうとする者の勇敢さからではなく、主を見失う(主が奪われる)ことへの恐れから出た行為です。罪の諸々の勢力が押し寄せて来るとき、わたしたちは人間業で愚かな剣を振り回してはなりません。救い主キリストの言葉(御言葉)に聞く他ないのです。主は言われます。「もうよい剣を納めなさい」と。それが主の命令の言葉です。
キリスト教信仰の祈りはただの気休めでも納得でもありません。自分の(人の)思いと神の思い(御心)とが切り結ぶ接点です。天にまなざしを向けて祈る時、そこに神の“まなざし”が注がれます。しかしわたしたちは、そこで抗います。なぜなら、自分の思いと神の思いとの違いに気づかされるからです。しばしば神のお考えはわたしたちのそれとは違います。主イエスも血の汗が滴り落ちるほど祈られました。神の御心は十字架だったからです。「主よわたしの思いではなく御心のままに」そこまで祈り切った後は、晴れ渡った道が啓き示されます。
人間の決心ほど怪しいものはありません。「死んでもついてゆきます」と言いながら、何人の人が裏切ったことでしょう。シモン・ペトロもその一人に数えられます。「牢屋に繋がれても、死んでも従います」と誓ったにもかかわらず、主イエスを見捨てて逃げ去ります。しかし主イエスは裏切りを予告されます。予告されるだけではなく、「立ち直ったら兄弟を励ましなさい」と言葉を続けます。たとえ裏切ったとしても、主は命を懸けて立ち直らせるという救いの言葉です。教会の関係(弟子と先生)が続いているのはここに基礎を置いているからです。
人の世に「裏切り」は付き物です。信仰においてはどうでしょう。神を裏切る、それだけはしたくないと思っています。人の世の裏切りに疲れた者が神を信頼して信仰をもつからです。しかしなお、そこにおいても起ってしまうのが人間の罪です。しかも「神を裏切る」という最悪の事態を招きます。神の裏切りは神の子の死に直結します。御子キリストは、裏切りに遭って、十字架の上で息絶えたのです。しかし主イエスなる神は、その裏切る人間を信頼され、罪の赦しの権能を授けてくださり、終わりの日、共に治める祝福を約束されます。
わたしたちは一度きりの人生を歩みます。まっすぐに伸びた直線の上を歩んでゆくように。しかし、そのまっすぐに伸びた線上を間違うことなく歩むことが出来ているかというならば、それは甚だ疑問です。線上をはずれます。神は、創めに私たち人間を造られたとき、神が敷かれた線の上をまっすぐに歩んで行くことを期待されました。しかしその期待を裏切ったわたしたちは行き場を失う定めにあります。天と地の間にある空中と言う悪しき勢力の中に放り出されます。しかし神はそこから御子キリストによって救い出して下さいます。
神がお造りになられた世界と人には終わりがあります。一人ひとりの人生には終止符が打たれます。世界の歴史には終焉があります。聖書の時間は東洋的な輪廻による世界観(人生観)ではなく、一直線に進んでゆきます。その先には、永遠なる神の国が備えられています。ですから、神の創造を信じる者は、何一つ恐れることなく、まっすぐに永遠の命の門に向かって進むだけです。ヨハネは、黙示録の最後で、諸々の悪しき勢力を滅ぼされた後に、天から降りてくるエルサレムについて記します。それはわたしたちが確実に行き着く世界です。
主イエスの誕生を知った東の国の学者は、エルサレムへやって来ます。彼らを導いたのは「星」でした。しかし、エルサレムの上で、彼らは見失います。神の救いを期待しなくなったエルサレムの人々の声にかき消されたのでしょうか。しかし、再び、星は輝き始めます。そして、学者たちをベツレヘムへと導きます。神は、すでに救いを知っている者ではなく、まだ救いを知らない未知の人々を用いて、救いの御業を起こされます。それは、密やかな形で。救いの御子、キリストは、世の喧騒とは無関係に見知らぬ人々によって見出されます。
世界で最初のクリスマスは、意外な知らせとしてもたらされます。東の国からの博士たちが、神の都エルサレムを訪れます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と問いかけます。しかし、これに答えられる者は誰一人おりませんでした。自分たちに真の王が生れたというのに、エルサレムには誰一人そのことに気付く者はいませんでした。それどころか、ヘロデ王は自分の地位を脅かす危険な存在として殺そうとさえ企みます。そんなこととは知らずに博士らは、星に導かれ救い主キリストに会いにベツレヘムへ行くのでした。
イエス・キリストの誕生には数々のドラマ(場面)があります。天使の歌声、羊飼いの調べ…。しかしその中でも、静かに書かれたドラマがあります。父となるヨセフの祈りです。彼は、母マリアの夫として、神に対して誠実に事柄を受け入れ、キリストの父となります。ですが、そこに至るまでは、隠された激しい祈りの闘いがありました。“聖霊によってみごもった”にわかには信じられない事柄、それゆえに神を信頼して祈る他ない事実に、ヨセフは向き合い続けました。その結果が、マリアをそのまま受け入れるという聖なる決断でした。
新約聖書の始まりは「イエス・キリストの系図」です。「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移住されてからキリストまで14代」少なく見積もっても1000年以上の年月を経ています。神が、アブラハムとその家族、さらにはイスラエルを通して、全ての人間を救おうとなさってから1000年以上も経て、ようやく救い主キリストがお生まれになられたのです。この長さは、神の怠慢ではありません。神のわたしたち人間に対する忍耐の長さです。