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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年12月16日(アドヴェント:待降節Ⅲ礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜8節「キリストが生まれる町」 道家紀一牧師

世界で最初のクリスマスは、意外な知らせとしてもたらされます。東の国からの博士たちが、神の都エルサレムを訪れます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と問いかけます。しかし、これに答えられる者は誰一人おりませんでした。自分たちに真の王が生れたというのに、エルサレムには誰一人そのことに気付く者はいませんでした。それどころか、ヘロデ王は自分の地位を脅かす危険な存在として殺そうとさえ企みます。そんなこととは知らずに博士らは、星に導かれ救い主キリストに会いにベツレヘムへ行くのでした。

2018年12月09日(アドヴェント:待降節Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「ヨセフの決断」 道家紀一牧師

イエス・キリストの誕生には数々のドラマ(場面)があります。天使の歌声、羊飼いの調べ…。しかしその中でも、静かに書かれたドラマがあります。父となるヨセフの祈りです。彼は、母マリアの夫として、神に対して誠実に事柄を受け入れ、キリストの父となります。ですが、そこに至るまでは、隠された激しい祈りの闘いがありました。“聖霊によってみごもった”にわかには信じられない事柄、それゆえに神を信頼して祈る他ない事実に、ヨセフは向き合い続けました。その結果が、マリアをそのまま受け入れるという聖なる決断でした。

2018年12月02日(アドヴェント:待降節Ⅰ礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「イエス・キリストの系図」 道家紀一牧師

新約聖書の始まりは「イエス・キリストの系図」です。「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移住されてからキリストまで14代」少なく見積もっても1000年以上の年月を経ています。神が、アブラハムとその家族、さらにはイスラエルを通して、全ての人間を救おうとなさってから1000年以上も経て、ようやく救い主キリストがお生まれになられたのです。この長さは、神の怠慢ではありません。神のわたしたち人間に対する忍耐の長さです。

2018年11月25日(収穫感謝日・謝恩日礼拝)詩編 1章1節〜6節「幸いな道を歩む人生」 道家紀一牧師

人は生まれたからには“幸いな人生”を歩みたいと願います。しかしその歩みを確実にするものは何でしょう?お金ですか?地位ですか?地上のこれらのしるしは何一つ“幸いな人生”を歩むことを保証するものではありません。どんなに幸せだと感じていても、明日は分かりません。死が訪れるかもしれません。思いもよらない災いが降りかかるかもしれません。神を信じていても信じていなくても苦難(幸いを阻害するもの)は来ます。詩人は詠います。「御言葉に聞く者は幸いである」と。神の言葉が人生の苦難と災いからあなたを守ります。

2018年11月18日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章14節〜20節「教会に流れている血」 道家紀一牧師

主イエスと弟子たちの最後の晩餐は、イスラエルの伝統的な行事「過越祭」の中で行われました。それはエルサレムの町の中の一軒家の二階の部屋でした。主は伝統的な過越祭に則りながら、新しい意味を付け加えました。それは犠牲の小羊は神の小羊にとって代わるということでした。すなわち、十字架の主の犠牲による「罪の赦し」=罪からの解放です。わたしたち人間は神以外の諸々の悪しき事柄=罪の事情に縛られています。それがわたしたちの不自由(罪の奴隷状態)にします。主イエスの犠牲は、それからの解放の出来事です。

2018年11月11日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章7節〜13節「備えられた子羊」 道家紀一牧師

主イエスは敬虔なユダヤ人です。したがって、ユダヤの祭り(過越祭 初穂祭収穫祭)には、慣習にしたがって、儀式を行いました。その中でも最も重要な祭りは過越祭でした。主イエスは、今、弟子たちと共に祝おうとされています。その準備にペトロとヨハネが遣わされます。「既に用意されている」その言葉を信じて準備に向かいます。すると主イエスの御言葉通りに全てが準備されていました。それが最後の晩餐となります。救い主イエスは、全てのことを準備なさって自ら犠牲の小羊(備えられた小羊)となられようとされるのです。

2018年11月04日(聖徒の日礼拝)ヘブライ人への手紙 13章7節〜16節「栄光は地上の栄華の外に」 道家紀一牧師
「町の門の外」そこは、社会の外でもありました。その昔エルサレムの町の外に住む人、外に葬られる人は、”社会の外”として故意に退けられた人々でした。ヘブライ人への手紙は語ります。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出てそのみもとに赴こうではありませんか」と。主イエスもまた“外に”捨てられた人として生きた人です。世の誉と栄華の中を生きられたのではなく、正反対の中を生きられて、最期は人々の嘲りと嘲笑の中死んでゆかれました。そのイエスに倣って生きることが勧められます。
2018年10月28日(宗教改革記念礼拝)ルカによる福音書 22章1節〜6節「サタンが入った!」 道家紀一牧師
「サタンが入った」と.イスカリオテのユダをさしてルカ福音書は記します。聖書の中で謎の多い人物の一人です。なぜ主イエスに従いながら、12弟子の一人と数えられながら、主を裏切ることになったのか…キリスト教会2000年の歴史で何度も何度も、あるいは何人も何人もが解釈して来ました。しかし、答はそこにはありません。ルカの(聖書の御言葉=神の言葉)が答なのです。神ご自身が「サタンが入った」と言われるのです。この言葉の意味の重さを考えさせられます。神の似姿であるわたしたち誰にも起こり得ることだからです。
2018年10月21日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章29節〜38節「終りは救いの始まり」 道家紀一牧師
「天地が滅びるときが来る。」考えにくいことですが、地上の、そして人生の終りは必ず来ます。しかし、神を信じる者にとって、その日その時は、ただ恐ろしい“最後の日”ではありません。いやむしろ、神が総決算をした上で、真の救いを実現される日です。その救いに与れるかどうかは問題ではありません。それは神の選びによる事柄だからです。わたしたちがなすべき務めは、諸々の出来事の中にあっても、「神を拝む」=礼拝をささげ続けてゆくことです。その礼拝の中に、再臨の主は降り立たれます。そこに救いは実現するのです。
2018年10月14日(神学校日礼拝)ルカによる福音書 5章1節〜11節「すべてを捨てて主に従う」 道家紀一牧師
「すべてを捨てて主に従う」すばらしいことです。ペトロもヨハネもヤコブも網を捨てて主イエスに従って行きました。今日、これを献身といいます。本日は日本基督教団が定めている「神学校日」です。主の御用のために身を献げて仕える道を選んだ人たち(献身者)をおぼえて祈りを合わせます。しかし教会にもっぱら仕える人だけが献身者ではありません。主に召しい出されて洗礼を受けた人はみな献身者です。洗礼を受けるとき捨てるのは、それまで自分を支えて来た古い我です。今度は新しくその我を拾い直して主に仕えてゆくのです。