「サタンが入った」と.イスカリオテのユダをさしてルカ福音書は記します。聖書の中で謎の多い人物の一人です。なぜ主イエスに従いながら、12弟子の一人と数えられながら、主を裏切ることになったのか…キリスト教会2000年の歴史で何度も何度も、あるいは何人も何人もが解釈して来ました。しかし、答はそこにはありません。ルカの(聖書の御言葉=神の言葉)が答なのです。神ご自身が「サタンが入った」と言われるのです。この言葉の意味の重さを考えさせられます。神の似姿であるわたしたち誰にも起こり得ることだからです。
「天地が滅びるときが来る。」考えにくいことですが、地上の、そして人生の終りは必ず来ます。しかし、神を信じる者にとって、その日その時は、ただ恐ろしい“最後の日”ではありません。いやむしろ、神が総決算をした上で、真の救いを実現される日です。その救いに与れるかどうかは問題ではありません。それは神の選びによる事柄だからです。わたしたちがなすべき務めは、諸々の出来事の中にあっても、「神を拝む」=礼拝をささげ続けてゆくことです。その礼拝の中に、再臨の主は降り立たれます。そこに救いは実現するのです。
「すべてを捨てて主に従う」すばらしいことです。ペトロもヨハネもヤコブも網を捨てて主イエスに従って行きました。今日、これを献身といいます。本日は日本基督教団が定めている「神学校日」です。主の御用のために身を献げて仕える道を選んだ人たち(献身者)をおぼえて祈りを合わせます。しかし教会にもっぱら仕える人だけが献身者ではありません。主に召しい出されて洗礼を受けた人はみな献身者です。洗礼を受けるとき捨てるのは、それまで自分を支えて来た古い我です。今度は新しくその我を拾い直して主に仕えてゆくのです。
一つになる(一致する)ということほど難しいものはありません。なぜなら、人は元々、異なって造られているからです。人は本来ばらばらなのです。人間の歴史ではしばしば一致が強調されます。それは見た目には美しく、何よりも為政者(支配者:権力者)にとって好都合なことだからです。しかしそれは、人が満足する一致であって、神がお望みな一致ではありません。一つの主(一つの洗礼)を信じる以外には異なっていてよいのです。信仰告白によって一致した後は、それぞれが自由な証し人として生きるよう進められているのです。
豪雨、台風、地震…次々と起こっています。「世の末」と思えるようなことが続きます。人々は不安になります。すると多くの「偽預言者」が現れます。そして、さらに人心をかき乱してゆきます。主イエスの時代も穏やかな時代ではありませんでした。しかし主イエスは、多くの人々が「世の末」を恐れる中で、さらにそれをかきたてるかのようなことをいわれます。天地も揺すられるであろう。だが、その日「人の子」が来られて「解放を告げる」と。だから「神を仰ぎみなさい」と。終わるのは人の時代であって、神の時代が完成するのです。
災害が続く夏でした。酷暑、台風、豪雨、地震…、次から次へと続きました。政治も経済も外交も、表向きは安定しているかのようですが、右傾化政策の継続、非正規雇用と格差の増大、隣国との平和条約締結への道程の困難…と問題が山積みです。しかし聖書の時代も、問題山積みでした。ローマに占領され、国内世情は不安定であり、宗教者も退廃し、天災も多く起こりました。世の末と思われるような中で異様な光を放っていたのは神殿でした。だが主はそれが崩れるとさえいわれます。最後の最後まで主を信じて耐え忍ぶ者が救われます。
神に「献げる」ことは、信仰者なら“当たり前のように”考えます。しかしこの点で、わたしたちは間違います。(罪を犯します)「献げる」ことで信仰を測り、「献げられない」ことで信仰を測ります。その点を主イエスは糺されます。「どこを向いて献げているのか」と。“自分なのか”“他者なのか”すなわち、自他ともに認められるような献げ方が「献げる」ことになるのか。「違うであろう」「献げる」とは神に向かって献げることであると。そこで一人のやもめの明日をも考えない(神に委ね切った)献げ方に目を留められるのです。
信仰と生活とは同じです。生活は信仰を映し出し、信仰は生活に現れます。しかしそれは、形式的なことではありません。信仰の内容(内実)が問われることです。主イエスの時代、ファリサイ派と律法学者は、内実を問うことなく、“形”に拘りました。信仰深い祈りをとうとうとすること、いかにも信仰深い服装をすること、それが信仰深いことであると勘違いしていました。主イエスは、それを問われます。「最も愚かで体裁の悪い中に=十字架の恥辱の中に」神のみ心と栄光が輝いている、という真理を伝えるために主イエスは最期まで歩まれます。
「救い主キリストは“ダビデの子”」という呼び名は教会ではよく知られています。しかし、その深い意味を知らねばなりません。力強い権力、知恵ある王の家系にある(子孫である)キリストという意味ではないからです。教会の主は十字架の主です。愚かな死を迎えた実に情けない主です。しかしその主は復活されることによって神の栄光を示されました。「十字架の恥辱の中に神の栄光がある」(ルター)という真実を明らかにされるために、神は主イエスを陰府から引き上げられました。ダビデの子は低きに下る神の子としての称号なのです。
「死人の復活」これほど分かりにくいもの、また、誤解されていることはありません。聖書の民は、神のいのちによって生み出されたと信じます。そして、地上の生涯を終えたならば、再び神のいのちに取り戻されると信じます。そのことを「死者のよみがえり」という仕方で、聖書は証します。しかしそれが誤解され続けました。主イエスは、その誤解をただされます。「復活するときはめとったりとついだりはしないのだ」と。すなわち、地上のあり方が、そのまま復活の有様ではないと。全く異なった神のいのちの世界に生まれ変わるのだと。