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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019年02月24日(主日礼拝)ルカによる福音書 23章1節〜12節「無責任と自己満足」 道家紀一牧師

祭司長らは、ついに主イエスをローマ総督のピラトに訴え出ます。司法権(警察権)のなかった彼らは、ピラトに訴えることによって公に主イエスを葬り去ることが出来たからです。罪状は反逆罪です。罪の全くない者を宗教上においても世俗においても「罪人」とする。恐ろしい人間の罪です。人を陥れるとはこういうことを言うのでしょう。しかしピラトも領主ヘロデも主イエスに罪を見出だせないまま放り出します。二人のとった態度は無責任でした。そして祭司長らは自己満足(自己実現)へ向かいます。ここに深い人間の罪があります。

2019年02月17日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章63節〜71節「愚かな質問を繰り返してはならない」 道家紀一牧師

「おまえは神の子なのか」主イエスを取り囲む人々は問い続けます。しかし主イエスは答えられます。「わたしが答えても決して信じないであろう」と。主は知っておられるのです。人々が本心から「わたしは誰であるか」と尋ねて来ていないことを。そして主は答えられます。「わたしが神の子だとはあなたがたが言っているのだ」と。これを聞いた人々はとうとう決めつけます。「これ以上の証言が必要だろうか」と。この取り違えこそが人間の罪です。愚かな質問を繰り返した後に、勝手に主を亡き者にする。わたしたちも同じ罪を犯しています。

2019年02月10日(主日・信教の自由の日礼拝)ルカによる福音書 22章54節〜62節「分かっているよ」 道家紀一牧師

ペトロは泣きました。「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというであろう」という主イエスの言葉を思い出して…人間の罪の極みの姿です。「はい、主よ、従います」という決意も潔さも、保身のためには脆くも崩れ去りました。神よりも、真理よりも大切なものがあるのです。それは自分です。最も愛しているのは自分です。それを捨ててまで(命を投げ捨ててまで)神も他者も愛することはできないのです。しかし主イエスは、「分かっているよ」とペトロをみつめて送り出します。この主のまなざしにわたしたちは生かされるのです。

2019年02月03日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章47節〜53節「裏切の接吻」 道家紀一牧師

裏切の合図は“接吻”でした。イスカリオテのユダは、主イエスに近づき接吻しました。それを合図に、捕える者たちが押し寄せます。そのとき、気が動転した弟子の一人が“剣を振り回します”。主を信じ従おうとする者の勇敢さからではなく、主を見失う(主が奪われる)ことへの恐れから出た行為です。罪の諸々の勢力が押し寄せて来るとき、わたしたちは人間業で愚かな剣を振り回してはなりません。救い主キリストの言葉(御言葉)に聞く他ないのです。主は言われます。「もうよい剣を納めなさい」と。それが主の命令の言葉です。

2019年01月27日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章39節〜46節「晴れ渡るまで祈り切る」 道家紀一牧師

キリスト教信仰の祈りはただの気休めでも納得でもありません。自分の(人の)思いと神の思い(御心)とが切り結ぶ接点です。天にまなざしを向けて祈る時、そこに神の“まなざし”が注がれます。しかしわたしたちは、そこで抗います。なぜなら、自分の思いと神の思いとの違いに気づかされるからです。しばしば神のお考えはわたしたちのそれとは違います。主イエスも血の汗が滴り落ちるほど祈られました。神の御心は十字架だったからです。「主よわたしの思いではなく御心のままに」そこまで祈り切った後は、晴れ渡った道が啓き示されます。

2019年01月20日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章31節〜38節「裏切りの予告の先にあること」 道家紀一牧師

人間の決心ほど怪しいものはありません。「死んでもついてゆきます」と言いながら、何人の人が裏切ったことでしょう。シモン・ペトロもその一人に数えられます。「牢屋に繋がれても、死んでも従います」と誓ったにもかかわらず、主イエスを見捨てて逃げ去ります。しかし主イエスは裏切りを予告されます。予告されるだけではなく、「立ち直ったら兄弟を励ましなさい」と言葉を続けます。たとえ裏切ったとしても、主は命を懸けて立ち直らせるという救いの言葉です。教会の関係(弟子と先生)が続いているのはここに基礎を置いているからです。

2019年01月13日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章21節〜30節「主イエスは裏切る者をも信頼する」 道家紀一牧師

人の世に「裏切り」は付き物です。信仰においてはどうでしょう。神を裏切る、それだけはしたくないと思っています。人の世の裏切りに疲れた者が神を信頼して信仰をもつからです。しかしなお、そこにおいても起ってしまうのが人間の罪です。しかも「神を裏切る」という最悪の事態を招きます。神の裏切りは神の子の死に直結します。御子キリストは、裏切りに遭って、十字架の上で息絶えたのです。しかし主イエスなる神は、その裏切る人間を信頼され、罪の赦しの権能を授けてくださり、終わりの日、共に治める祝福を約束されます。

2019年01月06日(栄光祭:新年礼拝)エフェソの信徒への手紙 2章1節〜10節「キリストに買い戻された人生」 道家紀一牧師

わたしたちは一度きりの人生を歩みます。まっすぐに伸びた直線の上を歩んでゆくように。しかし、そのまっすぐに伸びた線上を間違うことなく歩むことが出来ているかというならば、それは甚だ疑問です。線上をはずれます。神は、創めに私たち人間を造られたとき、神が敷かれた線の上をまっすぐに歩んで行くことを期待されました。しかしその期待を裏切ったわたしたちは行き場を失う定めにあります。天と地の間にある空中と言う悪しき勢力の中に放り出されます。しかし神はそこから御子キリストによって救い出して下さいます。

2018年12月30日(年末感謝礼拝)ヨハネの黙示録 21章1節〜4節「過ぎ去った後に見える景色」 道家紀一牧師

神がお造りになられた世界と人には終わりがあります。一人ひとりの人生には終止符が打たれます。世界の歴史には終焉があります。聖書の時間は東洋的な輪廻による世界観(人生観)ではなく、一直線に進んでゆきます。その先には、永遠なる神の国が備えられています。ですから、神の創造を信じる者は、何一つ恐れることなく、まっすぐに永遠の命の門に向かって進むだけです。ヨハネは、黙示録の最後で、諸々の悪しき勢力を滅ぼされた後に、天から降りてくるエルサレムについて記します。それはわたしたちが確実に行き着く世界です。

2018年12月23日(クリスマス主日礼拝)マタイによる福音書 2章9節〜12節「救いの星を見上げて歩む」 道家紀一牧師

主イエスの誕生を知った東の国の学者は、エルサレムへやって来ます。彼らを導いたのは「星」でした。しかし、エルサレムの上で、彼らは見失います。神の救いを期待しなくなったエルサレムの人々の声にかき消されたのでしょうか。しかし、再び、星は輝き始めます。そして、学者たちをベツレヘムへと導きます。神は、すでに救いを知っている者ではなく、まだ救いを知らない未知の人々を用いて、救いの御業を起こされます。それは、密やかな形で。救いの御子、キリストは、世の喧騒とは無関係に見知らぬ人々によって見出されます。