主イエスは、約束の聖霊が降ることを言い残されて、天に戻られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。しかし信じられない弟子たちは、天を空しく仰ぎ見るだけでした。そのとき天の使いが来て語ります。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのと同じ有様でまたおいでになる」と。ここに地上の教会が歩む意味とパイエティがあります。
礼拝は、神がわたしたちを創造してくださったことに感謝をささげる日、神の恵みに応答する日です。わたしたちが信じる神は、創造するにとどまらず、その後も、神の示す道を歩み続けて、神の下に帰り着くことを願い、御子キリストをささげるほどに愛してくださっています。その神にあらん限りの感謝の歌をうたうのが礼拝です。パウロは、コロサイの信徒への手紙の中で、そのためにささげる事柄を記しています。「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と。地上の生涯はこの歌をうたうためにあります。
ハイデルベルグ教理問答講解<登家勝也牧師訳&著>にある<生きるにも死ぬにも、あなたの只一つの慰め>という文章の慰めとは静かになり、治まるという意味です。そして、問2及3まで広げるとその反語は悲惨が該当します。その慰めの内に生きるには、自己の悲惨を悟ることが必要であり、その悲惨とは、故郷を離れた状態を示し、確固とした地盤がなく、さ迷いながら誰にも頼れず、只一人で生きているという状態を示す。その反対が慰めである故に、慰めとは堅固な救い主イエスへの信仰を土台として確実に立上ることなのです。
主イエスは、死の淵からよみがえられました。しかしそれはなかなか信じられませんでした。最初に墓へ行った婦人たちとペトロが見たのは“空になった墓”でした。だれもよみがえった主を見ていないのです。ところが、主は彼らに顕れてくださいました。復活された主となって。それは肉の体での復活ではなく神の体での復活でした。神の体でありながら、生前の主と変わらないお姿を見せて、弟子たちに「救いの喜びと確信」を与えます。やがて主は天に戻られますが、のこされた者=教会は希望と確信に満ちて主の救いを宣べ伝え続けます。
その日エルサレムから10キロメートルほど離れた町エマオへと向かって二人の弟子(一人はクレオパ)が歩いていました。歩きながら話している内容は近頃都で起こったことでした。イエスが十字架に架かって死なれたが、三日後によみがえったと婦人たちが伝えていること…。そこへ復活の主ご自身が顕れなさって、二人の間に割って入り、聖書全体について説明を始められました。それでも主イエスと気づかない二人でしたが、宿に泊まってパンを裂かれたとき、主であると分かりました。「聖書の解き明かしと聖餐」の起源がここにあります。
主イエス(先生イエス)は十字架の上で死に絶えた後、アリマタヤのヨセフによってエルサレム郊外の岩の墓へ納められました。そこには大きな石で蓋がされました。安息日が明けた朝早くマグダラのマリアら3人の婦人たちは香料を携えて墓へ向かいました。大きな躓きの石があることを知りながらそれでも。果たして石は取り除かれ、墓の中は空でした。石の取り除きと空虚な墓。それが主イエスが復活したことの証拠です。それはすべて神の御業です。このことを信じるとき、不可能を可能とする復活の希望に生きられるようになります。
棕櫚の日の主日は、主イエスがエルサレムに入城なさった出来事を記念して守られて来ました。熱狂的に主イエスを迎える群衆とは正反対の姿で主イエスは入城されます。それは、王でも英雄でもなく、子ろばに乗った滑稽な男でした。それでも、人々は騒ぎ立て迎えます。期待したからです。彼こそが今の苦しい状況を救ってくれるメシアだと信じたからです。しかしその期待は見事に裏切られます。子ろばに乗って入城なさった主イエスの姿を見誤ったからです。救い主は、勇ましい姿ではなく、愚かな十字架の中におられます。
主イエスの名声が高まりつつある中、主イエスは弟子たちを前に驚くべきことを言われます。「わたしは十字架に架かって死ぬ。三日目に復活する」と。弟子たちにとって理解できない言葉でした。なにゆえ、先生はそんなことを言い出されるのか。これからというときに…彼らは主イエスが来られたことを何一つ理解出来ていませんでした。この弟子たちの姿はわたしたちの信仰の姿でもあります。救い主への無理解=救いの無理解。神による救いはときに受け入れ難い中に起ります。十字架の恥辱の中に神の救いの栄光は輝くのです。(ルター)
聖書には突如登場する人物がいます。神の救いの歴史の中に忽然と現れます。アリマタヤのヨセフです。彼は、神が備えられた人物です。彼は本当の意味で正しく生きる人でした。神からいただいた良心に従って、生きることを心掛けていました。しかし、弱さも抱えていました。正しいと信じることを貫けない弱さです。罪と呼ぶには余りにも厳しい人間の側面です。しかし彼は悔い改めることを忘れない人でした。主イエスの十字架の間違いに気づいていた彼は、祈ります。その結果遺体を引き取ります。この行動が救いの業につながります。
「本当に、この人は正しかった」異邦人の兵士である百人隊長は叫びました。彼は、本当の神も、聖書の真理も知りません。しかし、目の前で起こった事実に引き込まれて、思わず叫んだのです。それは荒削りの信仰告白です。信仰は整っていなくともよいのです。目の前に起こった奇跡、聖なる事実に対して、「本当だったんだ」と告白できるかどうかです。日頃どんなに賢く神を信じていると語っていても、十字架の出来事を前に逃げ出せば、本物の信仰とはなりません。遠く離れて立つ者ではなく、「本当だったんだ」と叫ぶものになりましょう。