神の救いは、圧倒的で一方的な神からの働きかけ=神の絶対恩寵から来ます。
しかし人は神の救いにいろいろな条件や資格を持ち込みます。人間的な立派さ、家柄や肩書き…、わたしたちの救い主イエス・キリストは、ガリラヤのナザレの大工のせがれ、風変りな男、ローマの反逆人として十字架の上で死刑に処せられた人です。人間としては最低最悪な生涯を送った人です。しかしこの方が、神から遣わされた神の子キリストでした。バプテスマのヨハネが証しする人はその方のことです。ただこの方=キリストを信じる信仰が救いの条件です。
ヨハネによる福音書は“言葉”があったと書き始めます。ここでいう言葉とは、人間の話す言葉ではありません。天の言葉=天的ロゴスのことです。人間と世界が現れる前から天において存在した言葉のことです。この天の言葉によって世界と人間は造られたのだと。ここには明らかに創世記1章のことが背景にあります。神は、人を創造したとき、命の息を吹き込まれました。そして人は真に生きるものとされました。その命は、天の言葉のうちにあるものなのだと。この命を吹き込まれた者が、神に敵対する罪の闇の中で輝きを放つのだと。
主イエスは復活なさった後、40日間弟子たちと共に過ごされました。弟子たちはこのままずっと一緒にいてくださると思いました。しかし復活なさった主は、もはや肉の体ではありませんでした。神の体(霊の体)に復活なさった主は、地上に長くとどまることは出来ませんでした。天に戻る必要がありました。主は弟子たちが見ている前で天に上げられます。しかしそのまま消え去るのではなく、聖霊となって共にいてくださる方となります。その聖霊が、弟子たちの祈りの輪に降り注がれた日、それが「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。
主イエスは“霊”によって荒れ野へ導かれ、そこで人間が抱えているあらゆる悪しき霊と対決されて、打ち勝たれました。そのとき、主イエスを支えたのは“神の霊”です。霊によって引き回されたとは霊によって守られたということです。主は神の力に包まれて悪しき霊=罪の勢力に勝たれたのです。やがて、主イエスが天に戻られた後、その霊は、父と子と同じ主なる神そのものとなりました。わたしたちは、今日、その同じ霊に満たされています。格別、礼拝において、聖霊なる神に満たされるのです。そして日々の生活へ送り出されます。
主イエスは、約束の聖霊が降ることを言い残されて、天に戻られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。しかし信じられない弟子たちは、天を空しく仰ぎ見るだけでした。そのとき天の使いが来て語ります。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのと同じ有様でまたおいでになる」と。ここに地上の教会が歩む意味とパイエティがあります。
礼拝は、神がわたしたちを創造してくださったことに感謝をささげる日、神の恵みに応答する日です。わたしたちが信じる神は、創造するにとどまらず、その後も、神の示す道を歩み続けて、神の下に帰り着くことを願い、御子キリストをささげるほどに愛してくださっています。その神にあらん限りの感謝の歌をうたうのが礼拝です。パウロは、コロサイの信徒への手紙の中で、そのためにささげる事柄を記しています。「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と。地上の生涯はこの歌をうたうためにあります。
ハイデルベルグ教理問答講解<登家勝也牧師訳&著>にある<生きるにも死ぬにも、あなたの只一つの慰め>という文章の慰めとは静かになり、治まるという意味です。そして、問2及3まで広げるとその反語は悲惨が該当します。その慰めの内に生きるには、自己の悲惨を悟ることが必要であり、その悲惨とは、故郷を離れた状態を示し、確固とした地盤がなく、さ迷いながら誰にも頼れず、只一人で生きているという状態を示す。その反対が慰めである故に、慰めとは堅固な救い主イエスへの信仰を土台として確実に立上ることなのです。
主イエスは、死の淵からよみがえられました。しかしそれはなかなか信じられませんでした。最初に墓へ行った婦人たちとペトロが見たのは“空になった墓”でした。だれもよみがえった主を見ていないのです。ところが、主は彼らに顕れてくださいました。復活された主となって。それは肉の体での復活ではなく神の体での復活でした。神の体でありながら、生前の主と変わらないお姿を見せて、弟子たちに「救いの喜びと確信」を与えます。やがて主は天に戻られますが、のこされた者=教会は希望と確信に満ちて主の救いを宣べ伝え続けます。
その日エルサレムから10キロメートルほど離れた町エマオへと向かって二人の弟子(一人はクレオパ)が歩いていました。歩きながら話している内容は近頃都で起こったことでした。イエスが十字架に架かって死なれたが、三日後によみがえったと婦人たちが伝えていること…。そこへ復活の主ご自身が顕れなさって、二人の間に割って入り、聖書全体について説明を始められました。それでも主イエスと気づかない二人でしたが、宿に泊まってパンを裂かれたとき、主であると分かりました。「聖書の解き明かしと聖餐」の起源がここにあります。
主イエス(先生イエス)は十字架の上で死に絶えた後、アリマタヤのヨセフによってエルサレム郊外の岩の墓へ納められました。そこには大きな石で蓋がされました。安息日が明けた朝早くマグダラのマリアら3人の婦人たちは香料を携えて墓へ向かいました。大きな躓きの石があることを知りながらそれでも。果たして石は取り除かれ、墓の中は空でした。石の取り除きと空虚な墓。それが主イエスが復活したことの証拠です。それはすべて神の御業です。このことを信じるとき、不可能を可能とする復活の希望に生きられるようになります。