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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019-12-01(アドヴェントI:待降節第一礼拝)ローマ人への手紙 13:11 - 14「新しい時代が始まる前」 道家紀一牧師

いつの世の人々もいいます。「今の時代は暗い、将来が見えない」と。主イエスの時代もそうでした。しかし、ほんとうにそうでしょうか?罪に覆われている世は、いつも神からご覧になれば、暗い時代に存在しているのではないでしょうか。神は、そのために、独り子イエス・キリストを遣ってくださいました。朝の来ない夜はありません。神の恵みは常に備えられています。わたしたちは、この恵みの光をキリストに見るのです。アドヴェントはクリスマスを待ちつつ、神の時を待つことを学びます。救いの時は必ず来るとの信仰を学ぶのです。

2019-11-24(収穫感謝・謝恩日礼拝)ヨハネによる福音書 5:43 - 47「選ばれて生きる根拠」 道家紀一牧師

人はなぜ、そこに生れて生きるのでしょうか。考えても考えても答えはありません。それと同じように、なぜ今、わたしたちはイエス・キリストなる神を信じて、毎週礼拝をささげているのでしょうか。キリスト者(クリスチャン)になった理由は、人ぞれぞれありましょう。しかし、洗礼は人の決心だけではないのです。神による“選び”という「一方的な恩寵(恵み)」がなければ、人は神を信じる人にはなり得ません。人間の理由と根拠は違います。大切なのは、神によって選ばれ、今ここに信仰者として生かされているという根拠です。

2019-11-17(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 5:37 - 43「聖書から聴き取ること」 道家紀一牧師

聖書は信仰の依るべき正典であり、教会の土台です。会堂を建築するときや家を建てるときに「礎」として聖書を本当に埋めます。それは象徴的なことですが、イエス・キリストを信じる信仰の根拠は聖書です。しかし、聖書そのものが、信仰の土台となるわけではありません。聖書を通して証しされるイエス・キリストが、わたしたちに与えてくださる救いの恵み(十字架と復活の出来事)が、信仰の土台となるのです。「あなたがたは聖書の中に…」と主イエスがいわれていることはそのことです。聖書から何を聴くかが大事なことです。

2019-11-10(主日礼拝)ヨハネによる福音書 5:31 - 36「キリストを証しする愛の業」 道家紀一牧師

キリストはキリストご自身で完結される方です。人間の証明など必要はありません。しかしあえて、洗礼者ヨハネを引用されます。「彼は神の真理を示していた」と。ですが、人々はヨハネの証しする真理=イエス・キリストを捉え損ないます。主イエスは、もはや、ご自身によって、ご自身を証明するしかなくなります。それは、すなわち、わたしたちの罪深く愚かな人間を救うための愛の業=十字架と復活の出来事です。十字架と復活の業のみが、主イエスが父から遣わされた救い主なる御子キリストであることを指し示します。

2019-11-03(聖徒の日礼拝)ローマ人への手紙 6:1 - 11「軽やかな命の希望に生きる」 道家紀一牧師

キリスト教の歴史は教会の歴史です。格別、教会の信仰に生きた人々の歴史です。彼らのことを「聖徒」と呼びます。今彼らは眠っています。その日その時を待って。キリストが再び地上に降り立ち、私たち一人ひとりと、世界の全てについて“総決算”なさる日(最後の審判日)まで、彼らは眠っています。私たちもまた、定められた時に、彼らの列に加わります。死を迎えます。しかし、そこで終わることはありません。彼らと共に主の前によみがえって、永遠の命を得ます。この本物の命の希望に生かされて、軽やかな今があるのです。

2019-10-27(宗教改革記念礼拝)ヨハネによる福音書 5:19 - 30「人生の最期における大きな違い」 道家紀一牧師

宗教改革はルターの「塔の体験」から始まりました。当時のローマカトリック教会が発行していた免罪符に疑問をもった彼は大学の図書館で聖書を読み続けました。そして「キリストの恵みのみ」「キリストへの信仰のみ」「聖書のみ」という福音(救いの信仰)の真理を発見します。主イエスはいわれます。「私が父なる神の全てを示している(証ししている)」と。聖書を通してキリストのみを信じる信仰が、私たちを救いの真理(永遠の命の世界)に導きます。人生の最期において問われることは、ただこの一点のみです。

2019-10-20(主日礼拝)ヨハネによる福音書 5:1 - 18「健やかに立つ人生」 道家紀一牧師

エルサレムにべトザタという池がありました。羊の門(ベニヤミンの門)の傍らにあった不思議な池でした。そこの池の水が動く時一番初めに池に入った者がその病が癒されると信じられていました。その池の畔に38年もの間暮らす人がいました。一度も池に入れなかったからです。自分の力ではどうにもならないと分かっていながらそこにいざるを得なかったのです。諦めと期待の狭間で苦しんでいる人でした。主イエスはその人に命じます。「立って床を担げ」と。38年間の苦しみを背負って健やかに生きなさいと。私も一緒に担ぐのだからと。

2019-10-13(神学校日礼拝)マルコによる福音書 2:13 - 17「神のお召し」 道家紀一牧師

本日は「神学校日」礼拝です。神学校に行く人を「献身者」といいますが、主に招かれて、罪の赦しの洗礼を受けた者はみな、「献身者」です。神に従う決心をした人だからです。洗礼を受けてキリスト者になるとは、「罪が赦されて」、よかったよかったといって終わるのではありません。主に従う決心をして生きてゆくのです。しかしそれは、独りの孤軍奮闘ですることではありません。神の招き(お召し)の下で行うことです。神の招きなく、献身することはありません。罪の赦しの恵みに感謝しつつ、喜んで主に仕え続ける道のことです。

2019-10-06(世界聖餐日礼拝)ヨハネによる福音書 4:43 - 54「神に縋って何が悪い」 道家紀一牧師

主イエスが故郷ガリラヤへ戻られたとき、一人の役人が懇願に来ました。息子が死にそうだったからです。この役人は「主よ、死なないうちにお出で下さい」と頼みます。「主よ、死んでからではおそいのです」と。この言葉は重要です。「死んでから主に来ていただいても意味がない」と告白しているからです。わたしたちも罪によって死にかかった存在です。放っておけば死んでしまいます。「主よ、死なないうちにお出で下さい」と懇願する必要があります。そのためには、この役人のように、ひたすら主にすがる信仰が求められるのです。

2019-09-29(主日礼拝)ヨハネによる福音書 4:27 - 42「大いなるきっかけ」 道家紀一牧師

シカルの井戸でキリストに出会い救われたサマリアの女性は、そこで終わったのでありません。彼女は、水汲みも忘れるほどの喜びと感謝に満たされて町へ帰り、誰彼となく「救い主に出会った」という救いの喜びを証ししました。すると大勢の人々(今まで彼女を避けていた人も含めて)が彼女の言葉を信じて、主イエスのもとへ来て、キリストに出会って、救いに与りはじめました。彼女は“大いなるきっかけ”をつくった人です。救いの信仰とはひとり救われたことをほくそ笑むのではなく、次の人へ(次の世代へ)伝えてゆくのです。