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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019-10-06(世界聖餐日礼拝)ヨハネによる福音書 4:43 - 54「神に縋って何が悪い」 道家紀一牧師

主イエスが故郷ガリラヤへ戻られたとき、一人の役人が懇談に来ました。息子が死にそうだったからです。この役人は「主よ、死なないうちにお出で下さい」と頼みます。「主よ、死んでからではおそいのです」と。この言葉は重要です。「死んでから主に来ていただいても意味がない」と告白しているからです。わたしたちも罪によって死にかかった存在です。放っておけば死んでしまいます。「主よ、死なないうちにお出で下さい」と懇談する必要があります。そのためには、この役人のように、ひたすら主にすがる信仰が求められるのです。

2019-09-29(主日礼拝)ヨハネによる福音書 4:27 - 42「大いなるきっかけ」 道家紀一牧師

シカルの井戸でキリストに出会い救われたサマリアの女性は、そこで終わったのでありません。彼女は、水汲みも忘れるほどの喜びと感謝に満たされて町へ帰り、誰彼となく「救い主に出会った」という救いの喜びを証ししました。すると大勢の人々(今まで彼女を避けていた人も含めて)が彼女の言葉を信じて、主イエスのもとへ来て、キリストに出会って、救いに与りはじめました。彼女は“大いなるきっかけ”をつくった人です。救いの信仰とはひとり救われたことをほくそ笑むのではなく、次の人へ(次の世代へ)伝えてゆくのです。

2019-09-22(主日礼拝)ヨハネによる福音書 4:1 - 26「人を生かす命の水」 道家紀一牧師

サマリア人はエルサレムの人々からは嫌われていました。その昔、アッシリア帝国に北王国が占領され、入植政策によって混血人種ハーフとなったからです。血筋を重んじる南王国の人々はそれを嫌いました。しかし、主イエスはサマリヤを通られます。そして、そこで一人の不幸な女性と出会って救われます。暑い昼の最中に水を汲みに来た女性のすべてをご存知な主イエスは、「尽きることのない命の水」(霊の賜物)を注がれます。わたしたちは肉の糧にのみ生きるのではなく、霊の糧をもって養われる必要があります。この女性のように。

2019-09-15(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3:22 - 36「聖霊が留まる方の言葉」 道家紀一牧師

バプテスマのヨハネは主イエスの前に現れた偉大な人物=預言者です。当時は主イエスと同列と思った人々が多くいました。しかし彼(バプテスマのヨハネ)は、「わたしは彼(メシア)ではない」「彼は栄え、私は滅びる」とさえいいました。主イエスがまことの救い主であることを告白したのです。この謙虚な姿はわたしたちの模範です。神より自分を優れたものと置き換えて行く罪を糺されます。主イエスこそが、わたしたちの救い主であることを信じ続けること、聖霊(神の霊)が注がれた方として仰ぎ見続けることの大切さを教えています。

2019-09-08(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3:16 - 21「神の光を信じて歩む」 道家紀一牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉はヨハネによる福音書の中でも有名な箇所です。わたしたちはともすれば「罪深い」ということを取り違えています。世と人は最初から悪であったから罪深いと。創世記1:31で神は「甚だ良かった」とお造りになったものを見ていわれます。美しい神の作品である私たちの中にはいった悪(罪)によって滅びへと向う私たちを救うために神は“独り子”をささげられました。ここに救いの真理があります。

2019-09-01(振起日礼拝)ヨハネによる福音書 3:7 - 15「キリストと共に天に上げられる」 道家紀一牧師

「生れ変われるならば変わりたい」誰しも一度は考えたことがありましょうか。しかし、そんなことは出来るはずもありません。ところが、聖書にはこう書いてあります。主イエスはいわれた。「誰でも水と霊によって生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない」と。そうです。「生まれ変わることはできます」ただし、主イエスがいう生まれ変わりとは、地上の生活をもう一度やり直すことではありません。「神の国を見るため」です。地上の生活はただ一度きりです。

2019-08-25(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3:1 - 6「干からびた命に注がれる聖霊」 道家紀一牧師

世の中には不思議な人がいるものです。お金も地位も名誉も何もかも満たされているように見える人が、実は、その内面で非常に苦悩している…傍から見て何の問題もないような人が落ち込んでいる…それは魂(心の深いところ)が潤っていないからです。干からびた命に生きているからです。ここに登場するニコデモはその代表です。ある意味、わたしたちの一部(分身)です。心が満たされない飢えと渇きをおぼえているのです。主イエスがいわれる水と霊によって生まれ変わるとは、その枯れた命に神の命を注ぎ、生き直すことです。

2019-08-18(主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:23 - 25「神の子は証しを必要としない」 道家紀一牧師

何かを信じるためには“しるし”は必要かもしれません。聖書にはたくさんの“しるし”が書かれてあります。旧約聖書にも新約聖書にも。一番有名なのはイエス・キリストの奇跡でしょう。病気を癒された。5000人のお腹の空いた人が満足した…しかしこれらの奇跡は「ナザレのイエスはキリストです」という告白へ導く決定的なしるしではありません。わたしたちが大切にするべき“しるし”はイエス・キリストの十字架と復活という“しるし”です。人の罪を赦すという何物にも代えがたい奇跡の“しるし”、それが十字架と復活です。

2019-08-11(主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:13 - 22「聖なる怒り」 道家紀一牧師

夏になりますと神社仏閣では“夏祭り”が始まります。そこでは金魚すくいや綿あめ屋さんなどいろいろな露店が並びます。楽しい夏の風物詩の一つです。主イエスの時代のエルサレム神殿にも「両替屋」や「鳩売り屋」が並んでいました。しかしそれは、神殿参拝者が楽しむという目的ではなく、神殿に供える犠牲の動物や神殿硬貨を交換し手数料を儲けるという商売の温床となっていました。神礼拝が人間の商売の道具に使われていることに主イエスは怒られます。この主イエスの怒りは神の怒りであり、十字架の裁きで顕れる聖なる怒りです。

2019-08-04(平和主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:1 - 12「人生の限界を破る神の栄光」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書は“小さなしるし”から“大きなしるし”へと進めます。2章にあるカナの婚礼の奇跡はその最初の“しるし”です。ここで主イエスは、母マリアから(ぶどう酒が足りませんと)促されますが、「まだわたしの時ではない」と一旦は拒まれます。しかしマリアは、その時を信じて備えます。召使に主イエスが命じた時にはその通りにするように言い渡します。果たして、主イエスが瓶に水を一杯注ぐように命じられます。その通りにしたところ水がお酒になります。大切なことはその時(神が動く時)を信じて備えることです。