十字架のときには、神から遠く離れていた者たちも、その後、復活と昇天を経て、再び、地上に主イエスが戻られる時には、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う人々の群れの中にいることになるであろう、という主イエスは預言(希望の祈り)しました。神から遠い者、近い者を決めるのは、主イエスなる神です。間違っても、ファリサイ派と律法学者たちのように、他者の信仰を評価し、自分を高めるような愚かさに陥ってはならないと思います。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられる」と正しい人ヨブは語りました。これは真実です。パウロも、「主の為に生き、主の為に死ぬ」と語りました。信仰の勝利とは、この言葉に生きることではないでしょうか。
主イエスは、自分がまっさきに、ファリサイ派と律法学者、そしてわたしたちに代わって、陰府に向かってくださいました。神からもっとも遠い場所へ、神の子が自ら向かわれたのです。ここに、わたしたちの救いがあります。ファリサイ派と律法学者、他ならないわたしたちが向かわねばならなかった場所=ゲヘナ(地獄)へと、主イエスは代わりになって、向かってくださったのです。十字架の死は、ただの身代わりの犠牲ではありません。神に撃たれるしかない、神の怒りから免れようがないわたしたちをその罪の恐ろしさから救い出してくださった恵みの出来事といえましょう。そして、三日後の復活は、神の愛とご計画から出たことであったとの紛れもない証拠となったのです。
神が望まれるのは、偽りのない信仰だけです。いたずらなパフォーマンスなど求めはなさいません。でありますのに、わたしたちは、神の存在を忘れ、神の前にへりくだることを疎かにし、自分たちが満足するような仕方で神を礼拝し始めます。宗教改革者ルターはこういう言葉を残しています。「偶像礼拝とは、人間が満足するように礼拝をし始めることだ」と。わたしたちは、自分たちが満足し幸福を得るために礼拝をささげ信仰を続けてゆくのではありません。神が満足し、神の前に真摯に仕えるわたしたちをご覧になって「幸いである」と認めてくださるために、礼拝をささげ、信仰を続けてゆくのです。
教会には罪の赦しの権威が与えられていますが、その権威はこの世の権威とは違います。主イエスは、そのことを最後に戒められます。「あなたたちのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。神の愛と教えを世に伝える役割を教会は与えられています。しかしそれは、ファリサイ派と律法学者たちが行っていたような仕方であってはなりません。上から目線ではなく、神と世と人に仕える者として、また、神と世と人にへりくだる者として、伝えて行くのです。その伝え方は、十字架に架かりゆく主イエスの後ろ姿に倣う(キリストに倣いて:イミタチオクリスティ)しかないといえましょう。
マタイが注目したのは「神に対する真摯な信仰」です。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ…はみな、それぞれ個性もあり問題もあった者たちです。しかし共通しているのは、神に対する真摯な信仰です、格別、神に対して過ちを犯したならば即座に悔い改める速さであり、神の救いの恵みがあることに希望をもって信じた人々です。神はそういう人々を愛されます。その信仰を受け継いでいる人物として、ナザレのイエスを位置づけているのであって、決して、族長たちの力強さやダビデの猛々しさを受け継いでいるのではありません。大切なのは「神への真摯な信仰」です。そういう意味で、ナザレのイエスは、ダビデの子(子孫)であり、神が遣わされたメシアなのです。
洗足の後、主イエスはこう語られました。「34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34~35)と。キリスト者の隣人愛の基はここにあります。御子キリストを遣わされるほどにして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを愛された神を愛する者=信じる者は、自ずと、互いに(隣人に)愛し合うようにと召されているのです。それが、また、すなわち、キリストの愛を伝える伝道の働きとなってゆきます。
「霊なるキリストが内に宿る」ということで、パウロは神秘的な体験を語っているのではありません。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、キリストを信じる一人ひとりに分け与えられるのだと語っているのです。内に住むキリスト(霊なるキリストの内住)とは、父子聖霊なる三位一体の神が、永遠に共にいてくださる、ということのパウロなりの表現(理解)であるといえましょう。わたしたちも、霊なるキリストに住んでいただき(支配していただき)永遠の祝福(命と平安に満ちた世界)へ向かうのです。
ペンテコステの日に聖霊が降り、主の教会が始まりました。世にキリスト教が広まりました。その目的は何であったのか。教会の数を増やし、願望や理想を実現するためではありません。主なる神が、御子キリストを遣わすほどにして、世と人とを愛されて、神の支配を実現し、先祖アブラハムに誓ったように、世界が神の祝福に満たされるためです。教会はそのためにのみ存在しています。わたしたちも。ペンテコステの日に降った聖霊は今も注がれています。主が再び来られるその日まで、わたしたちは、約束の地を目指して、ヨルダン川を渡り続け、強く雄々しく歩み続けてまいりましょう。
わたしたちは、時間枠の中に生きています。それはマモン(お金)と結びついています。主イエスの教えは、時間も関係なくお金の要らない気楽な暮らしの勧めではありません。永遠なる神の世界を見失っている人間の危険性について語っています。「時は金なり」という言葉がありますが、信仰者はそれを越えた世界に招かれています。神は想像以上に大きく広く豊かな世界の神です。しかも、この神は一人の人間(イエス)に宿られた神でもあります。それはわたしたちを愛されているからです。この神の愛の深さ広さ高さに導かれながら、やがて、永遠なる世界へと入ってゆくのだと思います。
神の前にやがては消え去るであろう世の秩序に対して、今ここで御心に照らし合わせて、正しいとか正しくないとか、果たして言い切れるものでしょうか。確かにこの世に生きる限り、従わなければならない世の決まり事というものはある。そのことに敢て、神や信仰を持ち出してまで荒立てる必要があるのか、という主イエスからの問いかけです。勿論、そうはいっても、明らかに間違った(神に逆らっている)世の秩序を放っておいて、悲惨な結果が待ち受けることがあるかもしれません。その時には、抗うべきかどうか問われるかもしれません。そのことを覚悟しつつも、最初から、あたかも喧嘩腰のようにして、世の秩序に立ち向かう必要はないのだといえましょう。