救い主なるイエス・キリストは生前次のような一言を遺されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:24~25)ここで主イエスがおっしゃっている「死ぬ」とは命を投げ捨てることだけではありません。「自分、自分」と主張する愚かさを投げ捨てるとき、永遠の命という何ものにも代えがたい祝福が与えられるということだけではないでしょうか。主にある希望をもって今の時を忍び耐えて生きる中で与えられる祝福です。主の十字架の後ろ姿を仰ぎ見つつ、それぞれの重荷(苦難)を担ってゆきましょう。
今日、わたしたちがもっとも難しいといえることの一つは「赦しのなさ」です。自分も他者をも容赦なく裁き合う世界が広がっています。それこそ、創造の神が最も悲しまれ、怒りの裁きを発せられることではないでしょうか。しかし、神のこの激しい怒りを、わたしたちに代わって一身に引き受けられた方がおられます。主イエス・キリストです。わたしたちは、自分の力で何かしようと思うのではなく、ひたすらこのお方に向かって祈り続け、知恵と力とをいただき、神の働きとして、困難な課題に取り組んでゆくしかないのではないでしょうか。山をも動かすほどに、本気で神の赦しを求める信仰が求められています。
主イエスは、祭司や律法学者に「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
と告げられると、御自分の家であるエルサレムを離れてベタニヤへ赴かれ泊まられます。もはや「祈りの家」でなくなったエルサレムには留まられません。わたしたちの教会も「祈りの家」=「父なる神へ向かって祈る群れ」であることを忘れたとき、地上の事柄に目を奪われて神の真実を見失ったとき、主イエスが、エルサレムを離れられたように、教会を去られてゆくことを思わねばなりません。
主イエスのエルサレム入城に熱狂する一群に驚いた人々は尋ねます。「この人は誰なのか」と。すると主イエスと共に行進する人々は答えます。「ガリラヤナザレから出た預言者イエス」と。律法の教えに辟易して、神の支配を説きつつもローマの傀儡と化していたエルサレムの宗教指導者(祭司や律法学者)に矛盾を感じていた人々は、主イエスに大いに期待するものがありました。しかし、人々が思うような預言者ではなくなってゆくのが、この後の主イエスの歩みです。神の救いとは何なのか、どういうことなのか。自分たちの願望が実現することなのか。おもしろくない世界が一変することなのか。今、わたしたちの世界と社会は、そのことが、かつてないほどに問われています。
主イエスのこの憐み深さは、十字架の上で頂点に達します。わたしたちは、みな、信仰的には、見るべきところを見ていない一人ひとりなのです。神を見ていない罪人です。主イエスは、罪人であるわたしたち一人ひとりを、はらわたがちぎれるほどに憐れんでくださって、十字架の上にお架かりになられたのです。この主の憐みに触れる者はみな、信仰の目が開かれるのです。一度開かれた信仰の目(洗礼者の目)は、次第に曇るときがあります。そのときはまた、主イエスの憐みを施していただき、開いていただくのです。それが、礼拝のときであり、格別、聖餐に与かるときであり、主に向かって祈るときでもあります。わたしたちの主は、罪人の前で、必ず、立ち止まってくださいます。
旧約の時代、人間であれ家畜であれ「初めての子」は神の所有だから神に献げる(お返しする)という考え方がありましが、実際に献げるのではなく、羊の血をもって贖ったり、贖い金というものを神殿に支払ったりする習慣となっていました。そのことを主イエスは援用されて、自分の犠牲によって、罪人は、神のものとして買い戻されるのだということをいわれます。礼拝をサービスともいいますが、わたしたちが神に仕える(サービスする)のではなく、イエスキリストが、尊い命を献げてくださったという意味で、サービスされたということが先にあるのです。この世で、神に仕えて行くとはどういうことなのか。主イエスの言葉と行いを通して、わたしたちは学び続けてゆくしかないのかもしれません。
聖書の信仰に立てば、わたしたちと世界は全て神のものです。思うように支配することはできません。それが出来るのは神のみです。神が”気前よく”なさるとは、神の愛です。御子キリストをささげてしまうほどの”気前の良さ”をもっておられることも、わたしたちが信じる救い主なる神なのです。そのことを”見間違え”てはなりません。自分は自分はと思って先頭を走っているつもりでも、神の目からご覧になれば、一番後を走っているのかもしれません。神は、ともすれば、あなたが後ろに置き去っていると思っている人を、あなたの前に据えるかもしれないのです。恐ろしいともいうべき神のこの”気前の良さ”を、わたしたちは、主イエスの姿を通して、仰ぎ見続けて行くのかもしれません。
東方の学者らは、星に導かれ、幼子イエスの生まれた場所に行き着きます。神の救い主に出会うことが出来ました。神が遣わす救い主は、どんな地上の王よりも王です。なぜなら、神の支配を及ぼす方だからです。教会が伝える救いとは、神の支配の元に生きる健やかさを取り戻すことです。それを実現されるのは、御子キリスト=十字架と復活の主イエスを信じること以外にはありません。学者らがひれ伏したのは、この世の王だからではありません。すべての人を救うために、神が遣わされた王の中の王となる方だからです。神の愛を本気で伝えて十字架の上で死んでゆく。それ以外の仕方では王になろうとはされない。それが、幼子イエス=御子キリストとしてお生まれになられた、神の救いのしるしです。
羊飼いたちは、天使が告げた通りに、幼子に出会った喜びに包まれ、神を賛美しながら、再び、元の場所(荒れ野)へ帰ってゆくのでした。神の救いに本当に出会った者は、今までとは違うこの世の何ものにも支配されない自由な喜びに包まれ、天の声を歌いながら歩み出してゆけるのです。クリスマス、それは、がんじがらめに人を縛り付け、生きる真の喜びを見失っている者への救いとして、御子キリストを、神が遣わしてくださった恵みのときなのです。
御子キリストは、歴史のうねりの中、格別な権力とは関係のない、しかし、全ての過酷な事柄を”神による試練”として受け止められる信仰をもった若い母と父の間に生まれたのです。わたしたちの教会の伝統の一つは「信仰のみ 聖書のみ 恵みのみ」です。それは、盲目な信仰心とはまったく違います。どんな状況にあろうとも、神を見失うことなく、ひたすらに天を仰ぎ見て、目の前で起こっている事柄を受け入れる=踏みとどまる信仰のことです。御子キリストの誕生とそれに伴った人々の信仰の姿に、神による救いの信仰の原点を見る思いがします。