この奇跡は、さらに続いて行くことが、7つの籠に残ったパンくずが表わしています。神の祝福は、たった(男子)4000人で終わることはないのです。7つとは初代教会の7つの役職(聖なる職務)という説もあります。(真意は分かりません)弟子たちは神の祝福がいっぱい詰まった籠を携えて、主イエスの死後、異邦人伝道へと向かってゆくことになります。神はユダヤ人(イスラエル)の回復から、世と人をご自分のもとへ取り戻す救いの御業を始められます。しかし、その御業は、ユダヤ人(イスラエル)を越えて、さらに拡がっていったのです。わたしたちの日本にも、パンくずの籠を携えた宣教師たちが来て、神の救いの祝福が、日本各地に拡がっていったのです。
主イエスは、彼女を顧みられます。「婦人よ、あなたの信仰は立派」だと。元の言葉では「大きい」という意味です。今でいう「メガ」です。湖で沈みそうになって騒いだ弟子の小さな信仰と比べ何と大きな信仰でしょう。この話しを通して示されていることは、神には神の秩序があることをきちんと認めつつ、不平を述べずに神へ信頼を寄せて行く。そのとき、想像を超える奇跡が起こるのだ、ということです。教会はある種の危機にあります。社会も世界も、混迷の中にあります。神に不満を述べたい思いが募ります。しかし、それでも、神の救いの秩序を信じ、神に委ねて、そのときを縋るほどに待ち続ける、そういう信仰が今の時代は、求められているのではないでしょうか。
今、わたしたちの世界は、神の怒りの器になる寸前のところまで来ています。いつ神が忍耐を止めて、打ち壊されても仕方がないところまで来ています。しかし、神は、御子キリストの贖いの業(十字架と復活の出来事)によって、今に至ってもなお耐え忍んでくださっていると信じます。世界と人々が、憐みの器として取り戻される(造り直されるよう)篤き平和への祈りを携えて、御言葉の宣教(伝道)に仕え続けましょう。
米国に「サンデークリスチャン」という言葉が古くからあります。日曜日だけキリスト者のことです。週日は全く神から離れた生活をしていながら日曜日なるとクリスチャン顔をして教会に集うことを揶揄した言葉です。わたしたちも日曜だけのキリスト者になっていないか。よくよく考えてみる必要がありはしないでしょうか。
最後に、主イエスは、「食事の前に手を洗うことの無意味さ」を付け加えます。外面上、幾ら整えても、全く無駄であることを繰り返し、念を押すようにいわれます。「神はお見通しである」という畏れをもち、世と人を汚す言葉や行いではなく、世と人を救う(建て上げる:健徳的な)言葉と行いに祈り努めてまいりましょう。
主イエスはペトロを救い起こした後にこう言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。信仰が弱いと言われたのです。疑わなければ水の中に落ち込むことはなかったであろうと。これがわたしたち信仰者です。「主よ、ついてゆきます。どこまでも」と答えつつ、その瞬間から「主よ、無理です。お助けください」と叫び出す。この繰り返しの中に生きています。その中でも、主イエスは、わたしたちをしっかりと拾上げてくださいます。主イエスと共にペトロが船に戻りますと、たちまち逆風は静まります。信仰はあるのです。神を信頼したい思いもあるのです。それでも…というところにまで、主イエスは伴ってくださり、「信仰の薄い者よ」と叱りつつ、育ててくださるのです。
この話は、主イエスが、弟子たちに命じられたので、起こった奇跡ということには、注目したいと思いうのです。二匹の魚と五つのパンは、弟子たちが携えていたものです。少なくとも、伝道旅行には必要だと思って持参していたものです。二匹の魚と五つのパンは、わたしたちも教会も持っています。ただ、それが、主イエスがここぞと思われるときに、差し出すことが出来るかどうかということが、この話で問われていることではないでしょうか。伝道になど結びつかないと思い込んでいる、しかし、たしかに持参している、二匹の魚と五つのパン…主イエスの命に従って、それを差し出してみるとき、思いもよらない奇跡が起こるのだということを示されているように思います。
洗礼者ヨハネの弟子たちは遺体を引き取り葬ります。そして、主イエスのところへ行き、悲惨な結末を伝えます。主イエスも同じ運命を辿ることになります。洗礼者ヨハネの死は、主イエスの十字架の死を予期させるものです。しかし、主イエスの十字架の死は、神に背く悪しき者の手にかかって悲惨な死を迎えること以上の出来事となります。父なる神の御手によって「死者の中から復活」することとなるからです。そのことにより、主イエスの十字架の死は、単なる預言者の死から、世と人の罪を贖う「犠牲の死」(贖罪の死)に昇華されることとなります。奇しくも領主ヘロデが語った「死者の中から生き返ったのだ」という出来事が、父なる神の救いの計画の中で実現するのです。
信仰の応答がないところでは、主イエスの奇跡=神の恵みは起こりません。「人々が不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。」と。神の圧倒的な救いの恵みは、まことの神である御子キリストが、地上の中に降り立ってまことの人であるナザレのイエスになってくださったという点に表れています。「まさか」「こんなところに」「なぜあの人なのか」という驚きの中に、神の国の秘密は隠されているのです。それを見出すには、わたしたちの中に無意識に育っている偏見や思い込みや差別といった罪=神に反する思いを、主イエスに打ち破っていただくことからしか生じません。まことの神がまことの人になられた、神の深い御心に思いを馳せたいと思います。
倉から新しいものを取り出す主人、古いものも取り出す主人のようであると、主イエスはたとえられます、その意味は、主イエスからの直接の教えと旧約聖書の教えです。その二つの、神の国についての教えを、弟子と呼ばれる者は、取り扱うことができるようになったということです。聖書が今日、旧約と新約と両方用いることにも引き継がれています。わたしたち(教会とキリスト者)は主イエス以前の古い教えからも主イエス以後の新しい教えからも神の国の秘密を学んでいるものであり、取り扱える者でもあるのです。「神の愛の結晶(結実)である律法を完成なさるのはキリストである」ことを忘れてはなりません。
主イエスは、神の国の種を、様々な機会を捉えて、一人ひとりと世界に蒔かれています。たとえとは謎を意味していますが、神の国の秘密はこの世の原理原則で捉えるものではありません。主イエスが、たとえをもってお示し下さったことは、そういうことではないでしょうか。『神の支配は人間社会のスケールではない。天地創造の時より、気づいてないかもしれないが、隠された仕方で、神は種を蒔き続けており、わたしたちの意思にかかわらず、成長する=実現する』のだと。やがて、終りの日、主イエスが来られるとき、その種は完成します。その時まで、わたしたちは、(神に国の完成に向けた)神の働きを信じて、神と共に働くことを、志してゆきたいと願います。