主イエスのエルサレム入城に熱狂する一群に驚いた人々は尋ねます。「この人は誰なのか」と。すると主イエスと共に行進する人々は答えます。「ガリラヤナザレから出た預言者イエス」と。律法の教えに辟易して、神の支配を説きつつもローマの傀儡と化していたエルサレムの宗教指導者(祭司や律法学者)に矛盾を感じていた人々は、主イエスに大いに期待するものがありました。しかし、人々が思うような預言者ではなくなってゆくのが、この後の主イエスの歩みです。神の救いとは何なのか、どういうことなのか。自分たちの願望が実現することなのか。おもしろくない世界が一変することなのか。今、わたしたちの世界と社会は、そのことが、かつてないほどに問われています。
主イエスのこの憐み深さは、十字架の上で頂点に達します。わたしたちは、みな、信仰的には、見るべきところを見ていない一人ひとりなのです。神を見ていない罪人です。主イエスは、罪人であるわたしたち一人ひとりを、はらわたがちぎれるほどに憐れんでくださって、十字架の上にお架かりになられたのです。この主の憐みに触れる者はみな、信仰の目が開かれるのです。一度開かれた信仰の目(洗礼者の目)は、次第に曇るときがあります。そのときはまた、主イエスの憐みを施していただき、開いていただくのです。それが、礼拝のときであり、格別、聖餐に与かるときであり、主に向かって祈るときでもあります。わたしたちの主は、罪人の前で、必ず、立ち止まってくださいます。
旧約の時代、人間であれ家畜であれ「初めての子」は神の所有だから神に献げる(お返しする)という考え方がありましが、実際に献げるのではなく、羊の血をもって贖ったり、贖い金というものを神殿に支払ったりする習慣となっていました。そのことを主イエスは援用されて、自分の犠牲によって、罪人は、神のものとして買い戻されるのだということをいわれます。礼拝をサービスともいいますが、わたしたちが神に仕える(サービスする)のではなく、イエスキリストが、尊い命を献げてくださったという意味で、サービスされたということが先にあるのです。この世で、神に仕えて行くとはどういうことなのか。主イエスの言葉と行いを通して、わたしたちは学び続けてゆくしかないのかもしれません。
聖書の信仰に立てば、わたしたちと世界は全て神のものです。思うように支配することはできません。それが出来るのは神のみです。神が”気前よく”なさるとは、神の愛です。御子キリストをささげてしまうほどの”気前の良さ”をもっておられることも、わたしたちが信じる救い主なる神なのです。そのことを”見間違え”てはなりません。自分は自分はと思って先頭を走っているつもりでも、神の目からご覧になれば、一番後を走っているのかもしれません。神は、ともすれば、あなたが後ろに置き去っていると思っている人を、あなたの前に据えるかもしれないのです。恐ろしいともいうべき神のこの”気前の良さ”を、わたしたちは、主イエスの姿を通して、仰ぎ見続けて行くのかもしれません。
東方の学者らは、星に導かれ、幼子イエスの生まれた場所に行き着きます。神の救い主に出会うことが出来ました。神が遣わす救い主は、どんな地上の王よりも王です。なぜなら、神の支配を及ぼす方だからです。教会が伝える救いとは、神の支配の元に生きる健やかさを取り戻すことです。それを実現されるのは、御子キリスト=十字架と復活の主イエスを信じること以外にはありません。学者らがひれ伏したのは、この世の王だからではありません。すべての人を救うために、神が遣わされた王の中の王となる方だからです。神の愛を本気で伝えて十字架の上で死んでゆく。それ以外の仕方では王になろうとはされない。それが、幼子イエス=御子キリストとしてお生まれになられた、神の救いのしるしです。
羊飼いたちは、天使が告げた通りに、幼子に出会った喜びに包まれ、神を賛美しながら、再び、元の場所(荒れ野)へ帰ってゆくのでした。神の救いに本当に出会った者は、今までとは違うこの世の何ものにも支配されない自由な喜びに包まれ、天の声を歌いながら歩み出してゆけるのです。クリスマス、それは、がんじがらめに人を縛り付け、生きる真の喜びを見失っている者への救いとして、御子キリストを、神が遣わしてくださった恵みのときなのです。
御子キリストは、歴史のうねりの中、格別な権力とは関係のない、しかし、全ての過酷な事柄を”神による試練”として受け止められる信仰をもった若い母と父の間に生まれたのです。わたしたちの教会の伝統の一つは「信仰のみ 聖書のみ 恵みのみ」です。それは、盲目な信仰心とはまったく違います。どんな状況にあろうとも、神を見失うことなく、ひたすらに天を仰ぎ見て、目の前で起こっている事柄を受け入れる=踏みとどまる信仰のことです。御子キリストの誕生とそれに伴った人々の信仰の姿に、神による救いの信仰の原点を見る思いがします。
三か月エリサベトのもとに滞在したマリアは自分の家=生活の場へ帰ります。エリサベトと共に神の選びを確信したマリアは、主イエスの母としての生涯を始めるのです。しかしその生涯は、主イエスを神殿に連れて行ったときにシメオンから受けた言葉に預言されるような生涯となります。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」と。我が子が十字架に架かって死ぬことを目撃する人生が待っているのです。しかしそれが、神の子を宿したという何ものにも代え難い幸いなのかもしれません。
夢のお告げから目覚めたヨセフは、主の天使=神に命じられた通りに、妻となるマリアを迎え入れます。そして、生まれ出た子どもの名前も、神に言われた通り、イエス=主は救いとします。ヨセフは、主イエスが生まれるまで、マリアと関係をもつことはしませんでした。それは、ヨセフが、二人の間に起こった全てのことを、神が主体となり起こしたこと(神の主導による出来事)として(人が介入してはならない:触れてはならない事)として、受け入れたことの証しでありました。アドベント二週目に入ります。受け入れ難い突然の出来事に動じながらも、神と神の言葉に聞き続け、救い主なるキリストの誕生=救いそのものを来たらせるに至った若い二人の信仰に思いを馳せつつ過ごしましょう。
イザヤ書51章は、第二イザヤ書と呼ばれる時代に書かれた預言です。ユダヤ人(歴史のヘブライ人)がバビロニアに強制連行された最も苦しい、そして「希望のない」時に書かれた預言書です。人は、希望を失う前を向かなくなり、やがて、四面楚歌に陥ります。しかし、たとえそうであっても、一つだけ開けている場所があります。天の高き空です。そこには、救い主なる希望の神がおられます。イザヤは語ります。「目を上げて、天に眼差しを向けよ」と。捕囚のユダヤ人はこの預言から慰めと力を得て、解放(救い)に至ります。わたしたちもまた今の暗き時代、天に眼差しを向けて歩み続けましょう。