この世には、自他ともに思いもよらない苦しみや痛みがあります。心身共に傷ついて立ち上がれなくなるようなときもあります。そのとき、わたしたちは、それをどのように受け止めてゆけばよいのか。ただ、自分や他人の仕業としてしまい恨みと悔いの中で死に絶えて行くのか、それとも、神の怒りとして、潔くそれを引き受け、悔い改めた後に、神に拠って引き上げていただき、神を仰ぎ見るとき=”復活の希望のとき”にかけてみるのか。そこには大きな違いがあります。最後の一週間です。主がどのような思いで十字架に向かわれたのか、もう一度、深く祈りを馳せて行きましょう。
わたしたちは主イエスが今ここにおられる(臨在されている)として礼拝をささげます。それを可能とするのは、主イエスの声に聞くことによってです。では、その声はどこから響いて来るのか。聖書の御言葉からです。聖書とその解き明かしである説教の言葉によって、わたしたちは、主イエスが今ここにおられることを確信するのです。旧約聖書の教えではエリヤが再び来て元通りにする(神の子として身分を取り戻す=創造の秩序を戻す)と教えられていましたが、新約聖書の時代には、主イエスが生きて働かれて、格別、礼拝という場に、祈りの内に来てくださることによって、それは実現したのです。
神の救いの歴史は、終りの日まで、何度でも繰り返し続きます。神の救いの出来事の積み重ねが神の国=神の完全な支配を来たらせるのです。その一つひとつは、その日そのときまで、神の民には隠されていることかもしれません。あたかもアドベントカレンダーをめくってゆくかのように、一つひとつの神の救いの出来事が埋まってゆくのです。捕囚の民は、その中の一つを見させられたといえましょう。その後を引き継いだユダヤの民から、主イエスが生まれ、神の救いの歴史は完成へと向かいます。わたしたち教会は、この救いの歴史の継承者です。主イエスが十字架と復活の出来事でお見せくださった救いの歴史を、怠ることなく語り続けて、主が再び来られる日を仰ぎ見ましょう。
幾ら珠玉のごとく輝くともし火のような聖書の言葉を知っていても、それを神の武具として信仰の戦いに用いるには「祈りの油」が必要です。パウロは語ります。「18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と。マタイ福音書25章にある賢い乙女のようにいつ信仰の戦いが始まろうとも祈りの備えをもって、聖書の言葉という神の武具を磨いておく(手入れしておく)必要があります。聖書の言葉を人生の教訓のようなものとして終わらせてはなりません。「聖書を聖霊(霊なる神)の導きによって読む」ということが大切です。
救い主なるイエス・キリストは生前次のような一言を遺されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:24~25)ここで主イエスがおっしゃっている「死ぬ」とは命を投げ捨てることだけではありません。「自分、自分」と主張する愚かさを投げ捨てるとき、永遠の命という何ものにも代えがたい祝福が与えられるということだけではないでしょうか。主にある希望をもって今の時を忍び耐えて生きる中で与えられる祝福です。主の十字架の後ろ姿を仰ぎ見つつ、それぞれの重荷(苦難)を担ってゆきましょう。
今日、わたしたちがもっとも難しいといえることの一つは「赦しのなさ」です。自分も他者をも容赦なく裁き合う世界が広がっています。それこそ、創造の神が最も悲しまれ、怒りの裁きを発せられることではないでしょうか。しかし、神のこの激しい怒りを、わたしたちに代わって一身に引き受けられた方がおられます。主イエス・キリストです。わたしたちは、自分の力で何かしようと思うのではなく、ひたすらこのお方に向かって祈り続け、知恵と力とをいただき、神の働きとして、困難な課題に取り組んでゆくしかないのではないでしょうか。山をも動かすほどに、本気で神の赦しを求める信仰が求められています。
主イエスは、祭司や律法学者に「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
と告げられると、御自分の家であるエルサレムを離れてベタニヤへ赴かれ泊まられます。もはや「祈りの家」でなくなったエルサレムには留まられません。わたしたちの教会も「祈りの家」=「父なる神へ向かって祈る群れ」であることを忘れたとき、地上の事柄に目を奪われて神の真実を見失ったとき、主イエスが、エルサレムを離れられたように、教会を去られてゆくことを思わねばなりません。
主イエスのエルサレム入城に熱狂する一群に驚いた人々は尋ねます。「この人は誰なのか」と。すると主イエスと共に行進する人々は答えます。「ガリラヤナザレから出た預言者イエス」と。律法の教えに辟易して、神の支配を説きつつもローマの傀儡と化していたエルサレムの宗教指導者(祭司や律法学者)に矛盾を感じていた人々は、主イエスに大いに期待するものがありました。しかし、人々が思うような預言者ではなくなってゆくのが、この後の主イエスの歩みです。神の救いとは何なのか、どういうことなのか。自分たちの願望が実現することなのか。おもしろくない世界が一変することなのか。今、わたしたちの世界と社会は、そのことが、かつてないほどに問われています。
主イエスのこの憐み深さは、十字架の上で頂点に達します。わたしたちは、みな、信仰的には、見るべきところを見ていない一人ひとりなのです。神を見ていない罪人です。主イエスは、罪人であるわたしたち一人ひとりを、はらわたがちぎれるほどに憐れんでくださって、十字架の上にお架かりになられたのです。この主の憐みに触れる者はみな、信仰の目が開かれるのです。一度開かれた信仰の目(洗礼者の目)は、次第に曇るときがあります。そのときはまた、主イエスの憐みを施していただき、開いていただくのです。それが、礼拝のときであり、格別、聖餐に与かるときであり、主に向かって祈るときでもあります。わたしたちの主は、罪人の前で、必ず、立ち止まってくださいます。
旧約の時代、人間であれ家畜であれ「初めての子」は神の所有だから神に献げる(お返しする)という考え方がありましが、実際に献げるのではなく、羊の血をもって贖ったり、贖い金というものを神殿に支払ったりする習慣となっていました。そのことを主イエスは援用されて、自分の犠牲によって、罪人は、神のものとして買い戻されるのだということをいわれます。礼拝をサービスともいいますが、わたしたちが神に仕える(サービスする)のではなく、イエスキリストが、尊い命を献げてくださったという意味で、サービスされたということが先にあるのです。この世で、神に仕えて行くとはどういうことなのか。主イエスの言葉と行いを通して、わたしたちは学び続けてゆくしかないのかもしれません。