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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年06月08日(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2章14節〜42節「賜物として聖霊を受ける」 道家紀一牧師

ペンテコステの日、ペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と語ります。邪悪とは神に背くということです。今の時代にも起こっている悪しき勢力に囚われてしまうような時代状況です。そこから救われるには洗礼以外にはありません。その日、数え切れない多くの人々(三千人)が洗礼を受けて使徒たちと共に加わったとあります。教会の始まりです。「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」に熱心であったという教会の姿は変わることなく、賜物としての聖霊が、教会とそこに生きる一人ひとりに授けられている(注がれている)ことを信じ、神に背く邪悪な時代状況に対して、祈りをもって、教会は向き合っていきたいと願います。

2025年06月01日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章24節〜30節 36節~43節「毒麦とは何か」 道家紀一牧師

終末はキリストにあって選ばれている者には喜びに満ちた日です。毒麦のたとえで、主イエスが示そうとされたことは、わたしたちが勝手に救いについて決めてはならないということです。自分も含めて、どう考えても毒麦と呼ばれるまま終わってしまいそうな人や出来事、雑草のまま引き抜かれるに決まっていると思えてしかたがない人や出来事はこの世にはたくさんあります。しかし最後に救われるか救われないかは神がお決めになられます。ある人はいいます。「キリスト者は、すべてのことにおいて、忍耐して待ち続けるのだ」と。主の救いの時を信じて待つ信仰を養わねばなりません。

2025年05月25日(主日礼拝)使徒言行録 1章3節〜11節「約束の聖霊は今も」 道家紀一牧師

教会は、使徒たちの継承です。教会が使徒的である(あらねばならない)ということは、聖書に記されている救いの出来事を信じ、受け継いでいるからです。日本基督教団信仰告白でこう告白します。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛の業に励みつつ、主の再び来りたまうを待ち望む」と。主が再び来られるとき(主の再臨)まで、教会は、キリストの証し人として歩み続けるのです。

2025年05月18日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 13章18節〜23節「神の国を来たらせる種になる」 道家紀一牧師

主イエスがいわれる良い土地では、主イエスに聞き従うような信仰を育める状態にあるのかということが問われます。道端のような心、石地のような気持ち、茨に塞がれた思いに置かれているような場所から主イエスに倣う信仰は生み出されません。信仰の種は始めから良い地に蒔かれるのではありません。いえむしろ、道端や石地や茨に覆われたような地であるわたしたちの心に蒔かれるのかもしれません。しかしそこから、わたしたちは蒔かれた種である信仰が良い実を結べる良き土地になれるように”自分の畑”を懸命に耕してゆくのです。

2025年05月11日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章10節〜17節「御言葉を聞ける幸い」 道家紀一牧師

ここで主イエスがいわれている弟子たちとは、すなわち、わたしたち教会のことです。教会は、したがって、神と神の国(神の支配)についての主イエスの言動を見聞きして、悟っているところ(群れ:集まり)なのです。毎週ささげられている礼拝を通して教会は聖霊に導かれ、主イエスから発せられる「救いの言葉」を見聞きしています。たとえをもって語られるような存在では、もはやなくなっていることを覚えねばなりません。この世に迎合して、主イエスの御業と御言葉とを、濁すことも薄めてしまうこともなく、わたしたち教会は、伝えて行く者でありたいと願います。

2025年05月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章1節〜9節「種を蒔く人と場所」 道家紀一牧師

御言葉に聞いて、自分が蒔かれた畑を、それが世間から見て(人の目から見て)好ましい場所であれ、そうでない場所であれ、耕し続けて行くということが大切です。パウロは語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれ働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(一コリント3:6~9)どこに蒔かれようと「神の畑」と信じて、神による成長を確信し「御言葉に聞き続ける」ことが大切と思います。

2025年04月27日(主日礼拝)ルカによる福音書 24章13節〜35節「エマオへの道で」 道家紀一牧師

主イエスがパンを裂いて二人の弟子に渡したとき、二人の弟子の“目が開けて”、主だと分かります。「主は生きておられる。復活なさった」という信仰的体験です。二人は、全てのことを想い起こします。“目が開けて”と訳されている“ディアノイゴー”には「説明する」という意味があります。復活の主が話し説明していたことは、彼らの目が開かれるためでありました。礼拝においてキリストが今も生きて働かれていることを確信し、救いの信仰を分かち合います。礼拝(聖餐式)において、今ここに十字架と復活の主がおられる(臨在されている)という確信をもって、御言葉に聞くとき、わたしたちの心の目は開かれて、燃えるような思いをもって、救いの信仰に導かれるのです。

2025年04月20日(復活祭主日礼拝)ルカによる福音書 24章1節〜12節「主の復活」 道家紀一牧師

ルカはキリストの復活について混乱した状況を包み隠さず記録します。キリストの復活は神の救いの力の証明です。わたしたち人間が抱えているあらゆる問題の根底にある人の罪を解決する唯一の道です。しかしそれを信じることについては、初代教会にも混乱と戸惑いがあったことが分かります。キリストの復活とそれに基づく救いの力については戸惑いとおそれがあります。立ち帰るべき姿は婦人たちです。墓を塞ぐ石の存在”にもかかわらず”墓へと向かった…その先で見させられたことは、不可能を可能とする救いの事実です。聖書と礼拝を通して救いの言葉を日々聞かされているわたしたちも救いの事実にも出会ってゆく一人ひとりであることを想い起こしたいと願います。

2025年04月13日(棕櫚の日礼拝)ルカによる福音書 19章28節〜44節「主にあって生きる人々」 道家紀一牧師

神の国は今も建設されています。わたしたちにはとても納得できないような世界情勢があります。受け入れ難い出来事が続いています。それでも、神は生きて働いておられると信じることができるとき、事情は変わります。弟子たちや群衆のエルサレム入城の迎え方には間違いもあったと思います。しかし、彼ら彼女らは少なくとも、ファリサイ派やサドカイ派のように拒否はしませんでした。神が来ていること(神の時)をおぼろげであってもみようとしたからです。その“信仰の一歩”によって、一つひとつ“神の時”が明らかにされてゆきます。初代教会は、主よ来たらせたまえ(マラナ・タ)と祈りつつ、そのときを待ち続けました。その信仰の息吹は今も続いています。

2025年04月06日(受難節第五主日礼拝)マタイによる福音書 12章46節〜50節「主にあって生きる人々」 道家紀一牧師

マリアは、世の母としては、最大な嘆きを経験します。絵画ピエタはその悲しみを表現しています。ですが、そこで、マリアは終わることはありませんでした。十字架の死後、主イエスの復活を信じる群れの中心になって、祈り続けて、聖霊降臨(ペンテコステ)のときを迎えます。神のご計画とそれに対する深い御心を知ったからです。キリスト教の歴史には、母マリアのような人々がたくさんいます。神に従う道で苦しい思いをした人、嘆きと悲しみに暮れ続けた人、それでも、主に従う道を選び続けた人々がいます。その人々(主にあって生きる人々)の群れの積み重ねが主の教会であり、そこに生きる人々=教会の歴史です。そのような信仰者の一人ひとりとして歩み続けたいと願います。