• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019-07-28(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:43 - 51「キリストの弟子となること」 道家紀一牧師

教会へ通うようになって、主イエスの救いを信じ洗礼を受けた人のことをキリスト者(クリスチャン)といいますが、それは「キリストの弟子」となることです。教会は「ナザレのイエスと弟子の集団」に基があります。弟子は弟子を生み出します。アンデレは、兄弟ペトロを、主イエスのもとへ連れて来ます。ただ、それだけの役割で終わります。その後はペトロの活躍が目立ちます。しかし、アンデレの価値が低くはなりません。彼には彼の選ばれた役割がありました。ペトロはペトロの。大切なことは選ばれた弟子の務めに専念することです。

2019-07-21(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:35 - 42「教会の礎―神の選び」 道家紀一牧師

信仰は、人間としては「決断」または「決心」ですが、神の方からは「選び」となります。洗礼を受けて信仰者(キリスト者)になるとは神に召し出されてキリストの弟子になることです。教会が形造られる前に、主イエスと弟子という集団(弟子集団)がありました。それが教会の基礎です。それは今も変わりません。ペトロのように、ペトロを連れて来たアンデレのように、主イエスに選ばれた、今ここに(教会に)いるのです。神に選ばれることなく教会にいる人は一人もいません。教会の基礎、それは神の選びと選ばれた人にあります。

2019-07-14(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:29 - 31「神の救いを見る謙虚さ」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書の最初には「洗礼者ヨハネ」のエピソードが何度も繰り返し出てきます。それは、“彼”(洗礼者ヨハネ)のあり方(姿)を通して学ぶことが多いからです。洗礼者ヨハネはすぐれた預言者でした。体格も風貌も立派でした。しかし、その彼の前に「救い主キリスト」(ナザレのイエス)が現れたとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告白して迎えました。彼(洗礼者ヨハネ)は、水の洗いの洗礼(悔い改めの洗礼)を人々に施し、ただひたすら本当の救い主=救いが来ることを待ち続けました。この謙遜な姿に倣うのです。

2019-07-07(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:19 - 28「神の救いを待ち続ける」 道家紀一牧師

わたしたちの救い主はイエス・キリストです。このことは明らかです。しかし、始めの頃の教会では必ずしもそうではありませんでした。洗礼者ヨハネという偉大な人物に傾聴する人々もいました。ヨハネ福音書は、そのことを糾します。洗礼者ヨハネ自身が、「履物の紐を解く値打もない」と告白しているではないのかと。彼は、イエス・キリストが来られる前に、彼を迎えるために道備えをした人物に過ぎないと。この洗礼者ヨハネの遜りに倣うことを求めます。人は救い主(救い)を待ちますが、その待ち方を洗礼者ヨハネにみることができます。

2019-06-30(西東京教区の日礼拝)ヨハネによる福音書 1:14 - 18「躓きの中でこそ輝く光」 道家紀一牧師

言葉は肉に宿った。天の神が一人の人間(ナザレのイエス)になられた、ということです。それは“入り込んだ”とか“乗り移った”ということではなく、神が、敢えて、必要もないのに、ちっぽけな人間の中にかたちをとられた、ということです。これを“神の謙遜”(へりくだり)といいます。神は罪のある世に来てくださったということは、人としての苦しみ悩み、辛さや弱さ、そしてなによりも罪を味わってくださったということです。十字架の上の叫び「神よ何ゆえわたしを見捨てられた」は、罪の極みを言い表しています。

2019-06-23(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:6 - 13「神の子となる資格」 道家紀一牧師

神の救いは、圧倒的で一方的な神からの働きかけ=神の絶対恩寵から来ます。
しかし人は神の救いにいろいろな条件や資格を持ち込みます。人間的な立派さ、家柄や肩書き…、わたしたちの救い主イエス・キリストは、ガリラヤのナザレの大工のせがれ、風変りな男、ローマの反逆人として十字架の上で死刑に処せられた人です。人間としては最低最悪な生涯を送った人です。しかしこの方が、神から遣わされた神の子キリストでした。バプテスマのヨハネが証しする人はその方のことです。ただこの方=キリストを信じる信仰が救いの条件です。

2019-06-16(三位一体主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:1 - 5「神の輝きに招かれる」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書は“言葉”があったと書き始めます。ここでいう言葉とは、人間の話す言葉ではありません。天の言葉=天的ロゴスのことです。人間と世界が現れる前から天において存在した言葉のことです。この天の言葉によって世界と人間は造られたのだと。ここには明らかに創世記1章のことが背景にあります。神は、人を創造したとき、命の息を吹き込まれました。そして人は真に生きるものとされました。その命は、天の言葉のうちにあるものなのだと。この命を吹き込まれた者が、神に敵対する罪の闇の中で輝きを放つのだと。

2019-06-09(聖霊降臨祭主日礼拝)使徒言行録 2:1 - 13「聖霊が降る」 道家紀一牧師

主イエスは復活なさった後、40日間弟子たちと共に過ごされました。弟子たちはこのままずっと一緒にいてくださると思いました。しかし復活なさった主は、もはや肉の体ではありませんでした。神の体(霊の体)に復活なさった主は、地上に長くとどまることは出来ませんでした。天に戻る必要がありました。主は弟子たちが見ている前で天に上げられます。しかしそのまま消え去るのではなく、聖霊となって共にいてくださる方となります。その聖霊が、弟子たちの祈りの輪に降り注がれた日、それが「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。

2019-06-02(主日礼拝)ルカによる福音書 4:14 - 15「“霊”の力に満たされて」 道家紀一牧師

主イエスは“霊”によって荒れ野へ導かれ、そこで人間が抱えているあらゆる悪しき霊と対決されて、打ち勝たれました。そのとき、主イエスを支えたのは“神の霊”です。霊によって引き回されたとは霊によって守られたということです。主は神の力に包まれて悪しき霊=罪の勢力に勝たれたのです。やがて、主イエスが天に戻られた後、その霊は、父と子と同じ主なる神そのものとなりました。わたしたちは、今日、その同じ霊に満たされています。格別、礼拝において、聖霊なる神に満たされるのです。そして日々の生活へ送り出されます。

2019-05-26(主日礼拝)使徒言行録 1:3 - 11「主イエスは天に戻られる」 道家紀一牧師

主イエスは、約束の聖霊が降ることを言い残されて、天に戻られました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。しかし信じられない弟子たちは、天を空しく仰ぎ見るだけでした。そのとき天の使いが来て語ります。「なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのと同じ有様でまたおいでになる」と。ここに地上の教会が歩む意味とパイエティがあります。