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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年03月30日(受難節第四主日礼拝)マタイによる福音書 12章43節〜45節「悪い時代となるのはなぜか」 道家紀一牧師

人間は反省します。しかし、それは一瞬の点で終わります。よくいわれる「喉元過ぎれば熱さを忘れる」です。神の前に罪を赦された者は、そこで悔い改めたはずです。悔い改めたということは、もはや悪霊を主とはしないで、キリストを主とした者に変えられた、ということです。社会も、組織も、世界も、時に、悔い改めますが、瞬時で終わってしまい、まっすぐな神へと向かう線にしていかないならば、再び、神ならぬものに支配されて、やがては、滅びに至ってしまうのです。今日の世界は、どうでしょうか。わたしたちの国は、社会は、どうでしょうか。そして、教会は…一瞬の悔い改めではなく、主に向かった決断を、何度も何度も悔い改めながら、続けてゆきたいと願います。

2025年03月23日(受難節第三主日礼拝)マタイによる福音書 12章38節〜42節「ヨナとソロモンにまさる者」 道家紀一牧師

わたしたちは、目で見て触って、手ごたえのある世界に生きています。証拠の積み重ねの世界観に生きています。”エビデンス”とか”ファクトチェック”いう言葉が普通に用いられるような時代に生きています。しかし、聖書の世界は違います。「見ないで信じる者は幸いです」という世界です。それは、闇雲に神を信じなさい、ということではありません。目で見て手で触って生きて行く、あるいは、そう生きて行かざるを得ない世界において、それだけではない世界=しるし(証拠)を求めない「真実なる世界」があることを信じることの大切さを、主イエスキリストという方は、わたしたちに示し続けてくださっているのだと思います。今日求められていることの一つだと考えます。

2025年03月16日(受難節第二主日礼拝)マタイによる福音書 12章33節〜37節「自分の言葉に責任をもつ」 道家紀一牧師

「つまらない言葉」について少し調べてみました。他の言い方では「無益な言葉」とありました。ということは、神に対して「役立たない言葉」という捉え方が出来るのではないでしょうか。いつも、いつも、神のために益する、あるいは、神の国(神の支配)に益するような言動は出来ていないかもしれません。しかし、それでも、キリストの救いに与かっていることを信じ、祈りをもって言葉を紡ぎ、その言葉に基づいて行動を繰り返してゆくならば、最後の日を、恐れなく迎えることが出来るのではないでしょうか。自分の為に語る言葉ではなく、神と神が造られた隣人と世のためになる言葉を紡ぎ出す祈りをささげてゆきたいと願います。

2025年03月09日(受難節第一主日礼拝)マタイによる福音書 12章22節〜32節「神の国は来ている」 道家紀一牧師

主イエスがいわれることは、次のことです。人が神とキリストイエスに対して犯す罪については赦されるであろうが、主イエスに授けられた聖霊を退ける者は決して赦されることはないと。主イエスに授けられた神の霊は十字架と復活の後天に戻られた主イエスご自身から、約束の霊として、教会へ降り注がれました。ペンテコステの出来事です。主イエスに授けられた神の霊は聖霊なる神となって礼拝されることとなったのです。主イエスがいわれていることはその一連の出来事です。神が御子キリストを遣わし、その血を流させるほどに、その肉を割かさせるほどにして、実現しようとなさった「赦しの御業」を否定する者は赦されないのだと。聖霊は神がわたしたちを罪から救おうとなさった全ての出来事を、わたしたちにはっきりと分からせてくださる神そのものなのです。

2025年03月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 12章15節〜21節「神が選んだ主の僕」 道家紀一牧師

神の正義が実現するまでは、「傷ついた葦」となっても「くすぶる灯心」となっても、神の名によって、望みを置くしかないのでしょうか。人間の間違った正義が振りかざされる中において、神の正義を貫くことは、今にも倒れそうな葦のようにもなるでしょうし、消えそうなろうそくの火ともなるでしょう。しかし、そこでこそ、なお、踏みとどまるのです。神へ期待して。神の愛は、わたしたちを引き離すことはないと信じて。
神を信じる者は、見える人の時の流れの中で見えない神の時を待ちながら祈る人のことです。主イエスは、その神の時を、神に選ばれた僕として歩み続け、最後には十字架の死をもって、“このとき”(神の時)を示されたお方といえましょう。

2025年02月23日(主日礼拝)マタイによる福音書 12章9節〜14節「続 安息日の主はどなたか」 道家紀一牧師

「異教よりも異端」という言葉があります。わたしたちは、自分たちの内から、これまでの伝統とか慣習とかを打ち破ろうとする勢力を恐れます。そして抑え込もうとします。同じ神を信じているのだから、同じ意見を持ち、同じ行動をするはずではないかという思い込みがあります。しかしそれは違います。神は、“命の息を吹き込まれたということ”(ザッヘ)以外には、まことに自由に、わたしたちをお造りくださいました。したがって、わたしたち一人ひとりは違っていて当然なのです。大切なことは、違っていることが分かったとき、明確になったとき、そこで信仰の一致を=同じ神を仰ぎ見て、共に話し合い、歩むことが出来るかどうか、ということです。

2025年02月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 12章1節〜8節「安息日の主はどなたか」 道家紀一牧師

神の愛と憐みは律法主義(律法順守)の中にこそあるとして譲らないファリサイ派は、いつの間にか、安息日の主(支配者)となっていました。神の上に立って、神の御心を実現しようとする傲慢な思いを打ち砕くために、主イエスは、安息日の(を定められた)本当(本物)の主として地上に来られたことを、改めて心と身体に刻みたいと思います。そのことはまた、なぜ毎週礼拝を守るのかということにも繋がってゆきます。わたしたちキリスト者と教会にとって安息日である主日礼拝をささげることの意味は、御子キリストを遣わす程にして神のもとへ取り戻そうとされる神の憐みへの感謝と、神の愛と慈しみに生きる希望を確かなものとするときなのである、ということを。

2025年02月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章25節〜30節「わたしのもとに来なさい」 道家紀一牧師

主はいわれます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

しかし、これを聞く多くの人は思うでしょう。主イエスの軛は何と負い難く、その荷は重いであろうと。それでも、主イエスは、あえていわれます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」のだと。「一人で担うには重かろうと」と主イエスは言われているかのようです。わたしが模範となって、共に、罪と弱さによって生じたあなたの重荷と疲れを担って行こうではないか。あなたに教えよう、いや、是非学んでほしい。「本当の軽やかな生き方」というものを、主イエスはそう語っていると思います。

2025年02月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章20節〜24節「神による徹底的な審判」 道家紀一牧師

主イエスが奇跡の御業を起こされる前には「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」という御言葉があったことを忘れてはなりません。今でも神が関わってくださったに違いないと思うような奇跡は起こっています。そのとき、わたしたちは何を思うか。間違っても自分の信仰が高まったとか深まったとか思ってはなりません。神を一層畏れ悔い改めるしかありません。滅ぼされてしまったソドムよりもあなたがたの罪は重いと主イエスから言われることがないように、思い上がったわたしたちが、神の裁きに遭うことを恐れ謙遜に歩むことに努めたいと思います。と同時に、裁きの恐ろしさは、主イエスが全て担っていてくださることに感謝をささげてゆきたいと祈ります。

2025年01月26日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章16節〜19節「知恵と真理は自ら証しする」 道家紀一牧師

神から授けられた知恵は、神を畏れつつ用いてこそ、始めて、知恵は知恵としてその正しさが証明されるのです。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とはそういうことだと思います。人間の英知=知恵は軽んじられる必要はまったくないといえましょう。ただ、その知恵が何処から来ているのか、なぜ与えられたのか、そして、それを何のために用いればよいのか。その用い方(働き)によって、その知恵が持っている正しさというもの、すなわち、神が与えた本物の知恵であるかどうかは明らかになるといえましょう。神を畏れ、神への祈りをもって、与えられた知恵を用いるとき、知恵の元である神の知恵と真理とは自ずと証明される(明らかとなってゆく)こととなります。