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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019-08-25(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3:1 - 6「干からびた命に注がれる聖霊」 道家紀一牧師

世の中には不思議な人がいるものです。お金も地位も名誉も何もかも満たされているように見える人が、実は、その内面で非常に苦悩している…傍から見て何の問題もないような人が落ち込んでいる…それは魂(心の深いところ)が潤っていないからです。干からびた命に生きているからです。ここに登場するニコデモはその代表です。ある意味、わたしたちの一部(分身)です。心が満たされない飢えと渇きをおぼえているのです。主イエスがいわれる水と霊によって生まれ変わるとは、その枯れた命に神の命を注ぎ、生き直すことです。

2019-08-18(主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:23 - 25「神の子は証しを必要としない」 道家紀一牧師

何かを信じるためには“しるし”は必要かもしれません。聖書にはたくさんの“しるし”が書かれてあります。旧約聖書にも新約聖書にも。一番有名なのはイエス・キリストの奇跡でしょう。病気を癒された。5000人のお腹の空いた人が満足した…しかしこれらの奇跡は「ナザレのイエスはキリストです」という告白へ導く決定的なしるしではありません。わたしたちが大切にするべき“しるし”はイエス・キリストの十字架と復活という“しるし”です。人の罪を赦すという何物にも代えがたい奇跡の“しるし”、それが十字架と復活です。

2019-08-11(主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:13 - 22「聖なる怒り」 道家紀一牧師

夏になりますと神社仏閣では“夏祭り”が始まります。そこでは金魚すくいや綿あめ屋さんなどいろいろな露店が並びます。楽しい夏の風物詩の一つです。主イエスの時代のエルサレム神殿にも「両替屋」や「鳩売り屋」が並んでいました。しかしそれは、神殿参拝者が楽しむという目的ではなく、神殿に供える犠牲の動物や神殿硬貨を交換し手数料を儲けるという商売の温床となっていました。神礼拝が人間の商売の道具に使われていることに主イエスは怒られます。この主イエスの怒りは神の怒りであり、十字架の裁きで顕れる聖なる怒りです。

2019-08-04(平和主日礼拝)ヨハネによる福音書 2:1 - 12「人生の限界を破る神の栄光」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書は“小さなしるし”から“大きなしるし”へと進めます。2章にあるカナの婚礼の奇跡はその最初の“しるし”です。ここで主イエスは、母マリアから(ぶどう酒が足りませんと)促されますが、「まだわたしの時ではない」と一旦は拒まれます。しかしマリアは、その時を信じて備えます。召使に主イエスが命じた時にはその通りにするように言い渡します。果たして、主イエスが瓶に水を一杯注ぐように命じられます。その通りにしたところ水がお酒になります。大切なことはその時(神が動く時)を信じて備えることです。

2019-07-28(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:43 - 51「キリストの弟子となること」 道家紀一牧師

教会へ通うようになって、主イエスの救いを信じ洗礼を受けた人のことをキリスト者(クリスチャン)といいますが、それは「キリストの弟子」となることです。教会は「ナザレのイエスと弟子の集団」に基があります。弟子は弟子を生み出します。アンデレは、兄弟ペトロを、主イエスのもとへ連れて来ます。ただ、それだけの役割で終わります。その後はペトロの活躍が目立ちます。しかし、アンデレの価値が低くはなりません。彼には彼の選ばれた役割がありました。ペトロはペトロの。大切なことは選ばれた弟子の務めに専念することです。

2019-07-21(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:35 - 42「教会の礎―神の選び」 道家紀一牧師

信仰は、人間としては「決断」または「決心」ですが、神の方からは「選び」となります。洗礼を受けて信仰者(キリスト者)になるとは神に召し出されてキリストの弟子になることです。教会が形造られる前に、主イエスと弟子という集団(弟子集団)がありました。それが教会の基礎です。それは今も変わりません。ペトロのように、ペトロを連れて来たアンデレのように、主イエスに選ばれた、今ここに(教会に)いるのです。神に選ばれることなく教会にいる人は一人もいません。教会の基礎、それは神の選びと選ばれた人にあります。

2019-07-14(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:29 - 31「神の救いを見る謙虚さ」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書の最初には「洗礼者ヨハネ」のエピソードが何度も繰り返し出てきます。それは、“彼”(洗礼者ヨハネ)のあり方(姿)を通して学ぶことが多いからです。洗礼者ヨハネはすぐれた預言者でした。体格も風貌も立派でした。しかし、その彼の前に「救い主キリスト」(ナザレのイエス)が現れたとき、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告白して迎えました。彼(洗礼者ヨハネ)は、水の洗いの洗礼(悔い改めの洗礼)を人々に施し、ただひたすら本当の救い主=救いが来ることを待ち続けました。この謙遜な姿に倣うのです。

2019-07-07(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:19 - 28「神の救いを待ち続ける」 道家紀一牧師

わたしたちの救い主はイエス・キリストです。このことは明らかです。しかし、始めの頃の教会では必ずしもそうではありませんでした。洗礼者ヨハネという偉大な人物に傾聴する人々もいました。ヨハネ福音書は、そのことを糾します。洗礼者ヨハネ自身が、「履物の紐を解く値打もない」と告白しているではないのかと。彼は、イエス・キリストが来られる前に、彼を迎えるために道備えをした人物に過ぎないと。この洗礼者ヨハネの遜りに倣うことを求めます。人は救い主(救い)を待ちますが、その待ち方を洗礼者ヨハネにみることができます。

2019-06-30(西東京教区の日礼拝)ヨハネによる福音書 1:14 - 18「躓きの中でこそ輝く光」 道家紀一牧師

言葉は肉に宿った。天の神が一人の人間(ナザレのイエス)になられた、ということです。それは“入り込んだ”とか“乗り移った”ということではなく、神が、敢えて、必要もないのに、ちっぽけな人間の中にかたちをとられた、ということです。これを“神の謙遜”(へりくだり)といいます。神は罪のある世に来てくださったということは、人としての苦しみ悩み、辛さや弱さ、そしてなによりも罪を味わってくださったということです。十字架の上の叫び「神よ何ゆえわたしを見捨てられた」は、罪の極みを言い表しています。

2019-06-23(主日礼拝)ヨハネによる福音書 1:6 - 13「神の子となる資格」 道家紀一牧師

神の救いは、圧倒的で一方的な神からの働きかけ=神の絶対恩寵から来ます。
しかし人は神の救いにいろいろな条件や資格を持ち込みます。人間的な立派さ、家柄や肩書き…、わたしたちの救い主イエス・キリストは、ガリラヤのナザレの大工のせがれ、風変りな男、ローマの反逆人として十字架の上で死刑に処せられた人です。人間としては最低最悪な生涯を送った人です。しかしこの方が、神から遣わされた神の子キリストでした。バプテスマのヨハネが証しする人はその方のことです。ただこの方=キリストを信じる信仰が救いの条件です。