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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年03月09日(受難節第一主日礼拝)マタイによる福音書 12章22節〜32節「神の国は来ている」 道家紀一牧師

主イエスがいわれることは、次のことです。人が神とキリストイエスに対して犯す罪については赦されるであろうが、主イエスに授けられた聖霊を退ける者は決して赦されることはないと。主イエスに授けられた神の霊は十字架と復活の後天に戻られた主イエスご自身から、約束の霊として、教会へ降り注がれました。ペンテコステの出来事です。主イエスに授けられた神の霊は聖霊なる神となって礼拝されることとなったのです。主イエスがいわれていることはその一連の出来事です。神が御子キリストを遣わし、その血を流させるほどに、その肉を割かさせるほどにして、実現しようとなさった「赦しの御業」を否定する者は赦されないのだと。聖霊は神がわたしたちを罪から救おうとなさった全ての出来事を、わたしたちにはっきりと分からせてくださる神そのものなのです。

2025年03月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 12章15節〜21節「神が選んだ主の僕」 道家紀一牧師

神の正義が実現するまでは、「傷ついた葦」となっても「くすぶる灯心」となっても、神の名によって、望みを置くしかないのでしょうか。人間の間違った正義が振りかざされる中において、神の正義を貫くことは、今にも倒れそうな葦のようにもなるでしょうし、消えそうなろうそくの火ともなるでしょう。しかし、そこでこそ、なお、踏みとどまるのです。神へ期待して。神の愛は、わたしたちを引き離すことはないと信じて。
神を信じる者は、見える人の時の流れの中で見えない神の時を待ちながら祈る人のことです。主イエスは、その神の時を、神に選ばれた僕として歩み続け、最後には十字架の死をもって、“このとき”(神の時)を示されたお方といえましょう。

2025年02月23日(主日礼拝)マタイによる福音書 12章9節〜14節「続 安息日の主はどなたか」 道家紀一牧師

「異教よりも異端」という言葉があります。わたしたちは、自分たちの内から、これまでの伝統とか慣習とかを打ち破ろうとする勢力を恐れます。そして抑え込もうとします。同じ神を信じているのだから、同じ意見を持ち、同じ行動をするはずではないかという思い込みがあります。しかしそれは違います。神は、“命の息を吹き込まれたということ”(ザッヘ)以外には、まことに自由に、わたしたちをお造りくださいました。したがって、わたしたち一人ひとりは違っていて当然なのです。大切なことは、違っていることが分かったとき、明確になったとき、そこで信仰の一致を=同じ神を仰ぎ見て、共に話し合い、歩むことが出来るかどうか、ということです。

2025年02月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 12章1節〜8節「安息日の主はどなたか」 道家紀一牧師

神の愛と憐みは律法主義(律法順守)の中にこそあるとして譲らないファリサイ派は、いつの間にか、安息日の主(支配者)となっていました。神の上に立って、神の御心を実現しようとする傲慢な思いを打ち砕くために、主イエスは、安息日の(を定められた)本当(本物)の主として地上に来られたことを、改めて心と身体に刻みたいと思います。そのことはまた、なぜ毎週礼拝を守るのかということにも繋がってゆきます。わたしたちキリスト者と教会にとって安息日である主日礼拝をささげることの意味は、御子キリストを遣わす程にして神のもとへ取り戻そうとされる神の憐みへの感謝と、神の愛と慈しみに生きる希望を確かなものとするときなのである、ということを。

2025年02月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章25節〜30節「わたしのもとに来なさい」 道家紀一牧師

主はいわれます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

しかし、これを聞く多くの人は思うでしょう。主イエスの軛は何と負い難く、その荷は重いであろうと。それでも、主イエスは、あえていわれます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」のだと。「一人で担うには重かろうと」と主イエスは言われているかのようです。わたしが模範となって、共に、罪と弱さによって生じたあなたの重荷と疲れを担って行こうではないか。あなたに教えよう、いや、是非学んでほしい。「本当の軽やかな生き方」というものを、主イエスはそう語っていると思います。

2025年02月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章20節〜24節「神による徹底的な審判」 道家紀一牧師

主イエスが奇跡の御業を起こされる前には「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」という御言葉があったことを忘れてはなりません。今でも神が関わってくださったに違いないと思うような奇跡は起こっています。そのとき、わたしたちは何を思うか。間違っても自分の信仰が高まったとか深まったとか思ってはなりません。神を一層畏れ悔い改めるしかありません。滅ぼされてしまったソドムよりもあなたがたの罪は重いと主イエスから言われることがないように、思い上がったわたしたちが、神の裁きに遭うことを恐れ謙遜に歩むことに努めたいと思います。と同時に、裁きの恐ろしさは、主イエスが全て担っていてくださることに感謝をささげてゆきたいと祈ります。

2025年01月26日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章16節〜19節「知恵と真理は自ら証しする」 道家紀一牧師

神から授けられた知恵は、神を畏れつつ用いてこそ、始めて、知恵は知恵としてその正しさが証明されるのです。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とはそういうことだと思います。人間の英知=知恵は軽んじられる必要はまったくないといえましょう。ただ、その知恵が何処から来ているのか、なぜ与えられたのか、そして、それを何のために用いればよいのか。その用い方(働き)によって、その知恵が持っている正しさというもの、すなわち、神が与えた本物の知恵であるかどうかは明らかになるといえましょう。神を畏れ、神への祈りをもって、与えられた知恵を用いるとき、知恵の元である神の知恵と真理とは自ずと証明される(明らかとなってゆく)こととなります。

2025年01月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 11章12節〜15節「苦難の先駆者」 道家紀一牧師

神の永遠の救いとは、これまでに汗を流し、あくせく稼いで、持ち合わせたあらゆる物を並べ立てても、手に入るものではありません。一度はすべて手放さなければなりません。洗礼者ヨハネは、その意味では、わたしたち信仰者の模範でもあります。悔い改めて=神の方へ向き直って、ただひたすらにキリストが来られる(救いが与えられる)ときを祈って待ち望む。信仰者のあるべき姿は、それしかないといえましょう。

2025年01月12日(主日礼拝)マタイによる福音書 11章7節〜11節「荒れ野に何を見に行ったのか」 道家紀一牧師

荒れ野、それは、場所とか地形ではありません。世俗の中にあっても神に近づくことが出来る場所です。わたしたちプロテスタント教会は、ある意味、世俗を重んじて来ました。それは世俗にまみれて信仰生活を送るということではありません。神がそこで生きよと命じられた場所でありながら、しかしそこが神から自分を遠ざける場所であることを弁えつつ、荒れ野に立って歩むことを志す信仰を積み重ねる道なのです。そのためには、主イエスがヨハネについて語られた言葉「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」の深い意味を祈ってゆかねばならないといえましょう。

2025年01月05日(新年礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「来たりて拝め」 道家紀一牧師

この個所(博士来訪)のこれまでの解釈の多くは、「希望の星」が救い主の場=救いへと導くというものです。その解釈も間違っていないでしょう。しかし、その救いの星は、いつもそれと分かるような仕方で、希望の星として輝いているとはかぎりません。いやむしろ、そう見えないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。東の方の博士らが「不気味な星」として認識したように、わたしたちを惑わせ、訝しがらせるような状況へ追い込む現象として起こっているかもしれません。しかし、まさに、そのときに、東の方の博士らのように「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と救い主誕生の場所=救いの場を尋ねる求めることから始めてゆきたいと思います。