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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年08月25日(主日礼拝)マタイによる福音書 9章14節〜17節「新しく生きるためには…」 道家紀一牧師

新しいものが存在する(やって来ている)のに、いつまでも、古いものに拘ったりしがみつくようなことをしていたら、神からの救いと祝福=新しい命の歩みは得られません。「信仰とは変革である」と語った人がいますが、信仰者は、パウロのいうように、外側(ハード)は衰え古びていっても、内側(ソフト)は常に新しくされ続けていき、やがて、新しき天と地が実現したとき=主イエスが再び地上に来られて、世を統べ治められ、救いを完成されるとき、神の命の世界へと救い上げられて行くのだといえましょう。そのときまで、神の命(永遠の命)に与かる希望の内に、キリストにあって、常にこの世とは全く異なる”新しさ”の中に、わたしたちは生かされてゆくのです。

2024年08月18日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ローマの信徒への手紙 7章1節〜6節「聖霊に従う新しい生き方」 佐久本正志牧師

主イエスは力や権力によってではなく、愛に生きるように=聖霊の実りに生きるように言われます。パウロも、いつも自分の中に新しく生まれてくる聖霊の実りを発見して、感謝して喜んでいたように思います。からしだね伝道所が豊かな実を結ぶとは単に人数が増えることではなく、聖霊に従う新しい生き方の実りが日々豊かに育っていくこと、古い人間である自分の中に、聖霊の新しさを発見していく群れになることが大切です。わたしの中に、家族との関係の中に、わたしたちの職場や学校や社会の中に、そして、世界の中で、キリスト者たちが富や力を神から与えられ、預かっている賜物をささげつつ、古い自分(罪)を悔い改めて、聖霊に従う新しい生き方をしていきたいと思います。

2024年08月11日(主日礼拝)マタイによる福音書 9章9節〜13節「医者を必要とするのは病人です」 道家紀一牧師

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と主はいわれます。世の人々は、自分も含めて”正しさ”(わたしは間違っていない)が大好きです。あなたも「罪人の一人だ」といわれることに耐えられません。キリストは反対です。罪人の一人として数え上げられることをよしとされるのです。「あの人は罪人だ」と指摘しているあなたも「罪人の一人だ」ということに気づかされねばなりません。神からすれば全員「罪人」なのです。罪人を招くために、地上に来られ、しかも十字架に主イエスは架かられた。この恵みの食事会に招かれていることに感謝し、一人でも多く人を招くことができるように祈り努めたいと思います。

2024年08月04日(平和聖日礼拝)フィリピの信徒への手紙 2章6節〜8節「キリストに倣って」 道家紀一牧師

本日は、平和主日を迎えています。しかし、世界中を見渡せば、冒頭でもいいましたように、人と人とのいがみ爭いばかりです。そのために今も、幼い命をはじめ沢山の命が奪われています。神の怒りの下にわたしたちは置かれています。しかしわたしたちが、滅ぼされないで、世界が保たれているのはキリストの十字架の赦しのゆえです。「へりくだって」「十字架の死に至るまで従順であった」主イエス・キリストによって世界は保たれているのです。主なる神は、正しい(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、悪い(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、変わることなく、救いの恵みを注がれる方であることを信じ、キリストの愛と平和を伝えてゆきたいと思います。

2024年07月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 9章1節〜8節「人を解き放つ権威」 道家紀一牧師

ユダヤ人にとって神の業が顕現することは恐怖です。神の前に汚れている自分たちは、神に撃たれて消え去る定めにあると信じているからです。「人間に=ナザレの人イエスにこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」とあります。神を恐れることは、また、神をほめたたえていることにつながります。神をまことに畏れ(恐れ)る者は、神に対して謙遜となります。それが、神への礼拝となります。神に出会うとは、神に選ばれることでもあります。汚れた罪深いこのわたしに(わたしたちに)御心を向けてくださったことを、まずは、恐れ、そして、感謝と賛美をささげてゆくところに、健やかに人として生きる道への解き放たれが起こるのです。癒され起き上がった病人のように。

2024年07月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 8章28節〜34節「悪例追放」 道家紀一牧師

悪しき霊の支配力を、この話のように奇跡的な業で簡単には追放することはできません。最後は、主イエスが十字架に架かることによってしか実現することはありません。益々、合理化と利潤を優先する現代において、そうでない者たちを排除して生き残ろうとする社会は健全な社会ではありません。聖書はそのことを一貫して語ります。「キリスト者は、損を承知で、物事を引き受ける歩みをすることを祈り続ける人である」と語った人がいます。100%は無理でしょうが、わたしたちは、主イエスの十字架の恵みの力を借りて、悪霊の支配を遠ざけ、健やかな命の営みを作り出すことを目指してゆきたいと思います。それが、今の時代に、わたしたちキリスト教会が伝えて行くことだと信じます。

2024年07月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 8章23節〜27節「嵐をも静めるお方」 道家紀一牧師

主が嵐を静められたことを見ていた人々は驚きます。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。この感嘆は、もちろん主への圧倒的な権威に対してです。しかし、人々のこの驚きを、わたしたち一人ひとりと教会も自分たちに向けられるものとしてゆかねばなりません。「こんな時でも、教会というところは、キリスト者と呼ばれる人たちは」と感嘆を受けられるようになりたいと願います。嵐は簡単には治まることはないでしょう。しかし主にしっかりと結び付けられている教会とそこに生きる一人ひとりは、いつも”凪”なのです。「あなたがたを選んだのは私である」という主の招きを信じて船に乗り込み、神の国を目指して出航しましょう。

2024年07月07日(主日礼拝)マタイによる福音書 8章18節〜22節「弟子の覚悟の前に」 道家紀一牧師

主イエスは、弟子となることを厳しく説かれます。だれ一人として弟子になれないのではないのかと思うほどに。ですが主イエスは語られます。あなたに与えるわたしの恵みはそれだけ価値があるのだと。「信従」(弟子となる)という課題は、信仰を与えられた一人ひとりが最期のときまで問い続ける主題の一つです。救いの恵みを受けるだけに留まらず、弟子となって信仰の道を歩み、永遠の命の世界へ入るために、主イエスは、天から降られて十字架にお架かりになられ、復活の栄光の出来事をもって、わたしたちを最後の最期まで、導いてくださる方となられたのです。信じて歩みましょう。

2024年06月30日(主日礼拝)マタイによる福音書 8章14節〜17節「患いと病を担う方」 道家紀一牧師

ある人はこういいました。「もう人生の問題があり過ぎて教会へ通うどころではありません。」この人の立場や気持ちはわかります。しかしほんとうにはわかってはならないと思います。そういうときだからこそ、「教会へ来て、主イエスの下で祈るべきなのです」夕方になって、すなわち、人間の事情が終わってから、自分の力で片付けてから主イエスのもとへ来るのではなく、即座に、主イエスのもとへかけつける者でありたいと願います。

2024年06月23日(主日礼拝)マタイによる福音書 8章5節〜13節「信じるとおりに」 道家紀一牧師

主イエスは、百人隊長の信仰に答えらます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるよう」と。「信じる者は救われる」という素朴な信仰が実現した瞬間です。しかしそれは、いわゆるご利益信仰ではありません。主イエスは百人隊長の信仰に対して「アーメン」と同意してくださっただけなのです。主が同意される=義とされる。そこに思いもよらない奇跡が起こっていくのです。