ここで起こっている出来事は、「捨てて、拾う人生に変えられた3人」ともいえます。キリストに出会ったならば、これまでの自分の人生を脇へ置くのです。ある意味捨てるのです。そうした上で、神に仕える、神に従う人生に必要なものを、一つひとつと、主イエスの御名によって、拾い直してゆくのです。必要なものもありましょう。必要でなくなるものもありましょう。捨て切ってしまうにも祈りがなければ意味がありません。拾うにしても同じです。主に召され、主に従って行くのに本当に必要なものを身に着けたとき、わたしたちは、信徒教職区別なく、主の証し人となり、その生き方が、伝道者ともなっており、キリストの教会を造ってゆくのです。
神学校を卒業するときに伝えられた言葉があります。「教会で苦手な人はいても仕方がないが、嫌いな人はいてはならない」と。教会に生きる一人ひとりには間違いなく神の愛が注がれています。その神の愛によって一人ひとりは主と教会に仕えています。同じ一つの主を信じ、同じ一つの洗礼を授けられた者同士です。そのことを忘れて、悪しき人の思いにとらわれるとき教会は内側から壊れます。聖餐式に与かります。招集者はキリストです。全ての者が信じた一人の主です。いろいろな違いがあったり、ときに問題があったとしても、教会とそこに生きる者がなぜ一つなのかの「紛れもないしるし」です。この聖なる一致こそが、益々混迷する現代社会に求められていることであると信じます。
人間は人間の理屈を述べ立てて、神の救いは不条理だ(納得できない)と、叫びます。しかし救いのためには、神の裁き(審判)はさけられないのです。ですが、わたしたちの救い主キリストは、裁きに伴う様々な痛みと諸々の苦しみを十字架ですべて引き受けてくださったのです。(くださっています)そこに、キリスト教信仰の救いの恵みがあります。この恵みに支えられ、主を信じ、主のご用意のために遣わされてゆきましょう。
12弟子の中から、主イエスを裏切る者が出ます。イスカリオテのユダです。彼については、様々な解釈がありますが、それはすべて、人間の思いです。神の思い=主イエスのお考えではありません。思えば、イスカリオテのユダだけを責めるのもおかしなことです。その他の11弟子も全員、十字架の主イエスを置いて逃げ去ったのです。主を裏切ったのです。それでも、主イエスは、この12弟子を選ばれた。神の選びの不思議さを思うと同時に、わたしたち一人ひとりも、また、主の基準で選ばれて、ここに集っている一人ひとりです。そのことを思うとき、主の深い愛と恵みをも思わざるを得ません。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。「収穫は多い」とは、主の憐みを受け、真実な飼い主の下に取り戻されねばならない多くの人々がこの世にはいるということです。しかしその収穫を得るために働く人が少ないと。これは伝道者が少ないという意味ではありません。熱心に神に向かって、嘆きと悲しみと罪に満ちた地上に神の力が及ぶように、神に祈り願いなさい!と。実際の「働き手」はその祈りから呼び起こされるのだと。それは、祈ったあなたかもしれない。神さまがお決めになり、選びだされることです。教会とそこに集う一人ひとりが、神の収穫のためになすべき務めは、それはまず、祈りなのです。
主イエスがなさろうとしたことは、神から引き離す悪しき諸々の勢力=罪を、世の人々から取除き、神の前にすべての人が取り戻されて、健やかな命の回復がなされ、平安の内に歩み始めることです。シャロームと互いに心から挨拶できる世界を実現するために、主イエスは来られたということを、心に刻みたいと思います。そして、それが伝わらなかった、にも関わらず、主は、わたしたちの罪の救いのために、十字架の上で死んでくださったということも併せて、心に刻みたいと思います。
マタイがここで言おうとしていることは、死んだ人がすぐに生き返ったとか、重い病がたちまち癒されたということではありません。重要なことは神に向き直って、回復された、ということです。使徒パウロは、後に、ローマの信徒への手紙でこう言っています。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)
ハイデルベルク信仰問答問1でも「あなたにとって唯一の慰めは何ですか」への答えは「生きているときも、死んでいるときも、イエスキリストのものであることです」と。キリストを通して、神のものに回復されたとき、本当の「生」を受けたといえましょう。それが救いなのです。神と共に生きるいのちの「永遠の命の回復」のことです。
新しいものが存在する(やって来ている)のに、いつまでも、古いものに拘ったりしがみつくようなことをしていたら、神からの救いと祝福=新しい命の歩みは得られません。「信仰とは変革である」と語った人がいますが、信仰者は、パウロのいうように、外側(ハード)は衰え古びていっても、内側(ソフト)は常に新しくされ続けていき、やがて、新しき天と地が実現したとき=主イエスが再び地上に来られて、世を統べ治められ、救いを完成されるとき、神の命の世界へと救い上げられて行くのだといえましょう。そのときまで、神の命(永遠の命)に与かる希望の内に、キリストにあって、常にこの世とは全く異なる”新しさ”の中に、わたしたちは生かされてゆくのです。
主イエスは力や権力によってではなく、愛に生きるように=聖霊の実りに生きるように言われます。パウロも、いつも自分の中に新しく生まれてくる聖霊の実りを発見して、感謝して喜んでいたように思います。からしだね伝道所が豊かな実を結ぶとは単に人数が増えることではなく、聖霊に従う新しい生き方の実りが日々豊かに育っていくこと、古い人間である自分の中に、聖霊の新しさを発見していく群れになることが大切です。わたしの中に、家族との関係の中に、わたしたちの職場や学校や社会の中に、そして、世界の中で、キリスト者たちが富や力を神から与えられ、預かっている賜物をささげつつ、古い自分(罪)を悔い改めて、聖霊に従う新しい生き方をしていきたいと思います。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と主はいわれます。世の人々は、自分も含めて”正しさ”(わたしは間違っていない)が大好きです。あなたも「罪人の一人だ」といわれることに耐えられません。キリストは反対です。罪人の一人として数え上げられることをよしとされるのです。「あの人は罪人だ」と指摘しているあなたも「罪人の一人だ」ということに気づかされねばなりません。神からすれば全員「罪人」なのです。罪人を招くために、地上に来られ、しかも十字架に主イエスは架かられた。この恵みの食事会に招かれていることに感謝し、一人でも多く人を招くことができるように祈り努めたいと思います。