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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年02月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章21節〜26節「怒りは遅く、和解は早く」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」のだと。それが神によるわたしたちへの総決算(最後の審判)です。しかし、そこから抜け出す一つの道があります。主イエスによる神への執り成しの御業を信じることです。十字架に架かられた主イエスは、わたしたちに対する神の裁きを一身に引き受けてくださいました。そのことによって、わたしたちは神へ怒りをぶつけるという愚かな罪から解き放たれて、神との和解の道へと進むことが可能となるのです。そして、そのような救いの恵みに包まれている者は、何事に対しても「怒るに遅く、和解は早く」という穏やかで健やかな人生を歩むことができます。

2024年01月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章17節〜20節「天地が滅びても滅びないもの」 道家紀一牧師

ファリサイ派や律法学者が犯した最大の過ちは「自分で義を立てる」ということです。神がご覧になってという視点の欠如です。自分たちは神に祝福されているという傲慢を主イエスは撃ち砕かれます。彼らと同じ過ちを犯しているならば律法を全うして、神の国へ入ることはないのだと。今日は多様な価値観や生き方が認められている一方息苦しさ感じているのは、自分で自分の義=正しさを証明しなければならないからではないでしょう。それは一人ひとりが自分で自分の義を立てねばならないという厳しい生き方です。キリストなる神以外に正しさはないという安心な基盤(土俵)の上で認め合う(赦し合う)ことがあってこその多様性ではないでしょうか。

2024年01月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章13節〜16節「地の塩 世の光」 道家紀一牧師

キリスト者が自ずと放つ神の愛と赦しの光を見て、世の人々は、天の父なる神をほめたたえるようになってゆくのだと、ただそのことのみを誇りとして、生きなさいと主イエスは教えられているといえましょう。立派なクリスチャンとは、人々から賞賛されるような人格者のことではありません。神の愛と赦し=キリストを立派に証している人のことです。それは難しいことではありませんが、厳しい道でもあります。ただひたすらに、いかなる事情にあろうとも、どんな状況にあろうとも、天を仰いで、神を信じることに徹することだからです。

2024年01月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章11節〜12節「迫害・報酬・喜び」 道家紀一牧師

旧約聖書の預言者たちは、神の真実な言葉を語ったばかりに、人間的には悲運な最期を遂げた人が多くいます。しかし彼らのうち誰一人として、「幸いでない」者はいませんでした。主なる神は、間違いなく、彼らを天において受け入れています。今日、わたしたちは余りにも、見えるもの、手で触れられるもの、数値化できるものによって振り回されていないでしょうか。主イエスが語る「幸いなる」とは、そういった価値観から解き放たれた喜びに生きられることです。たとえ迫害に遭ったとしても…

2024年01月07日(新年:公現日礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「新しい道を通って」 道家紀一牧師

 神は博士らの決心をご覧になり夢で告げられます。「ヘロデのところへ帰るな」と。ヘロデのところへ戻るとは、神が異邦の博士まで用いて知らせた「救いの道」を遠ざけることとなります。博士たちは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行きます。」

「別の道」とはこれまで歩んできた道ではありません。しかし、彼らが帰ったのは、自分たちの国です。帰る道は違うのに、帰る国は同じとはどういうことでしょうか。

生き方が変わったということです。同じような日常に戻ったとしても、前のようには生きない人生、主キリストによって生きる、健やかな生を生きるようになったのです。

しは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2023年12月31日(年末感謝礼拝)詩編 13章2節〜6節「いつまでなのですか、主よ」 道家紀一牧師

 最近のスポーツ競技で重要視されている課題の一つに「体幹」というのがあります。身体の基軸です。ここがフラフラしていますと何をやっても上手くゆかないそうです。信仰生活も同じです。「軸」がしっかりとしていないと、いつまで経っても揺らぎ続けます。「神は…」という信頼のなさに終始する信仰で終わってしまいます。「神の光のまなざし」をいただく祈りが、信仰の基軸を作ります。祈りの完成は「祈りから”我”(自分)が消えたとき」です。「わたしは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2024年02月24日(降誕日礼拝)ルカによる福音書 2章8節〜20節「平和の主の誕生」 道家紀一牧師

 羊飼いたちは救いのしるし=幼子キリストに出会います。「天使が告げたとおりだった」と確信します。救いの確かさを得た瞬間です。救いの確信を得た彼らは神を賛美しながら、再び、彼らの持ち場(日常の働き場)へと戻ってゆきます。そのときの彼らは、前の彼らとは違っています。周りの人々に天使が告げた救いの出来事を話しながら戻って行きます。「良き主の証し人」となったということです。キリストによる救いの確かさを得た者は、もはやどこにいようとも揺るぐことなく生きられるようになります。和らぎをもち、平和を実現する人として接しられるようになるのです。

2023年12月17日(待降節Ⅲ礼拝)ルカによる福音書 1章67節〜80節「ザカリアの預言」 道家紀一牧師

旧約聖書の中には、ユダヤ民族を超えて、神の被造物全体が、神の下に取り戻される“救いの道”が内包されています。ザカリアもユダヤ民族を超えて救いの光がもたらされることを預言しているといえます。後半において旧約聖書の救いの枠(スケール)を超え出て行きます。これから誕生する「来るべき救い主」の道備えをするという預言となってゆきます。そのために生れ出たわが子ヨハネは健やかに育ち、イスラエルの人々の前に「悔い改めの宣言」と「悔い改めの洗礼」を始めるための訓練のときを過ごすこととなります。わたしたちも、御子降誕のときに向けて備えたいと願います。

2023年12月10日(待降節Ⅱ礼拝)ルカによる福音書 1章26節〜38節「マリアへのお告げ」 道家紀一牧師

聖書は、いわゆる人が生きるにおいてハッピーで愉快な日々を送るために書かれている指南書(ガイドブック)ではありません。いやむしろ、神を信じたがゆえに、あるいは、神に選ばれたがゆえに、歩まざるを得ない信仰の道筋を示している書物です。ある人は興味深いことをいっています。信仰とは「神さまのご勝手に、人がどれだけ応えられるか」ということではないのかと。マリアの信仰を見届けた天使は、安心して去って行きました。わたしたちも、神に安心されるような信仰の道を歩みたいと願います。

2023年12月03日(待降節Ⅰ礼拝)イザヤ書 11章1節〜10節「エッサイの株から」 道家紀一牧師

聖書が語る救いとは、わたしたちの努力を積み重ねて築き上げるようなものではなく、神が突然やって来られて、劇的な仕方で、一気に完成してしまうではないのかと思います。聖書では「その日が来れば」という言葉が繰り返し語られます。神が事を起こすとお決めになったからには、エッサイの根である救い主は、わたしたちの頭上に掲げられるのです。その救いの旗印を求めて、世界中の人々が救いを求めて集まって来るのです。教会が十字架を掲げるのはそのためです。この旗印の下には、神の栄光、救いの希望の光が放たれているからです。2000年に亘り、教会の扉は叩き続けられています。「救いはここにありますか」と。「あります。ここに!」と答え続けましょう。