古くから「キリストに倣いて」という信仰があります。“イミタチオ・クリスティ”。
“キリエ・エレイソン”(主よ憐みたまえ)と共に大切な信仰の在り方です。縋るだけが信仰ではありませんが、何のために縋るのか。そのことがしっかりとしていないとご利益宗教(信仰)で終わってしまいます。神の律法に生きられない我、しかし、その愚かな自分を、救い出してくださった、主イエスに縋りつつ、一つまた一つと、わたしたちは天の御国への階段を上ってゆくのです。それは、「ラクダが針の穴を通るような」と言われてしまうほどに「狭い門」かもしれません。しかし、それを実現してくださるのが、わたしたちの救い主なる主イエス・キリストなのです。
今日は多様性の社会ですが危険も秘めています。バラバラであって良いという個人主義です。根底では一致しているとの確認があってこそ多様性は生きます。一致をこの世の事柄に求めてしまうことが今起こっている痛ましい出来事の原因です。バベルの塔を築こうとする人々は今もいます。わたしたちは、神によって造られて、共生、共存して行き、次の世代へ負いきれない課題を残さないようにし、希望をもって生きられる世界を描き役割を終えたら、神のもとへ帰ってゆくだけです。違っていることを喜んで受け入れて、共に祈り、互いに愛し合い、支え合って生きて行きたいと願います。それを可能とするのは、父子聖霊なる神であると信じて。新しいぶどう酒に酔っているといわれながらも…。
本日は母の日です。その始まりは教会での一人の婦人の行為にあったと伝わっています。母の追悼式で母が好んだ白いカーネーションを参列者に配ったことにあります。この母は南北戦争中に敵味方関係なく看護に務めた人でした。その愛を忘れることなく伝えるために子であるこの婦人は白いカーネーションに願いを託したのかもしれません。わたしたち教会の務めと働きは、神がくださる”良い物”・愛の御業(十字架の主イエス)をいつまでも伝えて行くことにあります。わたしたちが伝えて行く愛の業は、十字架の主イエスに基づく”良い物”であることを、大切にしてゆきたいと願います。
人が人を赦すということはそう簡単には起こらないことです。神が統べ治めてくださらなければ実現はありません。しかしそれを実現するには、神の子の死があったことを、主イエスは伝えようとしているのではないでしょうか。主イエスが神の国の福音を説けば説くほどに反感を示す人は多くなり、十字架の死に至ったのです。ある人はこう言います。「人がその人を本気で赦したり愛したならば、その人に向けられているあらゆる非難や中傷を、ときには死をも受けなければならない。それをまず、主イエスその方がなさったのだ。わたしたちの救いは、その方にどれだけ倣えるかにかかっている」と。
今ここに、食べられて、飲んで、着られて、住まうことが出来ている自分は、神によって造られ、神によって養われ、神によって、その過ちを正されて生きている存在であることを忘れてはならないということでしょう。そうすれば、わたしたちの人生はなお一層豊かなものとなるに違いありません。食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで楽しむ人生ではない、別のもう一つの意義ある景色が見えて来るのであり、その先には、永遠の命の世界という神の国がかなたにあるのです。そうなったとき、少しずつ、「思い悩み」から解き放たれてゆきます。「今日は今日、明日は明日」という軽やかさに生きられます。
わたしたちは、人生を謳歌して、あるいはまた、思いのままに生きて、その上で、神に愛されて祝福の内に、天の御国へ凱旋できると考えることは慎まねばなりません。主はいわれます。「神と富」という二つの主人に仕えることは難しいと。人はどちらかを愛し、どちらかを疎んじるからであると。思えば、わたしたちの信仰生活は、日々このこととの戦いであるといえます。「あれもこれも」は信仰では成り立ちません。信仰生活で常に問われることは「あれかこれか」=「神か富か」=「天か地か」ということではないでしょうか。
断食するとき、頭に油をつけ顔を洗って、それと分からないようにするように、”人に気づかれず”キリスト者であることを証しすることが大切です。聖書の神が隠れておられるということは、また、次のような神であることを、意味しています。どこからでもみておられる神です。あえて、世と人々の前で、これみよがしの態度をとって、神に向かって叫ばなくとも、神は、わたしたちの信仰の姿を、格別、目立たない仕方で証ししている信仰の姿を、きちんと見ていてくださる、ということです。そういう信仰と実践が、神において認められて、何ものにも代え難い「祝福と救いの恵み」を受け取れるようになるのです。
赦しについて、主イエスは説明を付け加えられます。人が人の負い目と過ちを赦し合うことが出来ない。それが今日まで続いているわたしたちの問題です。国と国が、人と人がいつまでも諍いを続けているのはそこに「赦し」がないからです。「赦し」と「救い」と「神の国」はすべてつながっています。神の御心は、神によって造られた者が、互いに助け合うだけに留まらず、互いに赦し合う関係を築き、神の元へと戻されてゆくことです。キリストの十字架と復活の恵みに拠って、罪赦された者は、赦しの恵みを増し加えてゆく祈りを続けて、神の国が実現するために用いられることが求められていることです。主イエスは、そのことをも、主の祈りを通して、教えられたともいえましょう。
主イエスの十字架の死と葬りの墓は、わたしたちが生きる希望を失っていることの象徴です。ルカ福音書のエマオ途上の二人の弟子たちのように。しかし、そこに復活の主は必ず現れてくださり、生きる希望を授けてくださるのです。主の復活は、墓のような場所で生きてしまっている希望のなさからの解放です。「あの方は、もうここにはおられない」のです。わたしたちも「もうそこにはいない」のです。
エルサレムというこの世の権力が詰まった町に住んでいる人々は口を揃えていいます。みすぼらしい主イエスの姿をみて「これはどういう人だ」と。穏やかではないからです。世の楽しみと権力を手に入れても、魂の平安と神の国への切符を手に入れられない人々の叫びです。それに比べて主イエスを迎えている群衆は違います。「この方はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。この群衆が三日後には”心変わりする”と批判的な解釈がなされて来ました。ですが、救い主と明確に告白できなくとも、「預言者」として認める(気づく)ことから、救いの信仰は始まっていくのではないでしょうか。