主が嵐を静められたことを見ていた人々は驚きます。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。この感嘆は、もちろん主への圧倒的な権威に対してです。しかし、人々のこの驚きを、わたしたち一人ひとりと教会も自分たちに向けられるものとしてゆかねばなりません。「こんな時でも、教会というところは、キリスト者と呼ばれる人たちは」と感嘆を受けられるようになりたいと願います。嵐は簡単には治まることはないでしょう。しかし主にしっかりと結び付けられている教会とそこに生きる一人ひとりは、いつも”凪”なのです。「あなたがたを選んだのは私である」という主の招きを信じて船に乗り込み、神の国を目指して出航しましょう。
主イエスは、弟子となることを厳しく説かれます。だれ一人として弟子になれないのではないのかと思うほどに。ですが主イエスは語られます。あなたに与えるわたしの恵みはそれだけ価値があるのだと。「信従」(弟子となる)という課題は、信仰を与えられた一人ひとりが最期のときまで問い続ける主題の一つです。救いの恵みを受けるだけに留まらず、弟子となって信仰の道を歩み、永遠の命の世界へ入るために、主イエスは、天から降られて十字架にお架かりになられ、復活の栄光の出来事をもって、わたしたちを最後の最期まで、導いてくださる方となられたのです。信じて歩みましょう。
ある人はこういいました。「もう人生の問題があり過ぎて教会へ通うどころではありません。」この人の立場や気持ちはわかります。しかしほんとうにはわかってはならないと思います。そういうときだからこそ、「教会へ来て、主イエスの下で祈るべきなのです」夕方になって、すなわち、人間の事情が終わってから、自分の力で片付けてから主イエスのもとへ来るのではなく、即座に、主イエスのもとへかけつける者でありたいと願います。
主イエスは、百人隊長の信仰に答えらます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるよう」と。「信じる者は救われる」という素朴な信仰が実現した瞬間です。しかしそれは、いわゆるご利益信仰ではありません。主イエスは百人隊長の信仰に対して「アーメン」と同意してくださっただけなのです。主が同意される=義とされる。そこに思いもよらない奇跡が起こっていくのです。
重い皮膚病は癒されますが、治癒という次元を超えて、いのちの回復へと向かいます。ユダヤ社会への復帰です。主イエスは、モーセの手続きを勧めます。注目すべきは、このことを「誰にも話さないように」と命じられている点です。主の目的は「癒しの奇跡による信仰」ではありません。驚くべき奇跡の業を通して「神の栄光と権威」が示されることであり、そのことにより神の下に回復されてゆくことです。しかしそのために主イエスは十字架に架かって、人々を神の下へ取り戻してゆくしかありませんでした。神の栄光はそこに示されることとなり、それを確証するのが「主の復活」となります。
主イエスが示された権威は、この世からではなく、天の父なる神からのものです。それは、真摯に神の言葉(主イエスの教え)に聴き、その通りに生きようと志す者には、自ずと感じられる天の権威です。教会は、その権威を授けられたところであり、またそこに生きる一人ひとりにも、その権威が授けられています。パウロが「あなたがたは神の神殿です」という通りです。主イエスのみを信仰の土台に据え、信仰の家を建て上げるところに、神の権威は宿ります。
「良い実を結べ」という主の声が響き渡ります。ヨハネ15章には、ぶどうの木の譬えがあります。主イエスという木につながって、そこから良い実を結ぶことの大切さが語られていますが、最後でこういわれています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」と。「愛にとどまる」ということが繰り返されています。良い実を結ぶということはこのことではないでしょうか。そして、父の御心を行うとは、父の掟を守ってその愛に留まり続けるということだと思います。
古くから「キリストに倣いて」という信仰があります。“イミタチオ・クリスティ”。
“キリエ・エレイソン”(主よ憐みたまえ)と共に大切な信仰の在り方です。縋るだけが信仰ではありませんが、何のために縋るのか。そのことがしっかりとしていないとご利益宗教(信仰)で終わってしまいます。神の律法に生きられない我、しかし、その愚かな自分を、救い出してくださった、主イエスに縋りつつ、一つまた一つと、わたしたちは天の御国への階段を上ってゆくのです。それは、「ラクダが針の穴を通るような」と言われてしまうほどに「狭い門」かもしれません。しかし、それを実現してくださるのが、わたしたちの救い主なる主イエス・キリストなのです。
今日は多様性の社会ですが危険も秘めています。バラバラであって良いという個人主義です。根底では一致しているとの確認があってこそ多様性は生きます。一致をこの世の事柄に求めてしまうことが今起こっている痛ましい出来事の原因です。バベルの塔を築こうとする人々は今もいます。わたしたちは、神によって造られて、共生、共存して行き、次の世代へ負いきれない課題を残さないようにし、希望をもって生きられる世界を描き役割を終えたら、神のもとへ帰ってゆくだけです。違っていることを喜んで受け入れて、共に祈り、互いに愛し合い、支え合って生きて行きたいと願います。それを可能とするのは、父子聖霊なる神であると信じて。新しいぶどう酒に酔っているといわれながらも…。
本日は母の日です。その始まりは教会での一人の婦人の行為にあったと伝わっています。母の追悼式で母が好んだ白いカーネーションを参列者に配ったことにあります。この母は南北戦争中に敵味方関係なく看護に務めた人でした。その愛を忘れることなく伝えるために子であるこの婦人は白いカーネーションに願いを託したのかもしれません。わたしたち教会の務めと働きは、神がくださる”良い物”・愛の御業(十字架の主イエス)をいつまでも伝えて行くことにあります。わたしたちが伝えて行く愛の業は、十字架の主イエスに基づく”良い物”であることを、大切にしてゆきたいと願います。