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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年02月25日(受難節Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 5章33節〜37節「然りを然り、否を否」 道家紀一牧師

主イエスは「神に対して誓ってはならない」とはいわれません。神のものとされているものの生き方のことです。誓いには願いや意志が入り込みます。それを神がどう判断なさるかは神に委ねるほかありません。願いは聞かれたかのように誓い始めてしまうという、神に「然り」と「否」をお聞きすることなく、都合や願いを一方的に神に押し付けるように誓い始めることによって引き起こされる「罪の問題」を指摘されるのです。神に対して誓いをするならば、神が然りと言われることにも神が否といわれることにも従う覚悟をもつべきであるというのが主イエスの教えです。その覚悟を身をもって示されたのが十字架の主です。そのことを、レントのときもう一度思い起こしたいと思います。

2024年02月18日(受難節Ⅰ:日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章27節〜32節「神の戒めでなく愛に支えられて」 道家紀一牧師

ファリサイ派や律法学者が、主イエスに厳しく批判されてしまった原因は「神の愛に応えて生きる」という姿勢を見失ったからです。むしろ、神の愛を手に入れるための手段として、厳しい戒めを守るという方向に向かってしまったのです。十字架に架かり、神の子としての命を投げ出すほどに愛を注いでくださった恵みにどう応えて行くのか?そのことを考えるレントでありたいと思います。

2024年02月11日(信教の自由を守る日の礼拝)ガラテヤの信徒への手紙 5章13節〜15節「キリスト者の自由」 道家紀一牧師

「信教の自由」から考えるわたしたちキリスト者の自由とは、自分を主語主体として、何を信じてもよいということとは違います。十字架のキリストが約束してくださった罪の赦しと永遠の命という報い以外には何一つ望まないという信仰から来る(信仰者の)応答による「自由な生き方」のことをさしているといえましょう。

2024年02月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章21節〜26節「怒りは遅く、和解は早く」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」のだと。それが神によるわたしたちへの総決算(最後の審判)です。しかし、そこから抜け出す一つの道があります。主イエスによる神への執り成しの御業を信じることです。十字架に架かられた主イエスは、わたしたちに対する神の裁きを一身に引き受けてくださいました。そのことによって、わたしたちは神へ怒りをぶつけるという愚かな罪から解き放たれて、神との和解の道へと進むことが可能となるのです。そして、そのような救いの恵みに包まれている者は、何事に対しても「怒るに遅く、和解は早く」という穏やかで健やかな人生を歩むことができます。

2024年01月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章17節〜20節「天地が滅びても滅びないもの」 道家紀一牧師

ファリサイ派や律法学者が犯した最大の過ちは「自分で義を立てる」ということです。神がご覧になってという視点の欠如です。自分たちは神に祝福されているという傲慢を主イエスは撃ち砕かれます。彼らと同じ過ちを犯しているならば律法を全うして、神の国へ入ることはないのだと。今日は多様な価値観や生き方が認められている一方息苦しさ感じているのは、自分で自分の義=正しさを証明しなければならないからではないでしょう。それは一人ひとりが自分で自分の義を立てねばならないという厳しい生き方です。キリストなる神以外に正しさはないという安心な基盤(土俵)の上で認め合う(赦し合う)ことがあってこその多様性ではないでしょうか。

2024年01月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章13節〜16節「地の塩 世の光」 道家紀一牧師

キリスト者が自ずと放つ神の愛と赦しの光を見て、世の人々は、天の父なる神をほめたたえるようになってゆくのだと、ただそのことのみを誇りとして、生きなさいと主イエスは教えられているといえましょう。立派なクリスチャンとは、人々から賞賛されるような人格者のことではありません。神の愛と赦し=キリストを立派に証している人のことです。それは難しいことではありませんが、厳しい道でもあります。ただひたすらに、いかなる事情にあろうとも、どんな状況にあろうとも、天を仰いで、神を信じることに徹することだからです。

2024年01月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章11節〜12節「迫害・報酬・喜び」 道家紀一牧師

旧約聖書の預言者たちは、神の真実な言葉を語ったばかりに、人間的には悲運な最期を遂げた人が多くいます。しかし彼らのうち誰一人として、「幸いでない」者はいませんでした。主なる神は、間違いなく、彼らを天において受け入れています。今日、わたしたちは余りにも、見えるもの、手で触れられるもの、数値化できるものによって振り回されていないでしょうか。主イエスが語る「幸いなる」とは、そういった価値観から解き放たれた喜びに生きられることです。たとえ迫害に遭ったとしても…

2024年01月07日(新年:公現日礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「新しい道を通って」 道家紀一牧師

 神は博士らの決心をご覧になり夢で告げられます。「ヘロデのところへ帰るな」と。ヘロデのところへ戻るとは、神が異邦の博士まで用いて知らせた「救いの道」を遠ざけることとなります。博士たちは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行きます。」

「別の道」とはこれまで歩んできた道ではありません。しかし、彼らが帰ったのは、自分たちの国です。帰る道は違うのに、帰る国は同じとはどういうことでしょうか。

生き方が変わったということです。同じような日常に戻ったとしても、前のようには生きない人生、主キリストによって生きる、健やかな生を生きるようになったのです。

しは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2023年12月31日(年末感謝礼拝)詩編 13章2節〜6節「いつまでなのですか、主よ」 道家紀一牧師

 最近のスポーツ競技で重要視されている課題の一つに「体幹」というのがあります。身体の基軸です。ここがフラフラしていますと何をやっても上手くゆかないそうです。信仰生活も同じです。「軸」がしっかりとしていないと、いつまで経っても揺らぎ続けます。「神は…」という信頼のなさに終始する信仰で終わってしまいます。「神の光のまなざし」をいただく祈りが、信仰の基軸を作ります。祈りの完成は「祈りから”我”(自分)が消えたとき」です。「わたしは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2024年02月24日(降誕日礼拝)ルカによる福音書 2章8節〜20節「平和の主の誕生」 道家紀一牧師

 羊飼いたちは救いのしるし=幼子キリストに出会います。「天使が告げたとおりだった」と確信します。救いの確かさを得た瞬間です。救いの確信を得た彼らは神を賛美しながら、再び、彼らの持ち場(日常の働き場)へと戻ってゆきます。そのときの彼らは、前の彼らとは違っています。周りの人々に天使が告げた救いの出来事を話しながら戻って行きます。「良き主の証し人」となったということです。キリストによる救いの確かさを得た者は、もはやどこにいようとも揺るぐことなく生きられるようになります。和らぎをもち、平和を実現する人として接しられるようになるのです。