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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年01月07日(新年:公現日礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「新しい道を通って」 道家紀一牧師

 神は博士らの決心をご覧になり夢で告げられます。「ヘロデのところへ帰るな」と。ヘロデのところへ戻るとは、神が異邦の博士まで用いて知らせた「救いの道」を遠ざけることとなります。博士たちは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行きます。」

「別の道」とはこれまで歩んできた道ではありません。しかし、彼らが帰ったのは、自分たちの国です。帰る道は違うのに、帰る国は同じとはどういうことでしょうか。

生き方が変わったということです。同じような日常に戻ったとしても、前のようには生きない人生、主キリストによって生きる、健やかな生を生きるようになったのです。

しは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2023年12月31日(年末感謝礼拝)詩編 13章2節〜6節「いつまでなのですか、主よ」 道家紀一牧師

 最近のスポーツ競技で重要視されている課題の一つに「体幹」というのがあります。身体の基軸です。ここがフラフラしていますと何をやっても上手くゆかないそうです。信仰生活も同じです。「軸」がしっかりとしていないと、いつまで経っても揺らぎ続けます。「神は…」という信頼のなさに終始する信仰で終わってしまいます。「神の光のまなざし」をいただく祈りが、信仰の基軸を作ります。祈りの完成は「祈りから”我”(自分)が消えたとき」です。「わたしは、わたしなら」から「神なら、神が」に変わったとき、祈りは最高点に到達し、したがって信仰も整います。

2024年02月24日(降誕日礼拝)ルカによる福音書 2章8節〜20節「平和の主の誕生」 道家紀一牧師

 羊飼いたちは救いのしるし=幼子キリストに出会います。「天使が告げたとおりだった」と確信します。救いの確かさを得た瞬間です。救いの確信を得た彼らは神を賛美しながら、再び、彼らの持ち場(日常の働き場)へと戻ってゆきます。そのときの彼らは、前の彼らとは違っています。周りの人々に天使が告げた救いの出来事を話しながら戻って行きます。「良き主の証し人」となったということです。キリストによる救いの確かさを得た者は、もはやどこにいようとも揺るぐことなく生きられるようになります。和らぎをもち、平和を実現する人として接しられるようになるのです。

2023年12月17日(待降節Ⅲ礼拝)ルカによる福音書 1章67節〜80節「ザカリアの預言」 道家紀一牧師

旧約聖書の中には、ユダヤ民族を超えて、神の被造物全体が、神の下に取り戻される“救いの道”が内包されています。ザカリアもユダヤ民族を超えて救いの光がもたらされることを預言しているといえます。後半において旧約聖書の救いの枠(スケール)を超え出て行きます。これから誕生する「来るべき救い主」の道備えをするという預言となってゆきます。そのために生れ出たわが子ヨハネは健やかに育ち、イスラエルの人々の前に「悔い改めの宣言」と「悔い改めの洗礼」を始めるための訓練のときを過ごすこととなります。わたしたちも、御子降誕のときに向けて備えたいと願います。

2023年12月10日(待降節Ⅱ礼拝)ルカによる福音書 1章26節〜38節「マリアへのお告げ」 道家紀一牧師

聖書は、いわゆる人が生きるにおいてハッピーで愉快な日々を送るために書かれている指南書(ガイドブック)ではありません。いやむしろ、神を信じたがゆえに、あるいは、神に選ばれたがゆえに、歩まざるを得ない信仰の道筋を示している書物です。ある人は興味深いことをいっています。信仰とは「神さまのご勝手に、人がどれだけ応えられるか」ということではないのかと。マリアの信仰を見届けた天使は、安心して去って行きました。わたしたちも、神に安心されるような信仰の道を歩みたいと願います。

2023年12月03日(待降節Ⅰ礼拝)イザヤ書 11章1節〜10節「エッサイの株から」 道家紀一牧師

聖書が語る救いとは、わたしたちの努力を積み重ねて築き上げるようなものではなく、神が突然やって来られて、劇的な仕方で、一気に完成してしまうではないのかと思います。聖書では「その日が来れば」という言葉が繰り返し語られます。神が事を起こすとお決めになったからには、エッサイの根である救い主は、わたしたちの頭上に掲げられるのです。その救いの旗印を求めて、世界中の人々が救いを求めて集まって来るのです。教会が十字架を掲げるのはそのためです。この旗印の下には、神の栄光、救いの希望の光が放たれているからです。2000年に亘り、教会の扉は叩き続けられています。「救いはここにありますか」と。「あります。ここに!」と答え続けましょう。

2023年11月26日(収穫感謝日礼拝)ヨハネの黙示録 1章4節〜8節「アルファでありオメガである方」 道家紀一牧師

最後のときは必ず来ます。それはいつの日かは分かりませんが、わたしたち一人ひとりと世界が永遠に続くことはありません。そのとき何が起こるのか。救い主イエス・キリストが、雲に乗ってやって来られるのです。そのとき、全ての者(生きている者も眠っている者も)は目覚めさせられて、キリストなる主を仰ぎ見ることとなります。そして、キリストを突き刺した者=神を否定し続けた者は、この主が来られたとき、その圧倒的な栄光に撃たれて「嘆き悲しむ」他なくなります。その日その時には、全ての者が、主の前に悔い改めて「あなたがなさったことは全てが、”その通りでした”=然りアーメン。」と合唱することとなるのでしょう。

2023年11月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 5章10節〜節「義のために迫害される人々は幸いです」 道家紀一牧師

このように、神の義に対する信仰の愚かさに徹して迫害に遭う人々こそが、天の国に生きる者であると主はいわれます。天の国とは「神の支配するところ」です。神によって全くの支配を受けている人々こそが幸いです。主の日毎に、毎週、教会へ通って礼拝をささげることは、世の多くの人々からみれば、まことに愚かなことと映っているかもしれません。しかし、その愚かさに生きること、場合によっては、迫害とはいえないまでも批判されることがあるかもしれません。しかし、まさにそのときにおいて、わたしたちは、神にあっては、幸いなのだと信じてよいのだ、と思います。

2023年11月12日(主日礼拝)マタイによる福音書 5章9節〜節「平和を実現する人々は幸いです」 道家紀一牧師

 「平和を実現する人々」とは、神の子にとり戻された人々のことを指します。お互いに、神の子=神の麗しい作品であることを認め合うとき、和解が起こり、交わりが起こり、話し合いが始まります。違いはあってもよいのです。課題は違いという多様性を神にあって=キリストにあって「一つの体」として一致しているとの確信の下に了解していることです。今日ほど、多様な考えが氾濫している時代はありません。平和についてもそうでしょう。しかし、本当の平和とは、主にあって一致していることなのではないでしょうか。罪赦された者たちが集って交わりの宴が開かれる場所において。

2023年10月29日(宗教改革記念日礼拝)ローマの信徒への手紙 3章21節〜26節「無償で義とされる」 道家紀一牧師

今の時代は、たくさんの私または我らの「正義」があります。人の数だけ国の数だけ正義があるといってもよいでしょう。しかし、まさに、その正義によって、人と人とは憎み争い、傷つけ合い、国と国とは戦争を始めています。この愚かな正義の主張は止むことはありません。人の罪を赦すという神の義のみが、まことの正義であることに気づくとき、わたしたちの間に、真の平和が訪れます。宗教改革記念の時を迎えるにあたって、このことをもう一度、噛みしめたいと思います。