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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2023年02月12日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 7章1節〜10節 21節~25節「メルキゼデクの祭司職」 平澤基幸牧師

ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストを、メルキゼデクになぞらえて「大祭司」とたとえます。メルキゼデクは創世記14章にのみ登場する祭司です。神に召されて、アブラハムを祝福した祭司として描かれています。レビの血筋にある者たちが受け継いできた祭司職ではなく、神に召されて祭司の務めに就いたということが大切であると語ります。わたしたちは、かつてのイスラエルのように代々祭司職にあるものを通して、神の救いに与るのではなく、神が召し、神が遣わされた大祭司キリストを通して、直接、神の救いに与れるのです。

2023年02月05日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章23節〜24節「聖書の言葉は実現する」 道家紀一牧師

主イエスの十字架の死とその時点での十字架を取り巻く状況は散々たるものです。神の恵みの約束など、いったいぜんたいどこに見られるのだろう、という状況です。しかし、その中において、「聖書の言葉は実現した」と告白することからしか救いはありません。神が、わたしたちに約束される救いの恵みは、わたしたちの周りの何もかもが好転して、この上なく好ましい状況の中で示されることではないのです。むしろ、十字架の出来事において象徴されるような悲惨な現実の只中で、神の救いの恵みは示されているのです。

2023年01月29日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章16b節〜22節「ユダヤ人の王とは何か」 道家紀一牧師

ユダヤ人の王とは、ただの王ではありません。神が、地上の歴史の中で選ばれた民=神の民イスラエルの王=世界を救う王=世界の救い主です。その名が掲げられた場所はゴルゴダの丘でした。十字架の上という人間にとっては、これほど過酷で悲惨な場所はないというところで、その名は上げられたのです。世界の王として、主イエスは十字架に架けられて死にます。人間と世界を救うような方は、実際、人間と歴史の狭間で、決して、誉れに満ちた仕方ではなく、死に果てて行きます。主イエスは、その最先端に位置しておられる方です。

2023年01月22日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章8節〜16 a節「罪に苦悩する人間:ピラト」 道家紀一牧師

ピラトは、主イエスを、十字架につけるために、彼らに引き渡します。彼は、この裁判における苦悩を解き明かされることなくその役目を終えたのでした。詩編38篇の詩人はうたいます。「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています」と。わたしたちは、罪の苦悩を味わった後、まことの救いに与ることができます。その苦悩を担ってくださる主イエスキリストがおられるからです。ピラトは、そのことに気づくことなく信仰を得る機会を逃してしまったのです。

2023年01月15日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)コロサイの信徒への手紙 1章9節〜16節「キリストのように生きる」 道家紀一牧師

すべてのものは、御子キリスト「において(の中で)」、御子キリスト「によって(を通して)」御子キリスト「のために(目指して)」“造られた”とパウロは語ります。御子キリストは世界と人間の創造者です。御子キリストを通して存在します。最終的にはキリストを目指して、わたしたちと世界は保たれます。「キリストのように生き」「キリストのように死んで行く」、それが、神によって造られ、その支配と救いとにあずかっている者の歩むべき道です。今年も、すべての事柄において、御子キリスト“において”御子キリスト“によって”御子キリスト“のために”ということをおぼえつつ、歩んでまいりましょう。

2023年01月08日(栄光祭礼拝)マルコによる福音書 14章3節〜9節「女は壺を割る」 星山京子牧師

主イエスの受難の前に準備されたこの話は、イエスの教えを正しく受け取り、それを自らの生きる道に生かしたとしても、最も大切なことは、主イエスに全てを献げ、主イエスにおいて現された神の栄光を自らの生きる内に持っていなければ、それらの行為も意味のないことだということです。自らの栄光に固執してしまうことなく、命を与えてくれた神を知ることこそ、私どもの生きる道があるのだということを忘れてはならないのです。忘れてならないのだけれど、私どもは、どうしても忘れてしまう者でもあります。だからこそ、女は突然現れて、そして大胆に壺を壊し、主イエスに香油を注ぐのです。壺を割らなければ、香油も注げません。女はそのことを気づかせてくれたのです。

2023年01月01日(新年礼拝)コリントの信徒への手紙 一 8章1節〜6節「八百万の神々の中で」 道家紀一牧師

今日、わたしたちの世界は益々多様性に満ち、価値観が複雑になり、相対的で移ろいやすいものとなっています。絶対的なものが見いだせない時代に生きています。だからこそ、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)を信じてゆくことが求められるのではないでしょうか。聖書の原語(ギリシャ語)で罪のことを“ハマルティア”といいます。元来の意味は「的を外れる」です。世界の中心なる神を見失っている時代が今ではないでしょうか。それが、多様性と言う名の下、実は、人の都合主義による様々な正義と自由を産み出し、混乱に陥っています。まずは、中心点を定めることから始めなければ、多様性が認められる「真の世界」は築かれることはないでしょう。

2022年12月25日(クリスマス日礼拝)ルカによる福音書 2章1節〜20節「平和の御子の誕生」 道家紀一牧師

クリスマスの出来事のほんとうの意味を告げても、今日、多くの人々は不思議がるだけでありましょう。2000年前と同じように。「そんなことがあろうか」と。自分では何一つ守ることができない小さな幼子を、他ならない神が守っておられる。この聖なる事実を見ることが信仰のはじまりです。“自分のような”あるいは“こんな世界”と思っている人は、実は、人間の力に頼った生き方をしています。そこから一歩踏み出して、“その自分に救いが来た”“その世界が贖われた”、人ではなく神によって可能となった、と信じる人が、御心に適う人となり、地に平和をもたらす祈りに生きる人々となれるのです。

2022年12月18日(クリスマス主日礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「いそぎ来たれ」 道家紀一牧師

救い主に出会った東の国から来た占星術の学者たちは、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けます。それは、もう二度とヘロデ的勢力にとらわれないで生きなさいという示しです。彼らはその通りに、別の道を通って、再び自分たちの国=人生の馳せ場へと(持ち場へ)帰って行くのでした。わたしたちもまた、改めて、救い主に出会い、ヘロデ的勢力にとらわれないで生きる道を歩み出したいと願います。

2022年12月11日(待降節Ⅲ礼拝)ルカによる福音書 2章1節〜21節「マリアのためのクリスマス」 星山京子牧師

語られることの少ないマリアの過酷な出産を通して、現代に生きる私どもが考えねばならない視点を、神は時空を超えて私どもに準備してくれていました。神が人間として救い主を私どもにお与えくださったことの意味もそこに隠されています。私どもがマリアの出産が下層に生きる労働者と天の軍勢によって守られ、平和な世を願ってあったことを知るのなら、今の世にマリアのように過酷な状況にある女たちがいることを覚え、彼女らの平安を祈りと共にいる者でありたいと願います。