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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2023年06月04日(三位一体礼拝)エフェソの信徒への手紙 1章3節〜14節「聖霊の証印を押すため」 道家紀一牧師

パウロがエフェソの教会の人々に語っていることは、すべてわたしたちに向かって語られている言葉です。今も神は、一人ひとりをキリストにおいて救いの選びに与らせ続けています。それはすべて、神の秘められた計画であり、約束された聖霊の証印を押すためです。聖霊の証印、それは、今は天にあってわたしたちを招かれているキリストから送られる認印(みとめいん)であり、この証印によって、わたしたちに神の御国(神の支配)を受け継ぐ保証をしてくださるのです。この証印を受けた者(受洗者)は皆、神の子に取り戻されて=神のものとなって、神の栄光をほめたたえて生きる者となるのです。

2023年05月28日(聖霊降臨祭:ペンテコステ礼拝)使徒言行録 2章1節〜13節「新しい酒に酔っているのか」 道家紀一牧師

聖霊降臨の日、そこに居合わせた人々はみな誰もが、「驚き」と「戸惑い」をおぼえます。神の偉大な業が語られる(示される)のを目の当たりにした人には、誰にでも起こることです。信仰は「驚きから始まります。信仰は戸惑いから始まります」=「異言を聞くことから始まります」なぜなら人間の業でないからです。想像できないこと、あり得ないことが起こる、そこから人は信仰に導かれます。聖霊の働きによって、この日ここで起こったような、心が揺さぶられる経験を経て信仰に導かれます。決して「新しいぶどう酒に酔っている」のではありません。心を頑なにしている人には聖霊は降りませんし、神の不思議な業は起こりません。

2023年05月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 21章15節〜19節「わたしを愛しているか」 道家紀一牧師

主の愛を求め続けたその先に待っていることは、世の人々が求めるような幸せな世界ではないことが宣言されます。「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。自分が最も避けたいと思っていたところへ連れて行かれるということです。愛を注がなければならないと思っていたけれどもできないでいたところへ連れ戻されるということです。人生論的に解釈すれば、信仰を授けられて生きてきた人生の道のりで、避け続けて来た課題(宿題)に取り組まされるときが、必ず来るということではないでしょうか。

2023年05月14日(母の日礼拝)ヨハネによる福音書 21章1節〜14節「何度でも顕われなさる主」 道家紀一牧師

今も教会に在られる主イエスは、弟子たちに現れた復活の主イエスと何一つ変わることのない主です。教会は礼拝をささげるたびに、格別、パンと杯に与るとき(聖餐式に与るとき)、このことを噛み締めて来ました。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」とヨハネは書いていますが、それ以上に、何度も何度も、主イエスは、今も変わらず、わたしたちのところに現れ出てくださっています。

2023年05月07日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 20章30節〜31節「信じるために書かれた書物」 道家紀一牧師

ヨハネは、本福音書を書き記した目的を明確に述べます。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり」「信じてイエスの名により命を受けるためである」と。このために福音書を書いたのであると。ただこのことのために、ヨハネは福音書を書き記したのだと語って終えます。キリストによる救いの信仰に導くために本書は書かれたのです。信仰をもって、聖霊によって導かれて福音書が真摯に読まれるとき、「主イエスは救い主キリストである」と告白できるのであり「その御名によって“永遠の命”の希望に生きる」ことができます。

2023年04月30日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 20章24節〜29節「見ないで信じる人は幸い」 道家紀一牧師

復活の主イエスはトマスの告白を受け入れ、言葉をかけられます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。トマスは「手を入れてもよい」という主の“言葉”を信じました。そのことを指して、主イエスは「見ないで」といわれます。復活の主イエスを見るとしても、何を見るのか、という教会の信仰が、ここで語り示されています。わたしたちも「主を見ます」しかしそれは、肉の姿として、主を見るのではありません。聖霊の導きにより、今ここに来られている、“復活の主イエス”を信じるという仕方で、「主を見ている」のです。そういう意味で「見ないで信じる人」であり続けましょう。

2023年04月23日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 20章19節〜23節「閉ざした扉を打ち破る方」 道家紀一牧師

教会がいたずらに世を恐れて不安になって、あるいは、わたしたちがそうなって、(こころの)扉を閉ざすならば、復活の主イエスはいつでも現れて、わたしたちが閉ざした扉を打ち破り、聖霊の息吹=神の命を注がれて、新しい命の喜びに生きるように促されるでありましょう。

教会につながっている意味、教会に与えられている神の命に与って生きる使命について、今一度、思いを馳せたいと願います。

2023年04月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 20章11節〜18節「わたしは主を見ました」 道家紀一牧師

主イエスは、何のために、地上に来られて、数々の言葉を語り、様々な奇跡を施されたのか。ただ、わたしたちが感心し、亡くなった後は、その思い出を後生大事にし、生きる糧として生きてゆくためでしょうか。主なる神、御子キリストが地上に来られて、わたしたちのあらゆる罪という罪を味わい尽くされた後、死をもってその罪を贖われ、復活の栄光をもって、救いを示されたことを信じることが信仰です。「わたしは主に会いました」と告白し、「救われました」と心の底から湧き上がる喜びに満たされること、それがわたしたちに授かった信仰です。

2023年04月09日(復活祭主日礼拝)ヨハネによる福音書 20章1節〜10節「死者の中から復活する」 道家紀一牧師

「主イエスは復活なさる」いや「復活なさった」この言葉が主の名によって宣言されるとき、「空になった墓の事実」は「ほんとうのこと」となってゆくのです。神の言葉は力ある“行為”です。言霊です。教会は、毎主日、この奇跡の言霊を世に向かって解き放っているのです。ある人はこういうことを言っています。「この人々の前で、『復活』と語ってごらんなさい。『永遠の命を思い起こせ』と語ってごらんなさい。それらの言葉を、ただその部屋に解き放てばよいのです。(神の)光の中で語り、言葉は、その業を果たすと信頼すればよいのです」と。ここに教会の成すべき務めがあります。

2023年04月02日(棕櫚の日礼拝)ヨハネによる福音書 12章9節〜19節「救い主の迎え方」 道家紀一牧師

止められないほどに声を上げていた歓声は、数日後には、「十字架につけよ」との声に変わります。人間(自分)の主義主張に合わないメシアのことを見捨てるのです。ユダヤ教当局者たちの嘆きの声は、皮肉な声でもあります。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」数日後には、誰一人、主イエスの後を追う者はいなくなるのです。信仰とは(洗礼を受ける)とは、真の意味での救い主をお迎えする、ということですが、その迎え方については、常に祈り続けねばならない、といえましょう。