救いの時の徴=星に導かれた学者たちは、間違えることなく救い主=救いに出会います。学者たちは、携えていたもの、「黄金」「乳香」「没薬」を、幼子イエスに献げます。この品々が何を意味しているのか。解釈に様々な歴史がありますが、こう解釈しました。救い主=救いそのものに出会うまで、人生を成り立たせてきたもの=生きる根拠の数々を捨ててしまうことを象徴する行為ではないのかと。この三つの品々は学者たちの人生を成り立たせ、蓄えたものです。それを献げたということは、捨ててしまったということです。わたしたちもまた、信仰のこの原点に戻って、歩みたいと願います。
神の前における正しさは、神の前に黙することからしか得られないといえましょう。人の思いつく正しさで、世の悪と人の罪を取り除くことはできないのだと、マタイは告白し、これを書いていると思うのです。神が備えられた”しるし”である御子キリストはやがて成長され、この方もまたいたずらに叫ばれることなく黙して十字架に架かられてゆきます。しかしそこに、神の偉大な救いの計画が実現するのです。ヨセフとマリアは神がお決めなったそのときまで、互いに信頼し合って、関係をもつことなく事柄を進めるのでした。
神の偉大な計画が頓挫するかに思われたその時、名もないナザレのイエスに宿られます。受肉の出来事です。16節「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と。歴史の中(肉の血筋の中)に生まれた人物を用いて、救いの計画を進められてきた神は、ついに、ご自身やって来られたのです。まことの神がまことの人となったのです。神が選ばれたのは、ガリラヤの乙女マリアの胎内から生れ出た一人の赤子でした。「ここに救いがある」といって。 神による救いの系図はマリアの子イエスにおいて完成します。なぜイエスなのか?それは神のみがご存じであられる秘儀です。
ヨハネによる福音書を書き終えるにあたって、ヨハネが書いたことは、キリストの栄光の輝きについてです。わたしたちが信仰を授けられて、何世代にもわたって、どんなに多くの時と労力をかけキリストを証しし続けてゆこうとも、キリストが成し遂げられた尊い御業について明らかにすることは出来ないのだと。神が、主キリストを通して成し遂げられたこと(神が人間と世界を救われるという計画)は果てしないのだといって、ヨハネは福音書を書き終えます。
パウロがエフェソの教会の人々に語っていることは、すべてわたしたちに向かって語られている言葉です。今も神は、一人ひとりをキリストにおいて救いの選びに与らせ続けています。それはすべて、神の秘められた計画であり、約束された聖霊の証印を押すためです。聖霊の証印、それは、今は天にあってわたしたちを招かれているキリストから送られる認印(みとめいん)であり、この証印によって、わたしたちに神の御国(神の支配)を受け継ぐ保証をしてくださるのです。この証印を受けた者(受洗者)は皆、神の子に取り戻されて=神のものとなって、神の栄光をほめたたえて生きる者となるのです。
聖霊降臨の日、そこに居合わせた人々はみな誰もが、「驚き」と「戸惑い」をおぼえます。神の偉大な業が語られる(示される)のを目の当たりにした人には、誰にでも起こることです。信仰は「驚きから始まります。信仰は戸惑いから始まります」=「異言を聞くことから始まります」なぜなら人間の業でないからです。想像できないこと、あり得ないことが起こる、そこから人は信仰に導かれます。聖霊の働きによって、この日ここで起こったような、心が揺さぶられる経験を経て信仰に導かれます。決して「新しいぶどう酒に酔っている」のではありません。心を頑なにしている人には聖霊は降りませんし、神の不思議な業は起こりません。
主の愛を求め続けたその先に待っていることは、世の人々が求めるような幸せな世界ではないことが宣言されます。「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。自分が最も避けたいと思っていたところへ連れて行かれるということです。愛を注がなければならないと思っていたけれどもできないでいたところへ連れ戻されるということです。人生論的に解釈すれば、信仰を授けられて生きてきた人生の道のりで、避け続けて来た課題(宿題)に取り組まされるときが、必ず来るということではないでしょうか。
今も教会に在られる主イエスは、弟子たちに現れた復活の主イエスと何一つ変わることのない主です。教会は礼拝をささげるたびに、格別、パンと杯に与るとき(聖餐式に与るとき)、このことを噛み締めて来ました。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」とヨハネは書いていますが、それ以上に、何度も何度も、主イエスは、今も変わらず、わたしたちのところに現れ出てくださっています。
ヨハネは、本福音書を書き記した目的を明確に述べます。「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり」「信じてイエスの名により命を受けるためである」と。このために福音書を書いたのであると。ただこのことのために、ヨハネは福音書を書き記したのだと語って終えます。キリストによる救いの信仰に導くために本書は書かれたのです。信仰をもって、聖霊によって導かれて福音書が真摯に読まれるとき、「主イエスは救い主キリストである」と告白できるのであり「その御名によって“永遠の命”の希望に生きる」ことができます。
復活の主イエスはトマスの告白を受け入れ、言葉をかけられます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。トマスは「手を入れてもよい」という主の“言葉”を信じました。そのことを指して、主イエスは「見ないで」といわれます。復活の主イエスを見るとしても、何を見るのか、という教会の信仰が、ここで語り示されています。わたしたちも「主を見ます」しかしそれは、肉の姿として、主を見るのではありません。聖霊の導きにより、今ここに来られている、“復活の主イエス”を信じるという仕方で、「主を見ている」のです。そういう意味で「見ないで信じる人」であり続けましょう。