イエス・キリストの十字架の死を、救いの恵みと信じるということは、やがて見るであろう神の御顔とその栄光の片鱗に触れることをゆるされた、ということです。ゆるされただけでなく、キリストが再び来られるとき、神の御顔を仰ぎ見る者とされる約束をいただいた、ということです。パウロは、それを「信仰」「希望」「愛」という言い方で表わしたのです。十字架の主を信じ、希望を持って、最後のときに完全に救われることを仰ぎ見る、それが神の愛であると。キリストが神の愛といわれるのは、御顔を完全に見ることが出来る者としてくださったということです。それがキリストにおいて示されている神の愛であり、「心の清い人々は幸いである」と呼ばれることの深い意味です。
今、わたしたちの世界では、ほんとうに悲しい現実が次々と起こっています。今この時も、聖地で、ウクライナで、その他の紛争地で、たくさんの人々が命を失っています。わたしたちは、何も出来ません。そこへ行って争いを鎮めることも、紛争を終結させることも何一つすることはできません。完全な絶望です。しかしわたしたちは、次のことを信じます。「そこにも、いいえ、そこだからこそ十字架のキリストはおられる」と。血潮を流しながらも、肉を割かれながらも、愚かな罪深い人々のために”主の憐み”を施すために、今朝もキリストは立ち続けておられます。このキリストの憐みに「ゆだねる」祈りを続けてゆく他ありません。「主よ、憐みたまえ」(キリエ・エレイソン)と。
牧師(伝道師)は、そのような真の牧者であり監督者であるキリストに倣うものとして召されます。牧師(伝道師)は、キリストなる神そのものではありませんが、キリストのような「魂の牧者または監督者」として働くべき者として、神によって選ばれた者です。本日は「献身者奨励日」でもあります。教会の頭である真の監督者であり牧者であるキリストと共に、キリストに倣って働く教師(献身者)のために祈りを合わせましょう。
十字架の死と復活を遂げられ、再び天に戻られた主イエスは、やがての日(救いの完成の日)、わたしたちのところへやってこられます。主の再臨です。主の再臨日には、わたしたちの罪の総決算が行われて、完全なる救いが実現します。わたしたちの罪の裁きと赦しは、主の十字架と復活で完成されたのです。ならば、もはや罪の裁きをいたずらに恐れて、死に向かってびくびくするような生き方はふさわしくありません。主イエスが成し遂げられた救いの出来事を、ひたすら信じて主の再臨の日を待ち臨むだけです。この救いの確信=たしかさをもっているのが、クリスチャンです。
正しく、神の義を求める(飢え渇きする)ということは、やはり、最初の教えに戻って来るのではないでしょうか。「心の貧しい者は幸いである」という教えにです。
神の前には、自分は何もない、だから、神よ、わたしたを(神の義で)満たしてください、すなわち「もうわたしには何も出来ません。お救いください!」とひざまずくとき、神による本物の「満たし」が注がれるのではないでしょうか。神の義とは、神による一方的な救いの恵です。イエス・キリストなる救いの御子をお与えくださるほどにして、わたしたちを取り戻してくださる神の愛に包まれ切ること、それが神の義に満たされることです。
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは”柔和”で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:28~29)この世で力を持つことが生きる道と取りつかれた者よ、わたしのもとに来て休むがよい。神の前に遜り、取りつかれたその重荷(罪)を担うとき、真の安らぎである平安を得られるであろうと。主は言われます。柔和とは、地上の歩みで何があろうとも、どんな状況に陥ろうとも、主なる神の前に遜って、十字架の道を歩んで行かれた主イエスの後ろ姿に”学び続ける”ことではないでしょうか。全ては神の下において=十字架のもとにおいて、終わりの時まで。
人生や世における悲しみを経験している人は、主において「慰められるであろう人々」である、と言い切ってよいのです。偽りのない真の約束と言ってもよいでありましょう。ハイデルベルク信仰問答第一の問いは「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただひとつの慰めは、何ですか」です。答えは「わたしが、わたし自身のものでなく、生きているにしても死ぬにしても、身も魂もイエス・キリストのものであることです。」です。ただ一つの慰めしかないのです。神から引き裂かれていることから来る永遠に解決しない悲しみ=「罪の悲しみ」を知り得た者は、ただ一つの慰めしかないことに導かれます。
この教えで、主イエスが求められている信仰とは、この詩編8編の詩人がうたっていることではないでしょうか。神の前においては、何一つ誇ることも、功績を生み出すこともできないようなものが、神によって祝福されている=救いの道に導かれている。
こんな幸いなことはないのではないのかと。宗教改革者ルターはこの箇所を次のように解釈したといわれます。「心の中に、地上のいかなる物、いかなる被造物にも執着することなく、素直で自由な心をもって、ただ神に従うのみ」と。それが「心の貧しい人」のあるべき姿であると。
わたしたちの多くは、おそらく、これから語られるであろう「山の上の説教」の数々に”つまずき”を覚えることでありましょう。とてもとても、守れるものではない!実行などできるはずもない!と。主イエスは、なぜ、出来もしない理想を押し付けられようとされたのかと思うかもしれません。しかし、そうではないと思います。むしろ、主イエスは、この教えを守ることができない、実行することが難しいということは、十分お分かりになっておられたのではないでしょうか。だからといって、最初から諦められてはいなかったと思いますが、わたしたちが、神の救いに与かり、主イエスの教えに生きる美しい姿を取り戻してゆくために、命を投げ出す覚悟をもって、この教えの数々を語られているのではないでしょうか。
今日のわたしたちもまた、「悪霊に取りつかれている」という点では、主イエスの下へ行かねばなりません。「平和を作り出す者は幸いなり」と教えられても自分のためには争いもいとわないわたしたちはすべて「悪霊に支配されている」状態です。主イエスは、言われます。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」と。神に聞き従うことなく、「丈夫だ、丈夫だ」と宣っているあなたがたは、やがて、いやされることのない不治の病に罹り、朽ち果ててゆくであろうと。いやしを受け目撃した人々は、「来てイエスに従った」と記されます。自分は神のいやしを受けなければ生きては行けない=丈夫ではないことを認めて、ひたすらに最後まで主に従ってゆくことが大切なのです。