人が人を赦すということはそう簡単には起こらないことです。神が統べ治めてくださらなければ実現はありません。しかしそれを実現するには、神の子の死があったことを、主イエスは伝えようとしているのではないでしょうか。主イエスが神の国の福音を説けば説くほどに反感を示す人は多くなり、十字架の死に至ったのです。ある人はこう言います。「人がその人を本気で赦したり愛したならば、その人に向けられているあらゆる非難や中傷を、ときには死をも受けなければならない。それをまず、主イエスその方がなさったのだ。わたしたちの救いは、その方にどれだけ倣えるかにかかっている」と。
今ここに、食べられて、飲んで、着られて、住まうことが出来ている自分は、神によって造られ、神によって養われ、神によって、その過ちを正されて生きている存在であることを忘れてはならないということでしょう。そうすれば、わたしたちの人生はなお一層豊かなものとなるに違いありません。食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで楽しむ人生ではない、別のもう一つの意義ある景色が見えて来るのであり、その先には、永遠の命の世界という神の国がかなたにあるのです。そうなったとき、少しずつ、「思い悩み」から解き放たれてゆきます。「今日は今日、明日は明日」という軽やかさに生きられます。
わたしたちは、人生を謳歌して、あるいはまた、思いのままに生きて、その上で、神に愛されて祝福の内に、天の御国へ凱旋できると考えることは慎まねばなりません。主はいわれます。「神と富」という二つの主人に仕えることは難しいと。人はどちらかを愛し、どちらかを疎んじるからであると。思えば、わたしたちの信仰生活は、日々このこととの戦いであるといえます。「あれもこれも」は信仰では成り立ちません。信仰生活で常に問われることは「あれかこれか」=「神か富か」=「天か地か」ということではないでしょうか。
断食するとき、頭に油をつけ顔を洗って、それと分からないようにするように、”人に気づかれず”キリスト者であることを証しすることが大切です。聖書の神が隠れておられるということは、また、次のような神であることを、意味しています。どこからでもみておられる神です。あえて、世と人々の前で、これみよがしの態度をとって、神に向かって叫ばなくとも、神は、わたしたちの信仰の姿を、格別、目立たない仕方で証ししている信仰の姿を、きちんと見ていてくださる、ということです。そういう信仰と実践が、神において認められて、何ものにも代え難い「祝福と救いの恵み」を受け取れるようになるのです。
赦しについて、主イエスは説明を付け加えられます。人が人の負い目と過ちを赦し合うことが出来ない。それが今日まで続いているわたしたちの問題です。国と国が、人と人がいつまでも諍いを続けているのはそこに「赦し」がないからです。「赦し」と「救い」と「神の国」はすべてつながっています。神の御心は、神によって造られた者が、互いに助け合うだけに留まらず、互いに赦し合う関係を築き、神の元へと戻されてゆくことです。キリストの十字架と復活の恵みに拠って、罪赦された者は、赦しの恵みを増し加えてゆく祈りを続けて、神の国が実現するために用いられることが求められていることです。主イエスは、そのことをも、主の祈りを通して、教えられたともいえましょう。
主イエスの十字架の死と葬りの墓は、わたしたちが生きる希望を失っていることの象徴です。ルカ福音書のエマオ途上の二人の弟子たちのように。しかし、そこに復活の主は必ず現れてくださり、生きる希望を授けてくださるのです。主の復活は、墓のような場所で生きてしまっている希望のなさからの解放です。「あの方は、もうここにはおられない」のです。わたしたちも「もうそこにはいない」のです。
エルサレムというこの世の権力が詰まった町に住んでいる人々は口を揃えていいます。みすぼらしい主イエスの姿をみて「これはどういう人だ」と。穏やかではないからです。世の楽しみと権力を手に入れても、魂の平安と神の国への切符を手に入れられない人々の叫びです。それに比べて主イエスを迎えている群衆は違います。「この方はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。この群衆が三日後には”心変わりする”と批判的な解釈がなされて来ました。ですが、救い主と明確に告白できなくとも、「預言者」として認める(気づく)ことから、救いの信仰は始まっていくのではないでしょうか。
主イエスは、具体的な祈り方についてお教えくださいます。異邦人とは本当の神を知らない人々という意味です。「父」と呼ばせていただけるような関係を作れていない者は、神への絶対的な信頼関係がないので、結果として、くどくどとした、言葉数が多い祈りになっているのだと。信頼関係がない間では空しい言葉がいたずらに飛び交うだけです。そういう祈りになってはならないと。神はすべてをご存じだから、祈らなくてよいのではないのです。全てをご存じだからこそ、なお一層わたしたちは、父なる神を信頼して、祈りをささげてゆくのです。祈りは「委ねること」でもあります。この方ならと信じて、祈るとき、思いもよらない神からの報いが与えられます。
善き業である施しをするにあたっては次のことを心がけねばなりません。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないために」と。右の手のすることを左の手に知らせるなとは不可能です。それほどにして人の目には触れないようにすべきであるという意味です。信仰らしい演技は止めなさいの教えです。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださると。隠れた業とはこっそりとではなく、観客を呼び込むような施しは意味がないということです。世には、演技をして、賞賛を得ることを顧みない働きをしている人々がいます。そういう人が、神から永遠の命という何ものにも代え難い報いを、神から間違いなく授けられるのです。
ここでの主イエスの教えの帰結は、「天の父のように完全になる」です。それは神の愛そのものに包み込まれてしまうということを意味しています。しかし、それは本当に難しい道です。十字架の主イエスの後ろ姿を見失うことなく、歩み続けねばならない道だからです。主の背中には、鞭を打たれて肉が裂け、血潮が噴出しています。それはすべて、わたしたちの愛のなさであることを意味しています。罪そのものを背負われている主イエスの愛の背中を見つめ続けることによって、わたしたちは、キリストの愛を一歩一歩知ってゆくのです。