最後のときは必ず来ます。それはいつの日かは分かりませんが、わたしたち一人ひとりと世界が永遠に続くことはありません。そのとき何が起こるのか。救い主イエス・キリストが、雲に乗ってやって来られるのです。そのとき、全ての者(生きている者も眠っている者も)は目覚めさせられて、キリストなる主を仰ぎ見ることとなります。そして、キリストを突き刺した者=神を否定し続けた者は、この主が来られたとき、その圧倒的な栄光に撃たれて「嘆き悲しむ」他なくなります。その日その時には、全ての者が、主の前に悔い改めて「あなたがなさったことは全てが、”その通りでした”=然りアーメン。」と合唱することとなるのでしょう。
このように、神の義に対する信仰の愚かさに徹して迫害に遭う人々こそが、天の国に生きる者であると主はいわれます。天の国とは「神の支配するところ」です。神によって全くの支配を受けている人々こそが幸いです。主の日毎に、毎週、教会へ通って礼拝をささげることは、世の多くの人々からみれば、まことに愚かなことと映っているかもしれません。しかし、その愚かさに生きること、場合によっては、迫害とはいえないまでも批判されることがあるかもしれません。しかし、まさにそのときにおいて、わたしたちは、神にあっては、幸いなのだと信じてよいのだ、と思います。
「平和を実現する人々」とは、神の子にとり戻された人々のことを指します。お互いに、神の子=神の麗しい作品であることを認め合うとき、和解が起こり、交わりが起こり、話し合いが始まります。違いはあってもよいのです。課題は違いという多様性を神にあって=キリストにあって「一つの体」として一致しているとの確信の下に了解していることです。今日ほど、多様な考えが氾濫している時代はありません。平和についてもそうでしょう。しかし、本当の平和とは、主にあって一致していることなのではないでしょうか。罪赦された者たちが集って交わりの宴が開かれる場所において。
今の時代は、たくさんの私または我らの「正義」があります。人の数だけ国の数だけ正義があるといってもよいでしょう。しかし、まさに、その正義によって、人と人とは憎み争い、傷つけ合い、国と国とは戦争を始めています。この愚かな正義の主張は止むことはありません。人の罪を赦すという神の義のみが、まことの正義であることに気づくとき、わたしたちの間に、真の平和が訪れます。宗教改革記念の時を迎えるにあたって、このことをもう一度、噛みしめたいと思います。
イエス・キリストの十字架の死を、救いの恵みと信じるということは、やがて見るであろう神の御顔とその栄光の片鱗に触れることをゆるされた、ということです。ゆるされただけでなく、キリストが再び来られるとき、神の御顔を仰ぎ見る者とされる約束をいただいた、ということです。パウロは、それを「信仰」「希望」「愛」という言い方で表わしたのです。十字架の主を信じ、希望を持って、最後のときに完全に救われることを仰ぎ見る、それが神の愛であると。キリストが神の愛といわれるのは、御顔を完全に見ることが出来る者としてくださったということです。それがキリストにおいて示されている神の愛であり、「心の清い人々は幸いである」と呼ばれることの深い意味です。
今、わたしたちの世界では、ほんとうに悲しい現実が次々と起こっています。今この時も、聖地で、ウクライナで、その他の紛争地で、たくさんの人々が命を失っています。わたしたちは、何も出来ません。そこへ行って争いを鎮めることも、紛争を終結させることも何一つすることはできません。完全な絶望です。しかしわたしたちは、次のことを信じます。「そこにも、いいえ、そこだからこそ十字架のキリストはおられる」と。血潮を流しながらも、肉を割かれながらも、愚かな罪深い人々のために”主の憐み”を施すために、今朝もキリストは立ち続けておられます。このキリストの憐みに「ゆだねる」祈りを続けてゆく他ありません。「主よ、憐みたまえ」(キリエ・エレイソン)と。
牧師(伝道師)は、そのような真の牧者であり監督者であるキリストに倣うものとして召されます。牧師(伝道師)は、キリストなる神そのものではありませんが、キリストのような「魂の牧者または監督者」として働くべき者として、神によって選ばれた者です。本日は「献身者奨励日」でもあります。教会の頭である真の監督者であり牧者であるキリストと共に、キリストに倣って働く教師(献身者)のために祈りを合わせましょう。
十字架の死と復活を遂げられ、再び天に戻られた主イエスは、やがての日(救いの完成の日)、わたしたちのところへやってこられます。主の再臨です。主の再臨日には、わたしたちの罪の総決算が行われて、完全なる救いが実現します。わたしたちの罪の裁きと赦しは、主の十字架と復活で完成されたのです。ならば、もはや罪の裁きをいたずらに恐れて、死に向かってびくびくするような生き方はふさわしくありません。主イエスが成し遂げられた救いの出来事を、ひたすら信じて主の再臨の日を待ち臨むだけです。この救いの確信=たしかさをもっているのが、クリスチャンです。
正しく、神の義を求める(飢え渇きする)ということは、やはり、最初の教えに戻って来るのではないでしょうか。「心の貧しい者は幸いである」という教えにです。
神の前には、自分は何もない、だから、神よ、わたしたを(神の義で)満たしてください、すなわち「もうわたしには何も出来ません。お救いください!」とひざまずくとき、神による本物の「満たし」が注がれるのではないでしょうか。神の義とは、神による一方的な救いの恵です。イエス・キリストなる救いの御子をお与えくださるほどにして、わたしたちを取り戻してくださる神の愛に包まれ切ること、それが神の義に満たされることです。
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは”柔和”で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:28~29)この世で力を持つことが生きる道と取りつかれた者よ、わたしのもとに来て休むがよい。神の前に遜り、取りつかれたその重荷(罪)を担うとき、真の安らぎである平安を得られるであろうと。主は言われます。柔和とは、地上の歩みで何があろうとも、どんな状況に陥ろうとも、主なる神の前に遜って、十字架の道を歩んで行かれた主イエスの後ろ姿に”学び続ける”ことではないでしょうか。全ては神の下において=十字架のもとにおいて、終わりの時まで。