主イエスは、具体的な祈り方についてお教えくださいます。異邦人とは本当の神を知らない人々という意味です。「父」と呼ばせていただけるような関係を作れていない者は、神への絶対的な信頼関係がないので、結果として、くどくどとした、言葉数が多い祈りになっているのだと。信頼関係がない間では空しい言葉がいたずらに飛び交うだけです。そういう祈りになってはならないと。神はすべてをご存じだから、祈らなくてよいのではないのです。全てをご存じだからこそ、なお一層わたしたちは、父なる神を信頼して、祈りをささげてゆくのです。祈りは「委ねること」でもあります。この方ならと信じて、祈るとき、思いもよらない神からの報いが与えられます。
善き業である施しをするにあたっては次のことを心がけねばなりません。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないために」と。右の手のすることを左の手に知らせるなとは不可能です。それほどにして人の目には触れないようにすべきであるという意味です。信仰らしい演技は止めなさいの教えです。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださると。隠れた業とはこっそりとではなく、観客を呼び込むような施しは意味がないということです。世には、演技をして、賞賛を得ることを顧みない働きをしている人々がいます。そういう人が、神から永遠の命という何ものにも代え難い報いを、神から間違いなく授けられるのです。
ここでの主イエスの教えの帰結は、「天の父のように完全になる」です。それは神の愛そのものに包み込まれてしまうということを意味しています。しかし、それは本当に難しい道です。十字架の主イエスの後ろ姿を見失うことなく、歩み続けねばならない道だからです。主の背中には、鞭を打たれて肉が裂け、血潮が噴出しています。それはすべて、わたしたちの愛のなさであることを意味しています。罪そのものを背負われている主イエスの愛の背中を見つめ続けることによって、わたしたちは、キリストの愛を一歩一歩知ってゆくのです。
主イエスは「神に対して誓ってはならない」とはいわれません。神のものとされているものの生き方のことです。誓いには願いや意志が入り込みます。それを神がどう判断なさるかは神に委ねるほかありません。願いは聞かれたかのように誓い始めてしまうという、神に「然り」と「否」をお聞きすることなく、都合や願いを一方的に神に押し付けるように誓い始めることによって引き起こされる「罪の問題」を指摘されるのです。神に対して誓いをするならば、神が然りと言われることにも神が否といわれることにも従う覚悟をもつべきであるというのが主イエスの教えです。その覚悟を身をもって示されたのが十字架の主です。そのことを、レントのときもう一度思い起こしたいと思います。
ファリサイ派や律法学者が、主イエスに厳しく批判されてしまった原因は「神の愛に応えて生きる」という姿勢を見失ったからです。むしろ、神の愛を手に入れるための手段として、厳しい戒めを守るという方向に向かってしまったのです。十字架に架かり、神の子としての命を投げ出すほどに愛を注いでくださった恵みにどう応えて行くのか?そのことを考えるレントでありたいと思います。
「信教の自由」から考えるわたしたちキリスト者の自由とは、自分を主語主体として、何を信じてもよいということとは違います。十字架のキリストが約束してくださった罪の赦しと永遠の命という報い以外には何一つ望まないという信仰から来る(信仰者の)応答による「自由な生き方」のことをさしているといえましょう。
主イエスはいわれます。「一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」のだと。それが神によるわたしたちへの総決算(最後の審判)です。しかし、そこから抜け出す一つの道があります。主イエスによる神への執り成しの御業を信じることです。十字架に架かられた主イエスは、わたしたちに対する神の裁きを一身に引き受けてくださいました。そのことによって、わたしたちは神へ怒りをぶつけるという愚かな罪から解き放たれて、神との和解の道へと進むことが可能となるのです。そして、そのような救いの恵みに包まれている者は、何事に対しても「怒るに遅く、和解は早く」という穏やかで健やかな人生を歩むことができます。
ファリサイ派や律法学者が犯した最大の過ちは「自分で義を立てる」ということです。神がご覧になってという視点の欠如です。自分たちは神に祝福されているという傲慢を主イエスは撃ち砕かれます。彼らと同じ過ちを犯しているならば律法を全うして、神の国へ入ることはないのだと。今日は多様な価値観や生き方が認められている一方息苦しさ感じているのは、自分で自分の義=正しさを証明しなければならないからではないでしょう。それは一人ひとりが自分で自分の義を立てねばならないという厳しい生き方です。キリストなる神以外に正しさはないという安心な基盤(土俵)の上で認め合う(赦し合う)ことがあってこその多様性ではないでしょうか。
キリスト者が自ずと放つ神の愛と赦しの光を見て、世の人々は、天の父なる神をほめたたえるようになってゆくのだと、ただそのことのみを誇りとして、生きなさいと主イエスは教えられているといえましょう。立派なクリスチャンとは、人々から賞賛されるような人格者のことではありません。神の愛と赦し=キリストを立派に証している人のことです。それは難しいことではありませんが、厳しい道でもあります。ただひたすらに、いかなる事情にあろうとも、どんな状況にあろうとも、天を仰いで、神を信じることに徹することだからです。
旧約聖書の預言者たちは、神の真実な言葉を語ったばかりに、人間的には悲運な最期を遂げた人が多くいます。しかし彼らのうち誰一人として、「幸いでない」者はいませんでした。主なる神は、間違いなく、彼らを天において受け入れています。今日、わたしたちは余りにも、見えるもの、手で触れられるもの、数値化できるものによって振り回されていないでしょうか。主イエスが語る「幸いなる」とは、そういった価値観から解き放たれた喜びに生きられることです。たとえ迫害に遭ったとしても…