教会がいたずらに世を恐れて不安になって、あるいは、わたしたちがそうなって、(こころの)扉を閉ざすならば、復活の主イエスはいつでも現れて、わたしたちが閉ざした扉を打ち破り、聖霊の息吹=神の命を注がれて、新しい命の喜びに生きるように促されるでありましょう。
教会につながっている意味、教会に与えられている神の命に与って生きる使命について、今一度、思いを馳せたいと願います。
主イエスは、何のために、地上に来られて、数々の言葉を語り、様々な奇跡を施されたのか。ただ、わたしたちが感心し、亡くなった後は、その思い出を後生大事にし、生きる糧として生きてゆくためでしょうか。主なる神、御子キリストが地上に来られて、わたしたちのあらゆる罪という罪を味わい尽くされた後、死をもってその罪を贖われ、復活の栄光をもって、救いを示されたことを信じることが信仰です。「わたしは主に会いました」と告白し、「救われました」と心の底から湧き上がる喜びに満たされること、それがわたしたちに授かった信仰です。
「主イエスは復活なさる」いや「復活なさった」この言葉が主の名によって宣言されるとき、「空になった墓の事実」は「ほんとうのこと」となってゆくのです。神の言葉は力ある“行為”です。言霊です。教会は、毎主日、この奇跡の言霊を世に向かって解き放っているのです。ある人はこういうことを言っています。「この人々の前で、『復活』と語ってごらんなさい。『永遠の命を思い起こせ』と語ってごらんなさい。それらの言葉を、ただその部屋に解き放てばよいのです。(神の)光の中で語り、言葉は、その業を果たすと信頼すればよいのです」と。ここに教会の成すべき務めがあります。
止められないほどに声を上げていた歓声は、数日後には、「十字架につけよ」との声に変わります。人間(自分)の主義主張に合わないメシアのことを見捨てるのです。ユダヤ教当局者たちの嘆きの声は、皮肉な声でもあります。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」数日後には、誰一人、主イエスの後を追う者はいなくなるのです。信仰とは(洗礼を受ける)とは、真の意味での救い主をお迎えする、ということですが、その迎え方については、常に祈り続けねばならない、といえましょう。
主イエスと交流し、出会ったひとびとの中に、主イエスは復活しました。復活の主は、あちらこちらで、私どもの心を揺さぶり、神の国への道を開いてくれます。あのひとが生還したらしい。この噂に、生きている我々は次への道が開かれるのです。私どもは主イエスが十字架にかかった姿も、復活した姿も見ていません。しかし主イエスは、どうやら生還したらしい、このことのもつ言い様のない確信はあります。どうぞおひとりおひとりの心の中で、ニヤリとしながら、主イエス生還の喜びをかみしめてください。
わたしたちが自分の時間や都合やタイミングで動こうとするとき、それは人間の謀となり、滞ります。しかし、ヨセフとニコデモのように、人間の計算を超えてしまった領域の事柄においては、それが信仰に基づくものであるなら神が配慮と導きをくださるのではないでしょうか。後にパウロは語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)と。主イエスの十字架の死を前にして、引き寄せられたヨセフとニコデモの二人は、今この真理に立ったのです。
主イエスは、十字架の死後、三日目に復活されました。空になった墓を訪れたマグダラのマリアたちに、天使は告げます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。
弟子たちがガリラヤへ向かうと復活の主イエスは、たしかに待っておられました。
十字架の死後、姿の消えた主イエスに不安をおぼえていた彼らは、神が備えられた約束の地で、主に会うことが出来ました。ヨセフをエジプトに遣わし、ヤコブの家族を救った同じ神が「先に行って」わたしたちを救ってくださいます。
救い主イエス・キリストは、旧約聖書から始まる神の大きな救いの計画の中で、地上に遣わされて、罪の赦しために十字架に架かられて、ほんとうに死なれました。ある神学者は、死にゆく枕辺で、こう言い遺してゆきました。「聖書に書いていることは、“本当だったんだ”」と。プロテスタント教会の信仰は、聖書を神の言葉として、救いの御言葉として信じることにあります。主イエスの死は、血と水が流れ出るほどに、生身の人間として神が死んでくださったことを語り示します。これを救いの真実として信じてゆきたいと願います。
わたしたち、神に対して罪のある人間は撃たれて死ぬのです。そこから救い出されたと信じ告白しているのがキリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者=洗礼を受けた(授けられた)者です。そのためには、十字架の上において何が起こっているのかということを、いつも心に留めてゆかねばなりません。ヨハネ福音書1章では、洗礼者ヨハネが、主イエスを迎えるとき、こう呼んでいます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と。この告白が、主イエスの最期において実現したのです。
主イエスは、神の愛の証言者たちを、格別母マリアの生涯を通して神の愛を伝え続けて生きられるようにと願って、愛する弟子ヨハネに託します。神の子として十字架の上で死なれてゆかれたと同時に、母を一人残して去ってゆかなければならない一人の息子としても十分意識をもち死んでゆかれます。そこに、まことの神であり、まことの人であったイエス・キリストの姿が、鮮やかに現れ出ているのではないでしょうか。父なる神を愛し、地上の人間をも愛する主イエスの愛に満ちた姿が、この最後の場面には現れ出ている、といえましょう。