十字架の死と復活を遂げられ、再び天に戻られた主イエスは、やがての日(救いの完成の日)、わたしたちのところへやってこられます。主の再臨です。主の再臨日には、わたしたちの罪の総決算が行われて、完全なる救いが実現します。わたしたちの罪の裁きと赦しは、主の十字架と復活で完成されたのです。ならば、もはや罪の裁きをいたずらに恐れて、死に向かってびくびくするような生き方はふさわしくありません。主イエスが成し遂げられた救いの出来事を、ひたすら信じて主の再臨の日を待ち臨むだけです。この救いの確信=たしかさをもっているのが、クリスチャンです。
正しく、神の義を求める(飢え渇きする)ということは、やはり、最初の教えに戻って来るのではないでしょうか。「心の貧しい者は幸いである」という教えにです。
神の前には、自分は何もない、だから、神よ、わたしたを(神の義で)満たしてください、すなわち「もうわたしには何も出来ません。お救いください!」とひざまずくとき、神による本物の「満たし」が注がれるのではないでしょうか。神の義とは、神による一方的な救いの恵です。イエス・キリストなる救いの御子をお与えくださるほどにして、わたしたちを取り戻してくださる神の愛に包まれ切ること、それが神の義に満たされることです。
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは”柔和”で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:28~29)この世で力を持つことが生きる道と取りつかれた者よ、わたしのもとに来て休むがよい。神の前に遜り、取りつかれたその重荷(罪)を担うとき、真の安らぎである平安を得られるであろうと。主は言われます。柔和とは、地上の歩みで何があろうとも、どんな状況に陥ろうとも、主なる神の前に遜って、十字架の道を歩んで行かれた主イエスの後ろ姿に”学び続ける”ことではないでしょうか。全ては神の下において=十字架のもとにおいて、終わりの時まで。
人生や世における悲しみを経験している人は、主において「慰められるであろう人々」である、と言い切ってよいのです。偽りのない真の約束と言ってもよいでありましょう。ハイデルベルク信仰問答第一の問いは「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただひとつの慰めは、何ですか」です。答えは「わたしが、わたし自身のものでなく、生きているにしても死ぬにしても、身も魂もイエス・キリストのものであることです。」です。ただ一つの慰めしかないのです。神から引き裂かれていることから来る永遠に解決しない悲しみ=「罪の悲しみ」を知り得た者は、ただ一つの慰めしかないことに導かれます。
この教えで、主イエスが求められている信仰とは、この詩編8編の詩人がうたっていることではないでしょうか。神の前においては、何一つ誇ることも、功績を生み出すこともできないようなものが、神によって祝福されている=救いの道に導かれている。
こんな幸いなことはないのではないのかと。宗教改革者ルターはこの箇所を次のように解釈したといわれます。「心の中に、地上のいかなる物、いかなる被造物にも執着することなく、素直で自由な心をもって、ただ神に従うのみ」と。それが「心の貧しい人」のあるべき姿であると。
わたしたちの多くは、おそらく、これから語られるであろう「山の上の説教」の数々に”つまずき”を覚えることでありましょう。とてもとても、守れるものではない!実行などできるはずもない!と。主イエスは、なぜ、出来もしない理想を押し付けられようとされたのかと思うかもしれません。しかし、そうではないと思います。むしろ、主イエスは、この教えを守ることができない、実行することが難しいということは、十分お分かりになっておられたのではないでしょうか。だからといって、最初から諦められてはいなかったと思いますが、わたしたちが、神の救いに与かり、主イエスの教えに生きる美しい姿を取り戻してゆくために、命を投げ出す覚悟をもって、この教えの数々を語られているのではないでしょうか。
今日のわたしたちもまた、「悪霊に取りつかれている」という点では、主イエスの下へ行かねばなりません。「平和を作り出す者は幸いなり」と教えられても自分のためには争いもいとわないわたしたちはすべて「悪霊に支配されている」状態です。主イエスは、言われます。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」と。神に聞き従うことなく、「丈夫だ、丈夫だ」と宣っているあなたがたは、やがて、いやされることのない不治の病に罹り、朽ち果ててゆくであろうと。いやしを受け目撃した人々は、「来てイエスに従った」と記されます。自分は神のいやしを受けなければ生きては行けない=丈夫ではないことを認めて、ひたすらに最後まで主に従ってゆくことが大切なのです。
主イエスに召されて、ひとたび従った弟子たちですが、主の最期のときには、誰一人主の傍にはいませんでした。それが現実です。神に召されて生きるとは、一体全体どういうこととなるのか、改めて、いろいろと考えさせられる召命物語ではないでしょうか。
全てのことに先立って、真っ先に命を投げ捨て、わたしたちの先頭に立っていてくださる、それだから、わたしたちは、この方のお召しにお応えすることができるのではないでしょうか。
戦後78年、順調に歩んできたわたしたちは、今大きな転換期を迎えています。かつて見たことも聞いたこともないものすごい変動が、様々なところで始まっています。不安は尽きません。将来を考えることさえ諦めています。まさに、聖書が語る暗黒と闇に住む人々がわたしたちの今の姿かもしれません。しかしわたしたちの救い主なる神は、その暗黒の地に、暗闇に住む人々に、神の子キリストを遣わすことによって、救いの希望を射し込まれたのです。この希望の灯は、最後の日まで、尽きることはありません。
「にもかかわらず、神の国は近づいた」この真理を、キリストを通して最後まで信じ抜く者は救われるのです。
主イエスが、誘惑物語で示されたことは、ただひたすら神に仕え従う一人のまことの人間として生きることを示すことにより、救い主キリストとしての証しとしたことです。まことの神であった主イエスは、わたしたちとは質的に異なっています。にもかかわらず、罪以外は、まったく同じように苦しみ悩まれて、悪の誘惑も味わわれ、それを乗り越える力を「サタンよ、去れ」という一言で鮮やかに示されたことに、救い主としての真の意味があります。ただ単に、頼めば罪を取り除いてくださる魔術的な方ではなく、わたしたちに先んじて、悪しき諸々の勢力(悪魔)と罪との戦い方を、命を懸けて見せてくださったのです。「サタンよ、去れ」の一言を発すればよい、後は、わたしが命を懸けて戦ってあげよう、主イエスは、そう語っておられると信じます。