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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2023年08月13日(主日礼拝)マタイによる福音書 4章18節〜22節「招きに応えさせる方」 道家紀一牧師

主イエスに召されて、ひとたび従った弟子たちですが、主の最期のときには、誰一人主の傍にはいませんでした。それが現実です。神に召されて生きるとは、一体全体どういうこととなるのか、改めて、いろいろと考えさせられる召命物語ではないでしょうか。

全てのことに先立って、真っ先に命を投げ捨て、わたしたちの先頭に立っていてくださる、それだから、わたしたちは、この方のお召しにお応えすることができるのではないでしょうか。

2023年08月06日(主日礼拝)マタイによる福音書 4章12節〜17節「にもかかわらず天の国は近づいた」 道家紀一牧師

戦後78年、順調に歩んできたわたしたちは、今大きな転換期を迎えています。かつて見たことも聞いたこともないものすごい変動が、様々なところで始まっています。不安は尽きません。将来を考えることさえ諦めています。まさに、聖書が語る暗黒と闇に住む人々がわたしたちの今の姿かもしれません。しかしわたしたちの救い主なる神は、その暗黒の地に、暗闇に住む人々に、神の子キリストを遣わすことによって、救いの希望を射し込まれたのです。この希望の灯は、最後の日まで、尽きることはありません。

「にもかかわらず、神の国は近づいた」この真理を、キリストを通して最後まで信じ抜く者は救われるのです。

2023年07月30日(主日礼拝)マタイによる福音書 4章1節〜11節「悪魔を撃退する方法は一つ」 道家紀一牧師

主イエスが、誘惑物語で示されたことは、ただひたすら神に仕え従う一人のまことの人間として生きることを示すことにより、救い主キリストとしての証しとしたことです。まことの神であった主イエスは、わたしたちとは質的に異なっています。にもかかわらず、罪以外は、まったく同じように苦しみ悩まれて、悪の誘惑も味わわれ、それを乗り越える力を「サタンよ、去れ」という一言で鮮やかに示されたことに、救い主としての真の意味があります。ただ単に、頼めば罪を取り除いてくださる魔術的な方ではなく、わたしたちに先んじて、悪しき諸々の勢力(悪魔)と罪との戦い方を、命を懸けて見せてくださったのです。「サタンよ、去れ」の一言を発すればよい、後は、わたしが命を懸けて戦ってあげよう、主イエスは、そう語っておられると信じます。

2023年07月23日(主日礼拝)マタイによる福音書 3章13節〜17節「神に選ばれる根拠」 道家紀一牧師

今の時代、多くの人が不安を抱えてしまっている理由は、神の選びという絶対的な保証が見えなくなっているからではないでしょうか。何もかもが自己責任の下、「自分で自分を基準とする危うさ」に生きているような気がします。「あなた以外に、あなたを支える絶対的な方がおられる」、この確信を得た者は、どんな困難にも堪えられます。キリスト者に与えられている何にも代えがたい尊い恵みです。神の愛と選びに与かっている幸いを(⇒洗礼の恵みとなる)を味わい知りましょう。そして、伝えましょう!

2023年07月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 3章1節〜12節「最後から”二番目”の人」 道家紀一牧師

ヨハネは、火で焼かれるイメージを、麦のもみ殻が焼かれる農作業と重ね合わせます。当時の農法の一つとして、もみ殻のついた麦を空中へふわーと投げると比重のある麦は落ちてきますが、軽いもみ殻は風に吹かれて取り除かれます。それをかき集めて火で焼いていたのでした。それと同じように、真の悔い改めに導かれない者は、もみ殻のように火の裁きに遭うのだと。後の教会は、もみ殻は、わたしたちの罪として考えました。火の裁きを潜り抜ける間に、罪が焼き滅ぼされ、裁きを潜り抜け麦となったわたしたちは、神の救いの倉に納められるのであると。神の裁きの恐ろしさと共に、救いをもたらすキリストとこの方を待ち望んだヨハネの謙虚な信仰に、思いを馳せたいと願います。

2023年07月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 2章13節〜23節「神の言葉に従って生きる」 道家紀一牧師

ヨセフは、節目節目で、神に真摯に祈り、神のお告げ(祈りに対する答え)をもって、神に従う決心をして歩み続けました。その信仰的態度が、神の救いの計画の一つひとつを実現していくのだ、というのがマタイの信仰告白といえます。
 わしたちもまた、そのように、丁寧に、真摯に、一つひとつの事柄について祈って行きたいと願います。

2023年07月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「生きる拠点を築く行為」 道家紀一牧師

救いの時の徴=星に導かれた学者たちは、間違えることなく救い主=救いに出会います。学者たちは、携えていたもの、「黄金」「乳香」「没薬」を、幼子イエスに献げます。この品々が何を意味しているのか。解釈に様々な歴史がありますが、こう解釈しました。救い主=救いそのものに出会うまで、人生を成り立たせてきたもの=生きる根拠の数々を捨ててしまうことを象徴する行為ではないのかと。この三つの品々は学者たちの人生を成り立たせ、蓄えたものです。それを献げたということは、捨ててしまったということです。わたしたちもまた、信仰のこの原点に戻って、歩みたいと願います。

2023年06月25日(主日礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「沈黙の後、告白」 道家紀一牧師

神の前における正しさは、神の前に黙することからしか得られないといえましょう。人の思いつく正しさで、世の悪と人の罪を取り除くことはできないのだと、マタイは告白し、これを書いていると思うのです。神が備えられた”しるし”である御子キリストはやがて成長され、この方もまたいたずらに叫ばれることなく黙して十字架に架かられてゆきます。しかしそこに、神の偉大な救いの計画が実現するのです。ヨセフとマリアは神がお決めなったそのときまで、互いに信頼し合って、関係をもつことなく事柄を進めるのでした。

2023年06月18日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「救いの系図」 道家紀一牧師

神の偉大な計画が頓挫するかに思われたその時、名もないナザレのイエスに宿られます。受肉の出来事です。16節「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と。歴史の中(肉の血筋の中)に生まれた人物を用いて、救いの計画を進められてきた神は、ついに、ご自身やって来られたのです。まことの神がまことの人となったのです。神が選ばれたのは、ガリラヤの乙女マリアの胎内から生れ出た一人の赤子でした。「ここに救いがある」といって。 神による救いの系図はマリアの子イエスにおいて完成します。なぜイエスなのか?それは神のみがご存じであられる秘儀です。

2023年06月11日(神の救いの業は果てしない)ヨハネによる福音書 21章20節〜25節「神の救いの業は果てしない」 道家紀一牧師

ヨハネによる福音書を書き終えるにあたって、ヨハネが書いたことは、キリストの栄光の輝きについてです。わたしたちが信仰を授けられて、何世代にもわたって、どんなに多くの時と労力をかけキリストを証しし続けてゆこうとも、キリストが成し遂げられた尊い御業について明らかにすることは出来ないのだと。神が、主キリストを通して成し遂げられたこと(神が人間と世界を救われるという計画)は果てしないのだといって、ヨハネは福音書を書き終えます。