主イエスと交流し、出会ったひとびとの中に、主イエスは復活しました。復活の主は、あちらこちらで、私どもの心を揺さぶり、神の国への道を開いてくれます。あのひとが生還したらしい。この噂に、生きている我々は次への道が開かれるのです。私どもは主イエスが十字架にかかった姿も、復活した姿も見ていません。しかし主イエスは、どうやら生還したらしい、このことのもつ言い様のない確信はあります。どうぞおひとりおひとりの心の中で、ニヤリとしながら、主イエス生還の喜びをかみしめてください。
わたしたちが自分の時間や都合やタイミングで動こうとするとき、それは人間の謀となり、滞ります。しかし、ヨセフとニコデモのように、人間の計算を超えてしまった領域の事柄においては、それが信仰に基づくものであるなら神が配慮と導きをくださるのではないでしょうか。後にパウロは語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリント1:18)と。主イエスの十字架の死を前にして、引き寄せられたヨセフとニコデモの二人は、今この真理に立ったのです。
主イエスは、十字架の死後、三日目に復活されました。空になった墓を訪れたマグダラのマリアたちに、天使は告げます。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と。
弟子たちがガリラヤへ向かうと復活の主イエスは、たしかに待っておられました。
十字架の死後、姿の消えた主イエスに不安をおぼえていた彼らは、神が備えられた約束の地で、主に会うことが出来ました。ヨセフをエジプトに遣わし、ヤコブの家族を救った同じ神が「先に行って」わたしたちを救ってくださいます。
救い主イエス・キリストは、旧約聖書から始まる神の大きな救いの計画の中で、地上に遣わされて、罪の赦しために十字架に架かられて、ほんとうに死なれました。ある神学者は、死にゆく枕辺で、こう言い遺してゆきました。「聖書に書いていることは、“本当だったんだ”」と。プロテスタント教会の信仰は、聖書を神の言葉として、救いの御言葉として信じることにあります。主イエスの死は、血と水が流れ出るほどに、生身の人間として神が死んでくださったことを語り示します。これを救いの真実として信じてゆきたいと願います。
わたしたち、神に対して罪のある人間は撃たれて死ぬのです。そこから救い出されたと信じ告白しているのがキリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者=洗礼を受けた(授けられた)者です。そのためには、十字架の上において何が起こっているのかということを、いつも心に留めてゆかねばなりません。ヨハネ福音書1章では、洗礼者ヨハネが、主イエスを迎えるとき、こう呼んでいます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と。この告白が、主イエスの最期において実現したのです。
主イエスは、神の愛の証言者たちを、格別母マリアの生涯を通して神の愛を伝え続けて生きられるようにと願って、愛する弟子ヨハネに託します。神の子として十字架の上で死なれてゆかれたと同時に、母を一人残して去ってゆかなければならない一人の息子としても十分意識をもち死んでゆかれます。そこに、まことの神であり、まことの人であったイエス・キリストの姿が、鮮やかに現れ出ているのではないでしょうか。父なる神を愛し、地上の人間をも愛する主イエスの愛に満ちた姿が、この最後の場面には現れ出ている、といえましょう。
ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストを、メルキゼデクになぞらえて「大祭司」とたとえます。メルキゼデクは創世記14章にのみ登場する祭司です。神に召されて、アブラハムを祝福した祭司として描かれています。レビの血筋にある者たちが受け継いできた祭司職ではなく、神に召されて祭司の務めに就いたということが大切であると語ります。わたしたちは、かつてのイスラエルのように代々祭司職にあるものを通して、神の救いに与るのではなく、神が召し、神が遣わされた大祭司キリストを通して、直接、神の救いに与れるのです。
主イエスの十字架の死とその時点での十字架を取り巻く状況は散々たるものです。神の恵みの約束など、いったいぜんたいどこに見られるのだろう、という状況です。しかし、その中において、「聖書の言葉は実現した」と告白することからしか救いはありません。神が、わたしたちに約束される救いの恵みは、わたしたちの周りの何もかもが好転して、この上なく好ましい状況の中で示されることではないのです。むしろ、十字架の出来事において象徴されるような悲惨な現実の只中で、神の救いの恵みは示されているのです。
ユダヤ人の王とは、ただの王ではありません。神が、地上の歴史の中で選ばれた民=神の民イスラエルの王=世界を救う王=世界の救い主です。その名が掲げられた場所はゴルゴダの丘でした。十字架の上という人間にとっては、これほど過酷で悲惨な場所はないというところで、その名は上げられたのです。世界の王として、主イエスは十字架に架けられて死にます。人間と世界を救うような方は、実際、人間と歴史の狭間で、決して、誉れに満ちた仕方ではなく、死に果てて行きます。主イエスは、その最先端に位置しておられる方です。
ピラトは、主イエスを、十字架につけるために、彼らに引き渡します。彼は、この裁判における苦悩を解き明かされることなくその役目を終えたのでした。詩編38篇の詩人はうたいます。「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています」と。わたしたちは、罪の苦悩を味わった後、まことの救いに与ることができます。その苦悩を担ってくださる主イエスキリストがおられるからです。ピラトは、そのことに気づくことなく信仰を得る機会を逃してしまったのです。