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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2022年12月04日(待降節Ⅱ礼拝)ルカによる福音書 1章57節〜80節「荒れ野に下って待ちましょう」 道家紀一牧師

バプテスマのヨハネは、公に登場するまでは、荒れ野に下ってゆきます。アドベント、それは、メシア(救い主)到来(誕生)を待つ期間です。ヨハネが荒れ野に下ったように、わたしたちもそのときを待って、それぞれの荒れ野に下りましょう。そして、メシアが到来したとき=クリスマスの恵みが来た時、喜びと感謝をもって、ヨハネのように救い主の誕生を証しし、“主による平和”の実現のために働くものとなりましょう。

2022年11月27日(待降節Ⅰ礼拝)ルカによる福音書 21章25節〜36節「終りの始まり」 道家紀一牧師

主の日は、神を信じて救いを待つ者には恵みのときとなりますが、神を忘れて肉の放縦に生きている者には、襲い来る恐ろしい裁きの日となります。肉の思いに埋もれてはなりません。人の思いに左右されてはなりません。形あるもの、目に見えるものに揺り動かされてもなりません。それらは壊れてゆくものであり、他ならぬ、神が、わたしたちの救いのために壊されるからです。その崩壊のしるしを見据えながら、わたしたちは、目を凝らし、祈り深く歩むのです。最後の日、人の子と呼ばれる救い主の前に立てる、その大きな希望が、今のあなたを支えるのであり、魂を真の意味でたくましく整え、一つひとつの事柄に、携わってゆく平穏な日々と人生が与えられ、築かれてゆくのです。

2022年11月20日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜26節「神の愛を響かせましょう」 道家紀一牧師

ギリシャ哲学の徳目の中心には「人間の感情を超越した冷徹な心」と「何ものにも揺り動かされない不動の精神」というものがあります。しかしパウロは、それらとは全く無関係なところから、しかし、それら以上の力強い核心を示しています。聖霊が結ぶ実としての徳目です。それは、わたしたちの罪と過ちのために十字架に架かって死なれるという圧倒的な神の愛によって支配されるところから生じてくる力です。愛のないわたしたちの現実と神の愛とが切り結ぶところに生じる“愛の結実”の諸相(諸々の徳目)が生じるのです。

2022年11月13日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 6章13節〜20節「神の確かな約束」 平澤基幸牧師

ヘブライ人への手紙は、大祭司キリスについて語りますが、その中で、旧約聖書の二人の人物に言及します。一人はアブラハムです。アブラハムは、神との契約に基づいて、神を信頼し、神がそれに応える仕方で、祝福に与った人です。わたしたちの救いは、神の祝福です。わたしたちも、神との約束に基づいて、大祭司キリストを信じて歩むことによって、救いの祝福に与ります。もう一人は、理想的な旧約聖書の祭司メルキゼデクです。神とイスラエル(人)との間に立った仲介者です。大祭司キリストは、この大祭司以上の仲介者です。

2022年11月06日(聖徒の日礼拝)創世記 5章21節〜24節・ヨハネの黙示録14章13節「神が取られたので」 保科 隆牧師

教会で信仰生活を過ごして亡くなった方(召された方)を「聖徒」(在天者)といいます。11月最初の主日を「聖徒の日」と定めて、方々を記念します。わたしたちが天に召されるのは、すべての神のご計画によります。創世記5章にアダムの系図がありますが、生涯の年齢の後にこう記されています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と。「神が取られたので」人は天に召されるのです。しかし、そこはヨハネ黙示録に記されている世界です。「然り、労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(14:13)と。「神に結ばれて死ぬ人は幸いです」と言われる生涯を送った人が住む世界です。

2022年10月30日(宗教改革記念日礼拝)ローマの信徒への手紙 3章21節〜31節「ただキリストを信じる」 道家紀一牧師

神の、わたしたちに対する願い(求め)は、ただ一つのことです。神によって造られながら、神から離れ、罪を犯した状態に陥り、生きにくくなり、苦しみと悩みの連続にあるわたしたちが、キリスト・イエスの恵みの出来事(十字架の贖いの業)に触れて、再び、神の御顔を仰げるものとなることです。そのときまで、神は、御子キリストを犠牲にしてまでして、忍耐強く待ち続けてくださっているのです。この恵みに気づき、お応えする人生を志してゆくこと、それが、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者の生き方です。

2022年10月23日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 18章38b節〜19章7節「罪の暴走を止める方」 道家紀一牧師

主イエスに対する判決は、不当極まりないものになろうとしています。もはやピラトは、尋常ではない事態に陥っていることを知ります。ひとたび走り出した人間の罪の暴走を止められるものは、この世にはいません。まことの神なるお方、主イエス・キリストが十字架に架かられることによってのみ、罪の歴史に終止符が打たれるのです。

2022年10月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)エフェソの信徒への手紙 1章3節〜14節「神の栄光をほめたたえて生きる」 道家紀一牧師

パウロがエフェソの教会の人々に語っていることは、すべてわたしたちに向かって語られている言葉です。今ここに洗礼を受けて集っている一人ひとり、また、これから洗礼を志そうとしている一人ひとり、すでに洗礼を受けて人生を全うして天に召されている一人ひとり、さらには、これから導かれようとしている一人ひとりを、神は、キリストにおいて救いの選びに与らせたのです。それはすべて、神の秘められた計画であり、約束された聖霊の証印を押すためであります。したがって、この証印を受けた者はみな、すなわち洗礼を受けた者はみな、神の子に取り戻されて=神のものとなって、神の栄光をほめたたえて生きる者となるのです。

2022年10月09日(神学校日礼拝)マタイによる福音書 8章21節〜22節「主イエスに従うこと 弟子」 永瀬よしこ牧師

主イエスに従うという事を弟子に命じられます。この世の死で終わる運命に嘆く事を止める事。この世の嘆きは、この世の死に行く運命に留まっている人々に任せて、私に従いなさい。と、弟子を励まされるのです。主イエスは、「父を葬りたい」と、悲しむ弟子に対して、一見冷たいと感じる言葉を命じます。しかし主を第一にして従う道にこそ、本当の父を愛する平安が与えられるという励ましの命令でした。Luku 9:23(それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…)そこには、主イエス御自身が、天の父に従う弟子としての姿があったのです。今週も共に主に感謝を献げたいと思います。

2022年10月02日(世界聖餐日礼拝)フィレモンへの手紙 章4節〜7節「一つの祈る群」 道家紀一牧師

“祈りは行為です”。真に祈ることは、真実な行動になって実を結びます。どんな花を咲かせるのかは、神の御心です。わたしたちがすべきことは、信じて、愛を込めて、祈ることです。「有り得ない」と決め込んで、最初から祈りを放棄することは、信仰も愛もない証拠です。愛のある人は、信じて、粘り強く祈ることができる人です。愛も信仰も足りないで、祈ることを簡単にやめてしまうのでありましょう。旧約聖書の詩人は祈りの人ですが、その中でも13編の詩人の祈りには粘り強さがあります。「いつまで、主よ」と祈り続け、最後に「主はわたしに報いてくださった」と感謝と喜びの祈りで終わっています。愛と信仰の伴った、粘り強い祈りを、共に献げてゆきたいと願います。