すべてのものは、御子キリスト「において(の中で)」、御子キリスト「によって(を通して)」御子キリスト「のために(目指して)」“造られた”とパウロは語ります。御子キリストは世界と人間の創造者です。御子キリストを通して存在します。最終的にはキリストを目指して、わたしたちと世界は保たれます。「キリストのように生き」「キリストのように死んで行く」、それが、神によって造られ、その支配と救いとにあずかっている者の歩むべき道です。今年も、すべての事柄において、御子キリスト“において”御子キリスト“によって”御子キリスト“のために”ということをおぼえつつ、歩んでまいりましょう。
主イエスの受難の前に準備されたこの話は、イエスの教えを正しく受け取り、それを自らの生きる道に生かしたとしても、最も大切なことは、主イエスに全てを献げ、主イエスにおいて現された神の栄光を自らの生きる内に持っていなければ、それらの行為も意味のないことだということです。自らの栄光に固執してしまうことなく、命を与えてくれた神を知ることこそ、私どもの生きる道があるのだということを忘れてはならないのです。忘れてならないのだけれど、私どもは、どうしても忘れてしまう者でもあります。だからこそ、女は突然現れて、そして大胆に壺を壊し、主イエスに香油を注ぐのです。壺を割らなければ、香油も注げません。女はそのことを気づかせてくれたのです。
今日、わたしたちの世界は益々多様性に満ち、価値観が複雑になり、相対的で移ろいやすいものとなっています。絶対的なものが見いだせない時代に生きています。だからこそ、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)を信じてゆくことが求められるのではないでしょうか。聖書の原語(ギリシャ語)で罪のことを“ハマルティア”といいます。元来の意味は「的を外れる」です。世界の中心なる神を見失っている時代が今ではないでしょうか。それが、多様性と言う名の下、実は、人の都合主義による様々な正義と自由を産み出し、混乱に陥っています。まずは、中心点を定めることから始めなければ、多様性が認められる「真の世界」は築かれることはないでしょう。
クリスマスの出来事のほんとうの意味を告げても、今日、多くの人々は不思議がるだけでありましょう。2000年前と同じように。「そんなことがあろうか」と。自分では何一つ守ることができない小さな幼子を、他ならない神が守っておられる。この聖なる事実を見ることが信仰のはじまりです。“自分のような”あるいは“こんな世界”と思っている人は、実は、人間の力に頼った生き方をしています。そこから一歩踏み出して、“その自分に救いが来た”“その世界が贖われた”、人ではなく神によって可能となった、と信じる人が、御心に適う人となり、地に平和をもたらす祈りに生きる人々となれるのです。
救い主に出会った東の国から来た占星術の学者たちは、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けます。それは、もう二度とヘロデ的勢力にとらわれないで生きなさいという示しです。彼らはその通りに、別の道を通って、再び自分たちの国=人生の馳せ場へと(持ち場へ)帰って行くのでした。わたしたちもまた、改めて、救い主に出会い、ヘロデ的勢力にとらわれないで生きる道を歩み出したいと願います。
語られることの少ないマリアの過酷な出産を通して、現代に生きる私どもが考えねばならない視点を、神は時空を超えて私どもに準備してくれていました。神が人間として救い主を私どもにお与えくださったことの意味もそこに隠されています。私どもがマリアの出産が下層に生きる労働者と天の軍勢によって守られ、平和な世を願ってあったことを知るのなら、今の世にマリアのように過酷な状況にある女たちがいることを覚え、彼女らの平安を祈りと共にいる者でありたいと願います。
バプテスマのヨハネは、公に登場するまでは、荒れ野に下ってゆきます。アドベント、それは、メシア(救い主)到来(誕生)を待つ期間です。ヨハネが荒れ野に下ったように、わたしたちもそのときを待って、それぞれの荒れ野に下りましょう。そして、メシアが到来したとき=クリスマスの恵みが来た時、喜びと感謝をもって、ヨハネのように救い主の誕生を証しし、“主による平和”の実現のために働くものとなりましょう。
主の日は、神を信じて救いを待つ者には恵みのときとなりますが、神を忘れて肉の放縦に生きている者には、襲い来る恐ろしい裁きの日となります。肉の思いに埋もれてはなりません。人の思いに左右されてはなりません。形あるもの、目に見えるものに揺り動かされてもなりません。それらは壊れてゆくものであり、他ならぬ、神が、わたしたちの救いのために壊されるからです。その崩壊のしるしを見据えながら、わたしたちは、目を凝らし、祈り深く歩むのです。最後の日、人の子と呼ばれる救い主の前に立てる、その大きな希望が、今のあなたを支えるのであり、魂を真の意味でたくましく整え、一つひとつの事柄に、携わってゆく平穏な日々と人生が与えられ、築かれてゆくのです。
ギリシャ哲学の徳目の中心には「人間の感情を超越した冷徹な心」と「何ものにも揺り動かされない不動の精神」というものがあります。しかしパウロは、それらとは全く無関係なところから、しかし、それら以上の力強い核心を示しています。聖霊が結ぶ実としての徳目です。それは、わたしたちの罪と過ちのために十字架に架かって死なれるという圧倒的な神の愛によって支配されるところから生じてくる力です。愛のないわたしたちの現実と神の愛とが切り結ぶところに生じる“愛の結実”の諸相(諸々の徳目)が生じるのです。
ヘブライ人への手紙は、大祭司キリスについて語りますが、その中で、旧約聖書の二人の人物に言及します。一人はアブラハムです。アブラハムは、神との契約に基づいて、神を信頼し、神がそれに応える仕方で、祝福に与った人です。わたしたちの救いは、神の祝福です。わたしたちも、神との約束に基づいて、大祭司キリストを信じて歩むことによって、救いの祝福に与ります。もう一人は、理想的な旧約聖書の祭司メルキゼデクです。神とイスラエル(人)との間に立った仲介者です。大祭司キリストは、この大祭司以上の仲介者です。