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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2023年03月05日(受難節第二礼拝)ヨハネによる福音書 19章31節〜37節「主イエスは本当に死なれた」 道家紀一牧師

救い主イエス・キリストは、旧約聖書から始まる神の大きな救いの計画の中で、地上に遣わされて、罪の赦しために十字架に架かられて、ほんとうに死なれました。ある神学者は、死にゆく枕辺で、こう言い遺してゆきました。「聖書に書いていることは、“本当だったんだ”」と。プロテスタント教会の信仰は、聖書を神の言葉として、救いの御言葉として信じることにあります。主イエスの死は、血と水が流れ出るほどに、生身の人間として神が死んでくださったことを語り示します。これを救いの真実として信じてゆきたいと願います。

2023年02月26日(受難節第一礼拝)ヨハネによる福音書 19章28節〜30節「すべてを成し遂げられた」 道家紀一牧師

わたしたち、神に対して罪のある人間は撃たれて死ぬのです。そこから救い出されたと信じ告白しているのがキリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者=洗礼を受けた(授けられた)者です。そのためには、十字架の上において何が起こっているのかということを、いつも心に留めてゆかねばなりません。ヨハネ福音書1章では、洗礼者ヨハネが、主イエスを迎えるとき、こう呼んでいます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と。この告白が、主イエスの最期において実現したのです。

2023年02月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 19章25節〜27節「主イエスの愛に満ちた姿」 道家紀一牧師

主イエスは、神の愛の証言者たちを、格別母マリアの生涯を通して神の愛を伝え続けて生きられるようにと願って、愛する弟子ヨハネに託します。神の子として十字架の上で死なれてゆかれたと同時に、母を一人残して去ってゆかなければならない一人の息子としても十分意識をもち死んでゆかれます。そこに、まことの神であり、まことの人であったイエス・キリストの姿が、鮮やかに現れ出ているのではないでしょうか。父なる神を愛し、地上の人間をも愛する主イエスの愛に満ちた姿が、この最後の場面には現れ出ている、といえましょう。

2023年02月12日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 7章1節〜10節 21節~25節「メルキゼデクの祭司職」 平澤基幸牧師

ヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストを、メルキゼデクになぞらえて「大祭司」とたとえます。メルキゼデクは創世記14章にのみ登場する祭司です。神に召されて、アブラハムを祝福した祭司として描かれています。レビの血筋にある者たちが受け継いできた祭司職ではなく、神に召されて祭司の務めに就いたということが大切であると語ります。わたしたちは、かつてのイスラエルのように代々祭司職にあるものを通して、神の救いに与るのではなく、神が召し、神が遣わされた大祭司キリストを通して、直接、神の救いに与れるのです。

2023年02月05日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章23節〜24節「聖書の言葉は実現する」 道家紀一牧師

主イエスの十字架の死とその時点での十字架を取り巻く状況は散々たるものです。神の恵みの約束など、いったいぜんたいどこに見られるのだろう、という状況です。しかし、その中において、「聖書の言葉は実現した」と告白することからしか救いはありません。神が、わたしたちに約束される救いの恵みは、わたしたちの周りの何もかもが好転して、この上なく好ましい状況の中で示されることではないのです。むしろ、十字架の出来事において象徴されるような悲惨な現実の只中で、神の救いの恵みは示されているのです。

2023年01月29日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章16b節〜22節「ユダヤ人の王とは何か」 道家紀一牧師

ユダヤ人の王とは、ただの王ではありません。神が、地上の歴史の中で選ばれた民=神の民イスラエルの王=世界を救う王=世界の救い主です。その名が掲げられた場所はゴルゴダの丘でした。十字架の上という人間にとっては、これほど過酷で悲惨な場所はないというところで、その名は上げられたのです。世界の王として、主イエスは十字架に架けられて死にます。人間と世界を救うような方は、実際、人間と歴史の狭間で、決して、誉れに満ちた仕方ではなく、死に果てて行きます。主イエスは、その最先端に位置しておられる方です。

2023年01月22日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 19章8節〜16 a節「罪に苦悩する人間:ピラト」 道家紀一牧師

ピラトは、主イエスを、十字架につけるために、彼らに引き渡します。彼は、この裁判における苦悩を解き明かされることなくその役目を終えたのでした。詩編38篇の詩人はうたいます。「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして 犯した過ちのゆえに苦悩しています」と。わたしたちは、罪の苦悩を味わった後、まことの救いに与ることができます。その苦悩を担ってくださる主イエスキリストがおられるからです。ピラトは、そのことに気づくことなく信仰を得る機会を逃してしまったのです。

2023年01月15日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)コロサイの信徒への手紙 1章9節〜16節「キリストのように生きる」 道家紀一牧師

すべてのものは、御子キリスト「において(の中で)」、御子キリスト「によって(を通して)」御子キリスト「のために(目指して)」“造られた”とパウロは語ります。御子キリストは世界と人間の創造者です。御子キリストを通して存在します。最終的にはキリストを目指して、わたしたちと世界は保たれます。「キリストのように生き」「キリストのように死んで行く」、それが、神によって造られ、その支配と救いとにあずかっている者の歩むべき道です。今年も、すべての事柄において、御子キリスト“において”御子キリスト“によって”御子キリスト“のために”ということをおぼえつつ、歩んでまいりましょう。

2023年01月08日(栄光祭礼拝)マルコによる福音書 14章3節〜9節「女は壺を割る」 星山京子牧師

主イエスの受難の前に準備されたこの話は、イエスの教えを正しく受け取り、それを自らの生きる道に生かしたとしても、最も大切なことは、主イエスに全てを献げ、主イエスにおいて現された神の栄光を自らの生きる内に持っていなければ、それらの行為も意味のないことだということです。自らの栄光に固執してしまうことなく、命を与えてくれた神を知ることこそ、私どもの生きる道があるのだということを忘れてはならないのです。忘れてならないのだけれど、私どもは、どうしても忘れてしまう者でもあります。だからこそ、女は突然現れて、そして大胆に壺を壊し、主イエスに香油を注ぐのです。壺を割らなければ、香油も注げません。女はそのことを気づかせてくれたのです。

2023年01月01日(新年礼拝)コリントの信徒への手紙 一 8章1節〜6節「八百万の神々の中で」 道家紀一牧師

今日、わたしたちの世界は益々多様性に満ち、価値観が複雑になり、相対的で移ろいやすいものとなっています。絶対的なものが見いだせない時代に生きています。だからこそ、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ13:8)を信じてゆくことが求められるのではないでしょうか。聖書の原語(ギリシャ語)で罪のことを“ハマルティア”といいます。元来の意味は「的を外れる」です。世界の中心なる神を見失っている時代が今ではないでしょうか。それが、多様性と言う名の下、実は、人の都合主義による様々な正義と自由を産み出し、混乱に陥っています。まずは、中心点を定めることから始めなければ、多様性が認められる「真の世界」は築かれることはないでしょう。