ナザレのイエスとして、地上の歴史に現れなさった方を、「罪からの救い主」と信じ、この方によって、この方を通して、わたしたちの造り主である「父なる神」に結び合されて行く(神の子としての身分を取り戻して行く)ことにより、健やかな“生”(命の歩み)を取戻して行くのです。教会とキリスト者が存在する意味は、この真理(神の命に結び合されて=神の息を吹き込まれて生きる幸い)を示し続ける(証しし続ける)ことにあります。
異邦人である百人隊長は、一人の部下、息子の命を得る事を心から願います。彼はこの世の常識を振り返る事なく、主イエスの御前に身を投げ出したのです。「主よ」と救いを求める彼の執り成しの信仰は、主イエスに、『これほどの信仰』と喜ばれて、認められました。その時、彼の息子は、命を得たのです。
「キリストのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」とパウロは語ります。欲情や欲望にとらわれて枯れた骨のようになっていた罪深いわたしたちは、十字架のキリストによって、今一度、命の霊を注がれて“生き返った”のです。神を愛し、神に仕える健やかな生き方を取り戻したのです。神によって造られたわたしたちは、神に仕えるという使命にほんとうに生きるとき、健やかな人生に生きられるのです。
わたしたちの世界が、今、なぜ行き詰まっているのか。その原因にある罪の問題(愛のないこと、正しさが貫かれないこと 真実がかくされてしまうこと…)を聖書の真理はつまびらかにします。主の御名によって洗礼を受けた者は、その真理を帯びている者です。したがって、その真理によって、わたしたちは生きるように召されています。真理によって生きることは、聖なる者、つまり、罪ある世とは“分け隔てられた存在”として生きるようになることです。
御言葉を守り続けて行く人々とは、主イエスが、父なる神から遣わされたことにまったき信頼をおいて行く人々なのです。人間的な力みや努力で、これを成し遂げてゆく人々のことではありません。神によって創造されていること、その神によって選ばれ続けていることに、主イエスとの出会いを通して、気づかされている人々のことであります。
わたしたちは、主イエスを信じ仰ぎ見ることによって、神の栄光に至る門を見出し、そこを通ることが出来るのです。主イエスが語られた“狭き門”がそれであり、それは、また詩篇24編で歌われる門のことです。「城門よ、頭をあげよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」主イエスの十字架を信じることによって、この栄光の門を見出し、主イエスと共にくぐり、永遠の救いの道に至りたいと願います。
ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストは大祭司・救い主として書き記します。しかしそれは、旧約聖書の大祭司の役割とは異なります。旧約の大祭司は献げ物を取り扱って神との“仲介役”に当ることに留まりますが、イエス・キリストは、献げ物そのものとなって、ご自身でご自身をささげられます。それによって、旧約聖書の理想的な大祭司メルキゼデクを越える者としてたたえられます。救い主キリストは、人としての大祭司を越えたまことの人となった神の子としての大祭司です。
世の罪によって主イエスは十字架に架けられます。しかしそれは、世の罪の神に対する勝利ではないのです。世の罪を救う(世の罪から人を救い出す)“神の勝利”なのです。この勝利が勝利とわかるのは、三日後の復活です。主イエスは、世の罪に打ち負かされるような救い主なる神ではない、“無敵の神”であることが、高らかに示されます。したがって、この神を信じ、キリストのもとに立つ者には、世の罪と戦う尽きることのない勇気が与えられます。
ヤコブの手紙は、『良い贈り物』は天の父ご自身である事を語りました。その事を通して、良き贈り物である主イエスを指し示されるのです。このことは、教会の人々に希望をもたらしました。 互いに主イエスを通して、信仰を固く保ち続けるためには、励まし合うことの重要性を知るのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」これがわたしたち神を信じる者の最後の拠り所です。いろいろな人生がありましょう。生き方がありましょう。泣きたくなること、やめたくなること、絶望の淵に落とされるような人生など様々でありましょう、しかしキリストの復活を信じる者は、そこで決して終わることはないということを知り得るのです。