神と争っている人は、自分と自分の人生を受け入れることができていません。神を恨んでいるからです。この自分を生み出した神のことを恨んでいるからです。そういう人は、周りにいつも戦争状態を引き起こしがちです。平和がないからです。自分を引き受けられてはじめて、わたしたちは平和を伝えられる者となれます。そのためには、わたしたちは、神の子としての身分、すなわち、神の創造物、神の作品であることを、取り戻さねばなりません。神の子に立ち帰る、あの放蕩息子が父のもとへ帰ったように、わたしたちも、父なる神のもとに立ち帰るとき、神の子としての身分を取り戻して、平和を実現する幸いな自分になれるのです。
“この世の”という文脈しか頭に無いピラトは“王”=支配者という言葉に拘ります。そして、主イエスに「とにかく王なのだな」という確認を迫ります。しかし主イエスは、それは「あなたがそう言っているのであって、わたしは一言も言っていない」私が言っているのは、「真理を証しするために来た」ということだけだ。あなたもそれを聞くのか聞かないのか、と問いかけるのでした。世の原理に振り回わされず、キリストの語る真理に耳を傾け、その真理に立つ勇気は、彼ピラトにはありませんでした。わたしたちがピラトから学ぶとすれば、この点でありましょう。世の言葉や原理に惑わされずに、キリストの語る真理に耳を傾ける勇気をもつことであります。
主イエスは、十字架に架かられることによって、一方的に関係性を切り離してゆく人間の愚かさや弱さや罪深さを癒し(赦し)、わたしたちとの関係性を保ってくださるのです。後に、ペトロは、そのことを知る時が来ます。そして彼もまた、主のために殉教する最期を迎える人生を選び取ってゆくのです。主イエスは、わたしたちの潔さや逞しさを見られる方ではありません。わたしたちが抱えている弱さ、やるせなさ、矛盾…そして何よりも罪深さに目を留めてくださり、「それでもよい。わたしを見なさい」と声をかけてくださる、深い愛をもったお方です。
神の前に立とうとするが立てないのがわたしたちなのです。主を否認したペトロですが、それでも彼は、火にあたってその場を立ち去ろうとはしません。主を否みながらも、なおも、主を信じようとする姿が、そこにはあります。神を信じることにおける、心の揺れと人間の脆さを、ペトロは示しています。そんなわたしたちを丸ごと救ってくださるのが主イエス・キリストです。
大祭司はすべて人間の中から選ばれました。彼は人間の罪の贖いのために犠牲の供え物をささげる務めに仕えていました。しかし大祭司も弱さをまとっている一人の人間でした。それゆえ、人を思いやることができたのです。そして、その弱い自分自身のためにも、罪の贖いの供え物をささげなければなりませんでした。それと同じように、いやそれ以上の方としてキリストも神によって選ばれ、人間を救う犠牲の供え物として自らをささげられ、永遠の救いの源となられました。
主イエスはペトロを諌めます。「剣は納めよ」と。もはや人間の力は必要ではなくなった。十字架の上の死という犠牲の愛だけが求められる時代に入るのだと主イエスはいわれているかのようです。そして、それは主イエスだけが“飲むべき苦い杯”でもあるのだと。主イエスのこの決意=覚悟の死によって救いの道が開かれていることを感謝しましょう。
教会で礼拝をささげるとき、わたしたちはその栄光に与り、救いの希望を確信します。主イエスは、わたしたちに、“御名”という救いに満ちた父の栄光を示し続けて下さいます。わたしたちは、その主イエスを、自分たちの中に招き入れて、ここから旅立ち、人生の歩みと生活の中で“愛の業”に生かされるとき、そのことによって益々、天上における救いの栄光を見ることが出来るのです。
ナザレのイエスとして、地上の歴史に現れなさった方を、「罪からの救い主」と信じ、この方によって、この方を通して、わたしたちの造り主である「父なる神」に結び合されて行く(神の子としての身分を取り戻して行く)ことにより、健やかな“生”(命の歩み)を取戻して行くのです。教会とキリスト者が存在する意味は、この真理(神の命に結び合されて=神の息を吹き込まれて生きる幸い)を示し続ける(証しし続ける)ことにあります。
異邦人である百人隊長は、一人の部下、息子の命を得る事を心から願います。彼はこの世の常識を振り返る事なく、主イエスの御前に身を投げ出したのです。「主よ」と救いを求める彼の執り成しの信仰は、主イエスに、『これほどの信仰』と喜ばれて、認められました。その時、彼の息子は、命を得たのです。
「キリストのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」とパウロは語ります。欲情や欲望にとらわれて枯れた骨のようになっていた罪深いわたしたちは、十字架のキリストによって、今一度、命の霊を注がれて“生き返った”のです。神を愛し、神に仕える健やかな生き方を取り戻したのです。神によって造られたわたしたちは、神に仕えるという使命にほんとうに生きるとき、健やかな人生に生きられるのです。