わたしたちの世界が、今、なぜ行き詰まっているのか。その原因にある罪の問題(愛のないこと、正しさが貫かれないこと 真実がかくされてしまうこと…)を聖書の真理はつまびらかにします。主の御名によって洗礼を受けた者は、その真理を帯びている者です。したがって、その真理によって、わたしたちは生きるように召されています。真理によって生きることは、聖なる者、つまり、罪ある世とは“分け隔てられた存在”として生きるようになることです。
御言葉を守り続けて行く人々とは、主イエスが、父なる神から遣わされたことにまったき信頼をおいて行く人々なのです。人間的な力みや努力で、これを成し遂げてゆく人々のことではありません。神によって創造されていること、その神によって選ばれ続けていることに、主イエスとの出会いを通して、気づかされている人々のことであります。
わたしたちは、主イエスを信じ仰ぎ見ることによって、神の栄光に至る門を見出し、そこを通ることが出来るのです。主イエスが語られた“狭き門”がそれであり、それは、また詩篇24編で歌われる門のことです。「城門よ、頭をあげよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」主イエスの十字架を信じることによって、この栄光の門を見出し、主イエスと共にくぐり、永遠の救いの道に至りたいと願います。
ヘブライ人への手紙は、イエス・キリストは大祭司・救い主として書き記します。しかしそれは、旧約聖書の大祭司の役割とは異なります。旧約の大祭司は献げ物を取り扱って神との“仲介役”に当ることに留まりますが、イエス・キリストは、献げ物そのものとなって、ご自身でご自身をささげられます。それによって、旧約聖書の理想的な大祭司メルキゼデクを越える者としてたたえられます。救い主キリストは、人としての大祭司を越えたまことの人となった神の子としての大祭司です。
世の罪によって主イエスは十字架に架けられます。しかしそれは、世の罪の神に対する勝利ではないのです。世の罪を救う(世の罪から人を救い出す)“神の勝利”なのです。この勝利が勝利とわかるのは、三日後の復活です。主イエスは、世の罪に打ち負かされるような救い主なる神ではない、“無敵の神”であることが、高らかに示されます。したがって、この神を信じ、キリストのもとに立つ者には、世の罪と戦う尽きることのない勇気が与えられます。
ヤコブの手紙は、『良い贈り物』は天の父ご自身である事を語りました。その事を通して、良き贈り物である主イエスを指し示されるのです。このことは、教会の人々に希望をもたらしました。 互いに主イエスを通して、信仰を固く保ち続けるためには、励まし合うことの重要性を知るのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」これがわたしたち神を信じる者の最後の拠り所です。いろいろな人生がありましょう。生き方がありましょう。泣きたくなること、やめたくなること、絶望の淵に落とされるような人生など様々でありましょう、しかしキリストの復活を信じる者は、そこで決して終わることはないということを知り得るのです。
弟子たちをはじめ、主を迎える人々は、自分の服を道に敷いて、歓声の声をあげました。人々は今こそ、あの奇跡を起こした主が王になられると喜び踊りました。天の平和と栄光を身に帯びた真の王の入城を喜びたたえたのです。しかし、これを非難する勢力がありました。「先生、お弟子たちを叱ってください」と。ファリサイ派が仰ぎ見る王とは、この世の輝きを身に帯びた王でした。この世の価値感から抜け出すことができない者は、真の平和の王を見損ないます。救い主を見ることはできません。
ユダヤ人にとってメルキゼデクは遠い存在でした。この祭司は理想化されていたからです。イメージされた完璧な大祭司になっていました。しかしキリストは、そのイメージを、ある意味凌駕する形で、遙かに乗り越えて、わたしたちの前に、真の大祭司を示されました。ヘブライ書の著者は、ほんとうにわたしたちの罪の弱さを贖い、天の救いを授ける真の大祭司を、語り示したかったのです。そして、それは、御子キリスト以外にはあり得ないというのが、彼の告白です。わたしたちが信じ、倣うべき信仰のまことの姿が、苦しみ悩む大祭司キリストの中にあるのです。
明日を切り開き、築いてゆくのは、わたしたちの在り方にかかっています。諦めれば、それまでです。「しかし神は」と向き直って、はじめの一歩を踏み出す時、わたしたちの事情は一変するのではないでしょうか。それを可能とするのは、希望の光です。「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る」これを告白できる人は幸いです。そして、力強く生きられます。わたしたち一人ひとりの命は、これは神が、ほんとうに丁寧に与え下さった一つひとつであります。でありますから、その命の光の源は、間違いなく神にあります。神には、わたしたちに授けた命の光を取り戻す用意がされています。