わたしたちに先だちキリストは御自身を献げられ、信仰の勝利を啓き示されました。キリストと共にわたしたちは生きるのであり、キリストと共に死ぬのです。耐え忍んだ後には、キリストと共に全てを支配し、永遠の命の世界に憩うのです。わたしたちが不誠実でもキリストは信じるに価する方です。キリストご自身、神の御心を拒むことは、決してなさらない方だからです。
伝道とは、悪霊に取りつかれている人々を解放し、神から離れてしまった人々を再び招き集めて、新しい神の共同体を建ててゆくことです。この働きを認めない者は聖霊の働きを認めない者となります。聖霊の働きとは、神に対する罪を犯し、悪しき霊に取りつかれている者を、そこから解き放ち、赦すと宣言する御業です。この御業は人の思いで実現しません。十字架の主、復活の主とこの方に起こった出来事を信じる“たしかさ”から実現します。そのときはじめて神の国が、そこここに築かれます。受難節(レント)はその力をたしかにする季節です。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。神から誘惑されていると思い違いをして嘆くのではなく、神に素直になる時、私たちを愛を持って訓練して下さっていることがわかります。キリスト・イエスの御名を愛する者を、父なる神もまた、間違いなく愛してくださるからです。
十字架の死、三日後の復活、そして昇天、このことを通して、わたしたちにも、神に至る道が開かれるのです。主イエスキリストの御名と信じる者には、この方の御名を通して、あらゆることを神に願うことが可能となるからです。なぜならば、御子キリスト・イエスの御名を愛する者を、父なる神もまた、間違いなく愛してくださるからです
主イエスはいわれます。「人生には、いつも答えられない問いがあり、解くことのできない謎が満ちている。しかし結局のところ、世にあっては、見て確かめて生きるのではなく、信仰によって歩まねばならない」と。わたしたちがなすべきことは、救い主キリストを通して、神との関係を常に見失わないようにしておくことではないでしょうか。神にはいつでも何でも問うことができる、何でも願い求めることができる、という安堵感の中に生かされる、ということが大切です。それは、とりもなおさず、礼拝を中心とした信仰生活を整えてゆく中で得られるものです。神の霊に満たされ、導かれる生き方を志すとき与えられます。
真理の霊は、ただひたすら、主イエスが語った事柄、伝えた事柄、行った事柄について、啓き示すだけです。主イエスから託されたものを、世の終わりに至るまで告げ続けてゆく霊です。そのことによって、わたしたちは、自分のことについて、世界のことについて、神が、そこに込められている真理を知りなお将来へと向かってゆくのでありましょう。
わたしたち、実に、支配欲(支配したい気持ち)が強い存在です。多くの罪は、その思いが遂げられないところから発生しています。自らの誤った支配欲が裁かれ、神に治めていただくということがなければ、わたしたちに救いはありません。主イエスは、十字架に架かられた後、復活され、天に戻られました。聖霊となって、わたしたちのもとへ来られて、今も、わたしたちの罪を明らかにし、神の義を宣言され、真実な裁きを行い、わたしたちをまことの救いへと導いてくださっています。
十字架は“スキャンダリオン”です。スキャンダルの原語です。それは“つまずき”を意味します。多くの人々にとって、“つまずき”となった十字架は、イエスを救い主と信じる者において何ものにも変え難い救いのしるしです。主イエスは迫害の警告をされます。しかし、その時には、十字架のわたしの姿を思い起こしなさいと語られます。そこに、神の救いがあり、あながたの罪を覆う“聖なる配慮”が啓き示されている、と語られます。
人間的な希望から喜んだり、感謝したりするのではなく、神から来る希望によって喜び、感謝することの勧めです。厳しくも労苦の多い人生の荒波の中にあっても、キリストによる救いの希望をもって生きられる人は、感謝と喜びに満たされて、キリストを証しし続けることが出来ます。それは、いうまでもなく、礼拝によって養われます。この礼拝で、真理の霊なるキリストに出会って、生きる希望と喜びに包まれ感謝をもって歩みだしてゆくのです。
十字架に架けるのは、あたかも、キリストが来られていないかのように生きているわたしたちなのです。キリストが来られたからには、もはやわたしたちは“言い逃れる”ことができません。神から離れている罪の現実に目を背けることなく、罪を認めて悔い改めて、罪の赦しを祈り求めてゆく他にありません。