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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2022年01月30日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 16章1節〜4a節「信仰のスキャンダル」 道家紀一牧師

十字架は“スキャンダリオン”です。スキャンダルの原語です。それは“つまずき”を意味します。多くの人々にとって、“つまずき”となった十字架は、イエスを救い主と信じる者において何ものにも変え難い救いのしるしです。主イエスは迫害の警告をされます。しかし、その時には、十字架のわたしの姿を思い起こしなさいと語られます。そこに、神の救いがあり、あながたの罪を覆う“聖なる配慮”が啓き示されている、と語られます。

2022年01月23日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 15章26節〜27節「生きる希望と喜び」 道家紀一牧師

人間的な希望から喜んだり、感謝したりするのではなく、神から来る希望によって喜び、感謝することの勧めです。厳しくも労苦の多い人生の荒波の中にあっても、キリストによる救いの希望をもって生きられる人は、感謝と喜びに満たされて、キリストを証しし続けることが出来ます。それは、いうまでもなく、礼拝によって養われます。この礼拝で、真理の霊なるキリストに出会って、生きる希望と喜びに包まれ感謝をもって歩みだしてゆくのです。

2022年01月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 15章22節〜25節「キリストが来られたからには」 道家紀一牧師

十字架に架けるのは、あたかも、キリストが来られていないかのように生きているわたしたちなのです。キリストが来られたからには、もはやわたしたちは“言い逃れる”ことができません。神から離れている罪の現実に目を背けることなく、罪を認めて悔い改めて、罪の赦しを祈り求めてゆく他にありません。

2022年01月09日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 2章10節〜13節「救いの創始者」 平澤基幸牧師

わたしたちの「救いの創始者」である主イエスは、(神の子である)わたしたちを救いの栄光へと導くために“数々の苦しみ”を通して「完全なもの」となってくださいました。このことは、万物の目標であり源である方(主なる神)にとっては相応しいことでありました。すなわち神のご計画でありました。キリストはまことの人として、わたしたち兄弟姉妹の先頭に立って、神への信頼を示してくださいました。それは、十字架の極みまでも続く神への揺るぎない信頼でした。

2022年01月02日(新年:栄光祭礼拝)詩編 92章2節〜16節「神に庭に植えられた人生」 道家紀一牧師

神を信じる人は、高さが30メートル以上になるナツメヤシや、樹齢千年にも及ぶレバノン杉のようにパレスチナの荒れ野にあって力強く立ち続ける木です。「主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正はない」と。どんなに激しい人生を送ろうとも、神の庭に茂っている限り、神を信じて、生き生きと最後まで生きることができます。

2021年12月26日(年末感謝礼拝)ヤコブの手紙 1章9節〜11節「貧しい者と富んでいる者」 永瀬よしこ牧師

ヤコブは「貧しい者と富んでいる者」を、立場を逆転して描きました。貧しい人々には、神より“恵み”として与えられ高められていると言うのです。ヤコブは、この世での幸福感とは、異なる幸福感について、思いを巡らすのです。この世で、報われることのない貧しい人々は、神の来るべき日に、恵みを受ける約束があると励ますのです。

2021年12月19日(降誕祭主日礼拝:日本伝道の推進を祈る日)マタイによる福音書 2章9節〜12節「もう一つの道:救いの道」 道家紀一牧師

わたしたちも今朝東の国の学者らのように、幼子キリストを伏し拝みました。ということは、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けたのです。再び世の暗き世界に帰ってゆくのでありますが、しかしそこには、もう一つの“別の道”が用意されています。救いの星を見上げて歩む、“たしかな道”=“救いの道”であります。

2021年12月12日(待降節第三礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜8節「見間違うことなく」 道家紀一牧師

学者たちはベツレヘムへと向かいます。ユダヤ人が信じていない救い主を知る道を、彼らは信じて歩んでゆくのです。救い主誕生は、間近に迫っています。最後の一週間、救い主誕生→救いの道を、もう一度、見間違うことなく、歩んでまいりましょう。

2021年12月05日(待降節第二礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「救いに必要不可欠なこと」 道家紀一牧師

インマヌエルの神を信じるとは、わたしたちのことを、どこまでも追いかけて来てくださる方がいることを確信することです。これほどの恵はありません。眠りから覚めたヨセフは、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎え入れます。そして、神の命じるままに、自分の子として受け入れ、名をイエスと名付けたのでした。神の救いとは、思いのままにならない目の前の事柄を受け入れ、健やかに一人立ち、潔く生きてゆくことです。その救いが生まれるまで、神が主語となる祈りを、わたしたちはやめてはなりません。

2021年11月28日(待降節第一礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「救い主に至る系図」 道家紀一牧師

アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロンへの移住までが十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代、合わせて四十代となります。1000年以上の時を経て、神はキリストを遣わすご決断に至っておられるのです。神はわたしたち人間が、神の許へ帰って来ることを待って待って、なお待ち続けて、それでも裏切られ、最後には御子キリストを遣わされたのです。わたしたちの救いには、これほどに長い神の忍耐があるのです。アドヴェント(待降節)の意味を、今一度深く思いつつ過ごしましょう。