わたしたちも今朝東の国の学者らのように、幼子キリストを伏し拝みました。ということは、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けたのです。再び世の暗き世界に帰ってゆくのでありますが、しかしそこには、もう一つの“別の道”が用意されています。救いの星を見上げて歩む、“たしかな道”=“救いの道”であります。
学者たちはベツレヘムへと向かいます。ユダヤ人が信じていない救い主を知る道を、彼らは信じて歩んでゆくのです。救い主誕生は、間近に迫っています。最後の一週間、救い主誕生→救いの道を、もう一度、見間違うことなく、歩んでまいりましょう。
インマヌエルの神を信じるとは、わたしたちのことを、どこまでも追いかけて来てくださる方がいることを確信することです。これほどの恵はありません。眠りから覚めたヨセフは、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎え入れます。そして、神の命じるままに、自分の子として受け入れ、名をイエスと名付けたのでした。神の救いとは、思いのままにならない目の前の事柄を受け入れ、健やかに一人立ち、潔く生きてゆくことです。その救いが生まれるまで、神が主語となる祈りを、わたしたちはやめてはなりません。
アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロンへの移住までが十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代、合わせて四十代となります。1000年以上の時を経て、神はキリストを遣わすご決断に至っておられるのです。神はわたしたち人間が、神の許へ帰って来ることを待って待って、なお待ち続けて、それでも裏切られ、最後には御子キリストを遣わされたのです。わたしたちの救いには、これほどに長い神の忍耐があるのです。アドヴェント(待降節)の意味を、今一度深く思いつつ過ごしましょう。
ヘブライ人への手紙は、各地へ散らされたユダヤ人が改宗してキリスト者になった人々に向けて語った手紙といわれます。しかし、ときは未だキリスト教の迫害の時代でした。手紙の著者は、人々に向かって語ります。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標である方に、ふさわしいことであったからです」と。一人でも多くの人を救いに至らせるため神は御子キリストをおくられたのです。
キリストを信じることは、世と向きあうことになります。また、それだけでなく、世と戦い抜くことができず、かえって世に巻き取られてゆく自らの罪とも向きあうことになります。“キリストの名ゆえに”受ける迫害です。しかし、キリストにある教会は、休むことなく礼拝をささげ続けることによって、迫害と戦い続け勝利して来ました。教会がなくならない、いやそれどころか今も世界中に教会は増え続けているという歴史の事実が、その勝利を証明しています。
教会の長い歴史において、先に死なれ、今は深い眠りに就いておられる方々は、みな最後の裁きのときキリストの弁護を受ける権利を得ている方々=聖徒と呼ばれる方々です。今ここに生きるわたしたちもまた、キリストの救いの御恵を信じて、その弁護を受けられることを確信し、与えられた生涯を精一杯生きて行きたいと願います。
「信仰と知恵」について神は、信じて祈る信徒に、その時に応じて、神の知恵を授けてくださいます。そしてその知恵を祈り求めることです。ですから、全てを可能とされる神なる主イエスにたより、良き知恵を与えて下さるよう祈り求めることこそ、信徒の正しい信仰生活の姿なのです。また、ヤコブは、この書簡を書くにあたり、教会全体に向けて書いています。互いに主を救い主として告白する私たちは、互いのために執りなしの祈りをし、集い礼拝を捧げるのです。
主イエスが、なにゆえに、わたしたちを選び続けてくださっているのか、それは、わたしたちの信仰の実現のためだけではありません。一人ひとりの信仰が実現されるということのその先には、互いが互いに愛し合うという、神が創造のときから願われ続けておられる、神の国の実現があります。そのために、わたしたちは選ばれているのです。
掟(教え)と愛は表裏一体です。矛盾しません。愛する者は、愛する対象の教えに喜んで従おうとするからです。それがもっとも幸いな人生を歩むことを知っているからです。命を注ぎだし、わたしたちを愛してくださったキリストの愛と教えの中に留まり続けることを可能とするのは、神とキリストへの真摯な祈りです。多忙な日々の中においてこそ、祈りの時間を、ほんの数分でも“割く”(分け隔てる)こと、そこからすべては変わります。