「信仰と知恵」について神は、信じて祈る信徒に、その時に応じて、神の知恵を授けてくださいます。そしてその知恵を祈り求めることです。ですから、全てを可能とされる神なる主イエスにたより、良き知恵を与えて下さるよう祈り求めることこそ、信徒の正しい信仰生活の姿なのです。また、ヤコブは、この書簡を書くにあたり、教会全体に向けて書いています。互いに主を救い主として告白する私たちは、互いのために執りなしの祈りをし、集い礼拝を捧げるのです。
主イエスが、なにゆえに、わたしたちを選び続けてくださっているのか、それは、わたしたちの信仰の実現のためだけではありません。一人ひとりの信仰が実現されるということのその先には、互いが互いに愛し合うという、神が創造のときから願われ続けておられる、神の国の実現があります。そのために、わたしたちは選ばれているのです。
掟(教え)と愛は表裏一体です。矛盾しません。愛する者は、愛する対象の教えに喜んで従おうとするからです。それがもっとも幸いな人生を歩むことを知っているからです。命を注ぎだし、わたしたちを愛してくださったキリストの愛と教えの中に留まり続けることを可能とするのは、神とキリストへの真摯な祈りです。多忙な日々の中においてこそ、祈りの時間を、ほんの数分でも“割く”(分け隔てる)こと、そこからすべては変わります。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」伝道者の誕生、主の証し人の誕生です。彼らは舟を陸に引き上げすべてを捨ててイエスに従います。ここにあるのは、主に招かれた3人です。彼らは、「捨てて、拾う人生に変えられた3人です」。キリストに出会うとは、そこから、キリスト告白に導かれ、自分の人生を脇へ置く(捨てる)のです。そして、新しく、神に仕える、神に随う人生に必要なものを、改めて、一つひとつ拾ってゆくのです。その一人ひとりの証しのある生き方が、伝道となり、教会を造って行きます。
聖餐式で、わたしたちは、罪赦された者として、生きる希望を確信します。“自信”と“確信”は違います。信仰は自分が信じるという“自信”に基づくものではないからです。主が、その命をかけて信じさせてくださるという“確信”(=信仰のたしかさ)に基づくものだからです。人生にとって必要なものは沢山あります。しかし、同時に必要なものは、“赦しのたしかさ”です。「赦せない罪と過ち」「赦されない罪と過ち」に嘆き続けている人は多いのです。それをどのように扱えばよいのか。その術は聖餐式にあります。
ヘブライ人への手紙の著者は、ユダヤ人から(ユダヤ教から)キリスト教への改宗者に向かって語ります。神は、天使をはじめ様々な仕方で、御言葉を語り聞かせて来ました。しるしや不思議な業、様々な奇跡…しかしそれらは皆神の創造物(被造物)であって、神そのものではありません。しかし今や神は、「大いなる救い」御子イエス・キリストを通して、御言葉を証しされました。これほど大きな救いに無頓着であってはなりません。神は、聖霊の賜物によって、この救いをわたしたちへ証ししてくださっています。
神はイスラエルを、不必要な役に立たない、望みのない枝として、切り捨てられたでしょうか。最後のところで、御子キリストを遣わして、思いを飲み込まれたのではないでしょうか。神のこのご決断は、今日まで続いています。キリストにつながってならないような人はひとりもいません。つながったその後に、「実を結ぶ枝、結ばない枝」のイニシアチブは、完全に神の御手の中にあります。わたしたちにできることは、“キリストに結ばれて生きる幸い”に生き続けようとする以外にないのではないでしょうか。
信仰の実を結ぶ結ばないとは、最終的には人間が判断できるようなことではありません。「あの人の信仰は実を結んでいる」とか「あの人は結んでいない」などということはわたしたちには出来ないこと、してはいけないことでありましょう。それは神がお決めになることです。ですから、神による枝払い(刈り込み)をいたずらに恐れるのではなく、どんなことがあろうとも“主イエスにつながってゆこう”と思う気持ちを大切にすることです。
目の前の現実を受け止める根源的な力は、主なる神です。最後はみな、裁きの御座に着かせられます。終わりの日、わたしたちは、どのような生き方をしようとも、そこで神の前に立つのです。主は言われます。「わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と。最後の最後には、神の御前に伏すことになり、自分の来し方について申し開きをしなければなりません。これが生きる謙虚さにつながり、ひいては、他人の事柄について、軽率な言動を控えることにもなりましょう。
主イエスの決別説教は終わります。世の支配者が来るときが来たからです。世の悪しき力によって、主イエスは亡き者にされようとしていますが、彼らは、決して主イエスの全てを奪うことはできません。彼らが亡き者にしたと思ったその瞬間に、主イエスは“神の栄光を受ける”からです。ルターはいいました。「主の十字架の恥辱の中に神の栄光がある」と。キリストを信じる弟子たちが、“もうこれまで”と思ったそのときに、そこから、神の栄光の輝きが始まるのです。キリスト共に、さあ、世に出掛けて行きましょう。