死人の中から主イエスをよみがえらせるという御業に出会ったとき、多くの人が、この婦人たちのように恐れをおぼえるのは当然のことでありましょう。しかし復活の主に出会い続けることによって、次第に恐れは取り除かれ、罪の石も取り除かれ、キリストの復活の命の中で生きるようになってゆきます。復活の主イエスに出会う場とは、教会という、キリストの命が充ち満ちている場所であります。ここで、主に出会い健やかに生かされて行くのです。
わたしたちの最大の罪は自分が支配者になろうとすることです。自分の人生も他者の人生も、世界も、自分の思いのままに進めようとすることです。そこに大きな過ちと罪があります。棕櫚の日は十字架と復活によって、わたしたちを罪から救い出してくださるキリストを、まことの王として、わたしたちの支配者として、お迎えする日です。エルサレムへ入られた主は、神殿をご覧になった後、ベタニアへ戻られます。最後の一週間が始まります。
わたしたちの多くは、目の前に起こっている事実から、神の深いご計画とそこに込められている神の栄光の輝きを見出すことが出来ていません。主イエスの十字架の死と三日後の復活という神の栄光の道筋は、そのことを見出す“指標”です。罪があるかぎり、悲惨な出来事が起こります。しかし、間違いなくそこでこそ十字架の主がおられます。そして、三日後に復活なさったように、その仕方をもって、悲惨さを取り除いてくださり、真の栄光の輝きに包んでくださいます。そのために、御子キリストの声に聴き続けてゆくのです。
今の世の中は問題だらけです。策を弄しても解決できません。どうしたらよいのか、人の知恵では分かりません。また、神様の思いは、人の思いをはるかに超えています。神様が、何と、人となり、最低、最悪になられました。キリストの十字架です。人は、十字架の言葉を知る必要があります。自分は本当は愚かなのだ。それを知る必要があります。下から支えられていることを知る必要があります。こうして、人が、命を得るために。私たち教会の者は宣教に遣わされています。「宣教という愚かな手段」に遣わされています。
わたしたちが慎まなければならないことがあります。神を越えて行く信仰です。それが起こるのは、往々にして、自分に強い願いがあるときです。納得できないとき、あるいは事前に納得させたいとき、神の前に出るという愚かで罪深い行為に陥ります。今、ときはレント(受難節)です。神は、御子キリストを十字架に架けられる、というのが、神が、わたしたちを救う道筋です。このことがあることを学び知り、進むべき信仰の道を正されたいと願います。
赦しの恵みがあることを否定する者=赦しを認めようとしない者は、永遠に赦されず、罪の責めを負い続けることになると主は語られます。聖霊とは、今も働く、赦しの神=イエス・キリストの圧倒的な恵みそのものです。このことを信じない者は、永遠の刑罰=神から見放されて、罪と弱さをおぼえ続ける生涯を、また死んだ後も、送ることになるのです。ときに神を信じられなくなってもよい、キリストがわからなくなってもよい、しかしただひたすらに、「赦しの恵みがあることだけは信じなさい」と、主イエスは語られるのです。
神は語られます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。この御声にわたしたちは聞くべきです。あなたとは、イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、第一には、天の父なる神の愛する御子であると語られます。その愛する御子=神が大切にしても仕切れない御子は、また、わたしの心=善をなそうとしてかえって悪をなすような“どうしようもない罪”の問題を解決するという志をもっともよく理解し受け入れてくださる者であると。この御子キリストを信じ、これに聞き、これに従えと神は語ります。
世の中の悲惨な現実は、神の裁きそのものではもちろんありません。そんなことをいうことは被災された方々に対する“驕り”であり、赦されることではありません。ただ、わたしたちは、この悲惨さの中に、一人ひとりが神の裁きを見る“契機”としなければと思っています。この悲惨な現実の中に、あの十字架のキリストが横たわっておられる。しかし、そのキリストはまた“復活の主”である、ということを信じたいと願います。「主は裁き、主は救われる」という真理を、みさせていただきたいと祈りましょう。
神を信じる=キリストを信じるとは、ときに世と人々との間に“軋轢”と“衝突”を生むことがあり得ましょう。しかしそれは、神の救いの恵みが、(さらにいうならば)神の真理が“貫かれる瞬間(とき)”なのではないでしょうか。そのために、御子キリストは十字架に架かって死なれました。そして復活されました。この恵みの出来事をひたすらに信じ、神の栄光に(誉れに)与る道を求めることが大切です。主イエスを信じたいと思った多くのユダヤ人は人目をおそれて主イエスを「救い主(キリスト)」と認めることは出来ませんでした。
主イエスは言われます。「光を信じて、光のあるうちに歩きなさい」と。わたしたちを取り巻く世は、神から御覧になれば暗闇の部分を多く抱えています。わたしたちの生活と人生は、その暗闇に追い回されているかのように過ぎ去ります。そして、多くの人が虚しい死を迎えます。しかしそうであるからこそ、主イエスはいわれます。「光のあるうちに、光を信じなさい」と。キリストが示される“そのとき”に、信じて、委ねる決心をすることです。“そのときでない”といっている内に、キリストは十字架に上げられていなくなってしまわれます。