兄弟ラザロを死からよみがえらせた主イエスの名声は今や鰻のぼりでした。しかしそれによって、ユダヤの宗教指導者層は一つとなって主イエスに対します。 その中心に大祭司カイアファがいました。彼は事もあろうにいいます。「一人の 人が死ぬことによって全ての国民が救われる」と。カイアファがキリスト教で 言う「贖罪論」を語ったとは思えません。その証拠にその後「キリストの殺害」 を企てて行きます。神はカイアファを用いて、救いの計画を進めて行かれます。 それは理解できないことですが、世の不条理を解くカギがそこにあります。
ラザロの死からのよみがえりは、まったくもって希望が消え失せてしまったような現実のただなかで、わたしたちの主イエスが違いなく立っておられることのしるしです。人間の悲惨さの中に、悲しみの中に、そして、人間の罪の現実の中に、十字架の主は、わたしたちと共に涙しながら立ち続けておられます。 そこから主は、わたしたちを立ち上がらせてくださいます。「信じなさい。神の栄光はここにある」といわれて。主イエスのこの姿を信じる者は、死という人間の弱さと罪の限界を越えた彼方から来る希望に生きられるようになります。
詩編90 編はダビデの作といわれています。この詩人は、人の死について明確な 答えを持っています。「人の罪に神が怒られて裁かれる」からだと。神の似姿として創造されたにもかかわらず、人は罪を犯し、永遠の命を失いました。それが死だと語ります。しかし詩人は、そこで終わることはありません。神に願います。「己が人生を数えさせてください」と。しかしこれもかないません。最後に詩人は、希望をうたいます。「その日、神が顧みてくださるように」と。信じて委ねて命を全うしてゆきます。キリストはこの信仰を保証してくださいます。
ラザロの死を悲しむマルタとマリア、そして、彼女らを取り巻く人々を前にして、キリストは涙されますが、その前に、例えようもない怒りを発せられます。この怒りの意味は、言語的にも解釈できないような表現です。単なる怒りでもありません。憤懣やるかたないという意味でもありません。主は心の底から言いようのない怒りにとらわれて、激しく憤られたのです。その怒りは涙になります。死をもって何もかも終わるしかない人間の“限界”に涙されたのです。この涙は十字架の涙に繋がります。復活は涙から喜びへの転換です。
「死をもって何もかもが終わる」それが、わたしたちの常識です。しかし主なる神キリストは、その常識を破る言葉を語られます。「死んでも生きる」と。死という誰一人乗り越えられない壁を打ち破る言葉です。ラザロの死は、人間が乗り越えられない壁を表しています。主なる神キリストは、その限界を超えて行かれます。死をもってすべてが終わることはない。否、死んでからが真の人生だと言わんばかりです。わたしたちは「終末的に生きます」それは希望のない人生ではなく、神と共に生きる希望にあふれた人生を歩むことです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」こうして、わたしたちは罪と死から解放されました。わたしたちの思いをキリストの思いと一つにしましょう。そして、わたしたちを御心のままに望ませ、行わせて頂きましょう。
ラザロの死は、主イエスにとって、神の栄光の力を垣間見せる“絶好のチャンス”でした。神は、死人をよみがえらせる栄光の神であると。“ラザロは死んだ”という絶望の中から神は復活の希望を語られます。何もかも尽き果てるとき、神の栄光が鮮やかに輝き出すときとなると。そのときをそうと捉える(受け止める)ことが出来るかどうかに、わたしたちの信仰=キリスト教信仰のすべてはかかっていないでしょうか。「一緒に死のうではないか」と、トマスの愚かさに生きることであるともいえます。そのとき、神の救いの世界へ扉が開きます。
「一緒に死のうではないか」と、主イエスの弟子トマスは愚かとも思える言葉を語りました。しかしそれは、主イエスに対する素朴な信頼からしか出て来ない言葉です。死に至る病で伏せっているラザロを前にして、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と語られます。地上の死をもって全てが終わってしまう、というわたしたちの世界観を打ち破る神の言葉です。時間制限のない永遠の主の栄光について主イエスは語られます。そのしるしとして、主イエスはラザロを死の眠りから呼び覚まされるのです。
1+1=2というのがわたしたちの世界です。物事にはある決まった法則があって、それが原理となって、様々な事象は起こっていると。ところが、世界には必ずしも1+1=2とはならない事柄があります。それを計算外、または想定外といって来ました。あるいは“不可思議”という言葉で片づけて来ました。信仰の世界は、まさにそのような事柄の連続です。格別、主イエスが語られ、実際に行われた世界は、1+1=2ではない世界です。父と子は一つである、という聖なる事実が、1+1=2ではない神の世界を造り出すのです。
主イエスは、神の牧草を食べるための“門”です。昔イスラエルでは、囲いの一か所が開いており、そこに羊飼いが寝そべって門のような働きをしていたようです。主イエスはそれを譬えています。羊が勝手に囲いの外に出ようとするならば捕まえます。入ろうとするなら入れてあげます。神の国への救いの扉のような働きを、主イエスはなさるのです。神さまをなんとなく知っているだけでは不十分です。キリストという救いの門を通らなければ、神の永遠なる牧草地にはたどり着けません。救いの扉は、イエス・キリストだけです。