「一緒に死のうではないか」と、主イエスの弟子トマスは愚かとも思える言葉を語りました。しかしそれは、主イエスに対する素朴な信頼からしか出て来ない言葉です。死に至る病で伏せっているラザロを前にして、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と語られます。地上の死をもって全てが終わってしまう、というわたしたちの世界観を打ち破る神の言葉です。時間制限のない永遠の主の栄光について主イエスは語られます。そのしるしとして、主イエスはラザロを死の眠りから呼び覚まされるのです。
1+1=2というのがわたしたちの世界です。物事にはある決まった法則があって、それが原理となって、様々な事象は起こっていると。ところが、世界には必ずしも1+1=2とはならない事柄があります。それを計算外、または想定外といって来ました。あるいは“不可思議”という言葉で片づけて来ました。信仰の世界は、まさにそのような事柄の連続です。格別、主イエスが語られ、実際に行われた世界は、1+1=2ではない世界です。父と子は一つである、という聖なる事実が、1+1=2ではない神の世界を造り出すのです。
主イエスは、神の牧草を食べるための“門”です。昔イスラエルでは、囲いの一か所が開いており、そこに羊飼いが寝そべって門のような働きをしていたようです。主イエスはそれを譬えています。羊が勝手に囲いの外に出ようとするならば捕まえます。入ろうとするなら入れてあげます。神の国への救いの扉のような働きを、主イエスはなさるのです。神さまをなんとなく知っているだけでは不十分です。キリストという救いの門を通らなければ、神の永遠なる牧草地にはたどり着けません。救いの扉は、イエス・キリストだけです。
聖書の中でも最も有名な話の一つです。「羊飼いと羊のたとえ」です。主イエスがわたしたち羊の良い羊飼いである、というたとえです。しかしよく読みますと、なかなか難しいたとえでもあります。羊の囲いとは何か、囲いの門を通って外に出て行くのは何をたとえているのか、門番とは誰か…イメージを膨らませるとかえって分からなくなります。ただ一つだけはっきりしていることは、真の羊飼いである主イエスの御声を聴くことによって、わたしたちは神の牧草にありつけて、健やかな日常と人生を歩み出せるのだ、ということです。
キリスト教は愛の宗教であるとともに言葉の宗教ともいわれます。それゆえに、しばしば「聖書を読む」あるいは、「聖書を学ぶ」と言う姿勢が大事にされます。しかしそれと同時に、わたしたちは「礼拝する」という聖なる跪きを忘れてはなりません。主イエスはいわれます。「見える」と言い張るそこに罪があるのだと。キリスト教は解る宗教ではなく、信じる宗教です。「そうなんだ」と納得する宗教ではなく、「信じます」と告白する宗教です。生まれつき目が見えなかった人は、救われた恵みの事実の前に、「信じます」と告白する他なかったのです。
神が起こされる事実(奇跡)に出会った人は、この世の諸々の勢力に対する恐れがなくなります。主イエスに目を開けていただいた“彼”は、もはやユダヤ当局(神殿祭司 律法学者 ファリサイ派)の追求に、真実しか答えなくなりました。どんなにユダヤ当局者たちが罠を仕掛けようが、彼は陥れられません。「あの方はわたしの目を開けてくださいました」彼は彼に起った真実だけを語ります。それ以外に語ることはないからです。神の真実に出会った者はいたずらな飾りはしません。自分が味わった真実な恵みのみを証しするのみです。
キリスト教は今でこそ世界宗教の一つですが、その原初は、迫害の歴史です。ヨハネ福音書はその事情も反映しています。目の見えない人が癒された出来事を通して、「イエスは救い主キリスト」と“告白する”苦闘の様子が、登場人物の姿を通して映し出されています。信仰告白をすることは容易いことではないのです。今日、教会は、この歴史を忘れています。癒された者の両親はユダヤ人の圧力(迫害)の中で精いっぱいの告白をしました。「後は息子に聞いてください」これは逃げの姿勢ではなく、神に全てを委ねた両親の信仰と思います。
日本のキリスト者の人口はわずか1%です。100万人程度です。日曜日の朝に、礼拝をささげているのは1%の奇跡と言えましょう。しかしこの1%の奇跡に意味があります。奇跡とはとてつもないことが起こることではありません。ある人は「生まれただけで奇跡だ」とも言っています。日常の風景の中に奇跡はあります。わたしたちの世界は神から離れた罪の世界です。しかし、そこから救われて礼拝をささげる者とされていることが奇跡です。この盲人のように、罪ある世間に負けることなく告白出来ること、それが一つの奇跡です。
生れながらに目の不自由な人がいました。本人はもとより両親はそのことで、随分と辛い思いをさせられていました。当時のユダヤ社会では、障がいは本人または両親の罪が理由とされていたからです。しかし主イエスは驚くべき答えをされます。「神の栄光がその人に輝くためである」と。聖書の信仰の急所です。見栄えの良いもの、多くの人が認めるもの、地上において輝くものの中に神の栄光は輝くと思う人間の誤った信仰を、主イエスは打ち砕きます。十字架の主は最も惨めな姿です。しかしその惨めさの中に神の救いの栄光は輝いています。
教会が信じている神=イエス・キリストは、罪のないまことの人でありますが、この方は完成された人間ではありません。天地創造の前から永遠なる世界にて存在されておられた方=主なる神その方です。ナザレのイエスとは、天の世界に“ある”神なる方が、地上で肉の姿をとられた方です。主イエスの言葉は、天の父なる神の言葉であり、主イエスの行いは天の父なる神のなさりようです。それが理解できないのは、諸々の悪しき勢力に捕らわれているからです。主・イエスは命を投げ打って、その悪しき勢力を滅ぼし、命を注いでくださいます。