神を知っているユダヤ人も、神を知らなかったギリシア人(異邦人)にも同じ主が臨んでくださり救いに与ることが出来ます。そのことを信じるためには、「口でイエスは主であると公に言表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことが大切です。教会は「イエスは主であり救い主」との告白による共同体です。同じ一つの主を信じる群れです。ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、誰でも、教会へ来て、告白に同意するなら救われます。
パウロは語ります。「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができます」と。聖書の言葉を神からの恵みの言葉として受け取ることが出来たとき、その言葉に聞き続けるわたしたちとその人生は、思いもよらない“完成”へと導かれます。神の言葉である聖書がキリストに捕らえられた豊かで確信に満ちた人生を造り上げます。それを可能とするために聖書の言葉に聴き続けてゆくのです。
人は神によって心開かれて、信仰の目が開けたとき、心から信じて主の言葉を救いの真理として受け取ることが出来ます。エマオへの途上で主に出会った二人は、食事の席で主イエスがパンを裂かれたとき、信仰の目が開かれて、主の言葉を想い起こし、紛れもなく救いの言葉であることを燃える思いをもって受け取ります。礼拝(格別聖餐式)において、御言葉に聞くとき、わたしたちの心の目は開かれて、燃えるような思いをもって、救いに導かれるのです。
死人の中から主イエスをよみがえらせるという御業に出会ったとき、多くの人が、この婦人たちのように恐れをおぼえるのは当然のことでありましょう。しかし復活の主に出会い続けることによって、次第に恐れは取り除かれ、罪の石も取り除かれ、キリストの復活の命の中で生きるようになってゆきます。復活の主イエスに出会う場とは、教会という、キリストの命が充ち満ちている場所であります。ここで、主に出会い健やかに生かされて行くのです。
わたしたちの最大の罪は自分が支配者になろうとすることです。自分の人生も他者の人生も、世界も、自分の思いのままに進めようとすることです。そこに大きな過ちと罪があります。棕櫚の日は十字架と復活によって、わたしたちを罪から救い出してくださるキリストを、まことの王として、わたしたちの支配者として、お迎えする日です。エルサレムへ入られた主は、神殿をご覧になった後、ベタニアへ戻られます。最後の一週間が始まります。
わたしたちの多くは、目の前に起こっている事実から、神の深いご計画とそこに込められている神の栄光の輝きを見出すことが出来ていません。主イエスの十字架の死と三日後の復活という神の栄光の道筋は、そのことを見出す“指標”です。罪があるかぎり、悲惨な出来事が起こります。しかし、間違いなくそこでこそ十字架の主がおられます。そして、三日後に復活なさったように、その仕方をもって、悲惨さを取り除いてくださり、真の栄光の輝きに包んでくださいます。そのために、御子キリストの声に聴き続けてゆくのです。
今の世の中は問題だらけです。策を弄しても解決できません。どうしたらよいのか、人の知恵では分かりません。また、神様の思いは、人の思いをはるかに超えています。神様が、何と、人となり、最低、最悪になられました。キリストの十字架です。人は、十字架の言葉を知る必要があります。自分は本当は愚かなのだ。それを知る必要があります。下から支えられていることを知る必要があります。こうして、人が、命を得るために。私たち教会の者は宣教に遣わされています。「宣教という愚かな手段」に遣わされています。
わたしたちが慎まなければならないことがあります。神を越えて行く信仰です。それが起こるのは、往々にして、自分に強い願いがあるときです。納得できないとき、あるいは事前に納得させたいとき、神の前に出るという愚かで罪深い行為に陥ります。今、ときはレント(受難節)です。神は、御子キリストを十字架に架けられる、というのが、神が、わたしたちを救う道筋です。このことがあることを学び知り、進むべき信仰の道を正されたいと願います。
赦しの恵みがあることを否定する者=赦しを認めようとしない者は、永遠に赦されず、罪の責めを負い続けることになると主は語られます。聖霊とは、今も働く、赦しの神=イエス・キリストの圧倒的な恵みそのものです。このことを信じない者は、永遠の刑罰=神から見放されて、罪と弱さをおぼえ続ける生涯を、また死んだ後も、送ることになるのです。ときに神を信じられなくなってもよい、キリストがわからなくなってもよい、しかしただひたすらに、「赦しの恵みがあることだけは信じなさい」と、主イエスは語られるのです。
神は語られます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。この御声にわたしたちは聞くべきです。あなたとは、イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、第一には、天の父なる神の愛する御子であると語られます。その愛する御子=神が大切にしても仕切れない御子は、また、わたしの心=善をなそうとしてかえって悪をなすような“どうしようもない罪”の問題を解決するという志をもっともよく理解し受け入れてくださる者であると。この御子キリストを信じ、これに聞き、これに従えと神は語ります。