農夫は、一年間、暑い日も寒い日も労苦して畑を守り、待ちに待って「麦とぶどうを豊かに取り入れて」大きな喜びに浸ります。しかし、神の答えという実を待つ信仰は、それ以上の喜びを与えます。この信仰に至るとき、争いに満ちている一日に平和な眠りのときが来ます。「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」と。ここに否定する気持ちはありません。すべてを神の御手の内にゆだね、今日一日を肯定し神に近づく上質な眠りがあります。
御子イエス・キリストは、「天使にまさる」とヘブライ人への手紙は語ります。主なる神はすべての世界をお造りになられました。天使もまた神の御手の内に造られました。御子キリストは、この神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れです。したがって、御子キリストは、天使以上のものであり、神と同じ力をもって、万物(世界と人間)をみ言葉をもって支えてくださっています。地上に降り立たれた御子キリストは、そのために人々の罪を清められた後、今は、天にあげられて、神の右の座に就いて支配しておられます。
わたしたちは、主イエスを信じ、御名によって、様々な事柄を祈り願います。実に、自分でも驚くほどの願いや祈りがわき出てくるでありましょう。個人的なことから、世界の果てのことにいたるまで。しかし、本当にこの願いと祈りは、“キリストの名によって”祈り願ってもよいことであろうかと、一度よくよく考えてみる必要がありはしないでしょうか。自分を中心においた祈りは間違った自己肯定の危険性があります。神を信じる者はキリストを中心において祈るべきです。祈る目的を再確認し、祈りと願いを整えるべきです。
キリスト教信仰において、最大の躓きは“復活”です。復活抜きのキリスト教信仰というものが案外あります。それは、主イエスを父なる神と一つであると告白していないところから起こっています。主イエスは神です。父なる神と一つです。だから、復活は本当に起こったことなのです。この点をわたしたちは信じないと駄目です。いくら頭で理解しても駄目です。教理として知っていても駄目です、本気で、「主イエスは神です」と告白することに、神とのまことの出会いがあり、わたしたちの救いが始まります。
救いと真理の道は命に至る道であると主はいわれます。命の原点は神です。わたしたちが今生きている地上の命は、神の命=永遠の命から来ています。人間がどこから来てどこへ帰ってゆくのか、という問題と繋がっています。問題となるのは、地上の命から再び永遠の命の世界へ行くことが難しくなってしまっている点です。すなわち罪の問題です。罪を重ねて、永遠の命の世界へ帰れなくなってしまっているわたしたちのために、主イエスは溢れんばかりの愛の御業をもって、再び帰る道を示してくださったのです。
預言者エゼキエルの伝える「信仰共同体のイスラエル民」の神の愛に立ち帰るまでの歴史的流れの体験を通し、いかに神は常に、私たちを愛し寄り添ってこられたかを、確認することができ、最終的には、御自分の大切な御子主イエス・キリストをこの世に遣わされ、人の罪を贖うために十字架にかけられ復活されるという愛を示されたのです。ですから預言者エゼキエルの語る神の声「お前たちは立ち帰って、生きよ」は、深い神の愛で私たちを今も励まし続けるのです。
キリスト者にとって信頼すべきことは、地上にあっても、なおさら、天上にあっても、“主イエス・キリスト”は、わたしたちと共にいてくださる、ということです。誰かを信じたとき、その人との関係が始まります。わたしたちの人生の歩みは、ほんとうに信頼すべき方と共に歩むことによって、いっそう確かで真実なものとなります。キリストは、その信頼を約束する、間違いのないお方です。
罪に気づいた後の二人、イスカリオテのユダは自ら命を絶ちます。ペトロは新しい召命に生きてゆきます。この違いはどこから来るのでしょう。同じように主は、二人を愛されました。主の愛に、立ち帰れるかどうかの違いではないでしょうか。人の数だけ罪があります。主イエスはどんな罪でも、それを赦す覚悟があります。それが十字架と復活の出来事です。本当の罪の愚かさに気づいた者は、その赦しの恵みにも、本気で帰ってゆけるのです。
人生において、最も皮肉なことは、最も愛する人を傷つけ、最も愛する人から裏切られる、ということが起こることです。しかし、その悲哀を最も味わわれたのが主イエスです。十字架と復活の主の赦しによってしか、この悲哀は癒されることはないでありましょう。互いに愛し合いなさいとは、また、互いに“赦し合いなさい”ということです。最後の極みまで、わたしたちを赦し、愛し続けられた、主イエスの姿を、仰ぎ見つつ歩みましょう。
ヘブライ人への手紙は、御子キリストを万物の創造者と定められたと語ります。そして、この御子によって世界は想像されたのであると。しかしまた、その御子によって、「この終りの時代」には、神はお語りになられるのだとも。「終わりの時代」とは、主イエスが天に戻られた後、聖霊によって臨んでくださっている時代=教会の時代(主の再臨を待ち望む時代)です。教会は、今も私たちの罪を赦す十字架と復活の御子キリストを信じ続けています。