罪に気づいた後の二人、イスカリオテのユダは自ら命を絶ちます。ペトロは新しい召命に生きてゆきます。この違いはどこから来るのでしょう。同じように主は、二人を愛されました。主の愛に、立ち帰れるかどうかの違いではないでしょうか。人の数だけ罪があります。主イエスはどんな罪でも、それを赦す覚悟があります。それが十字架と復活の出来事です。本当の罪の愚かさに気づいた者は、その赦しの恵みにも、本気で帰ってゆけるのです。
人生において、最も皮肉なことは、最も愛する人を傷つけ、最も愛する人から裏切られる、ということが起こることです。しかし、その悲哀を最も味わわれたのが主イエスです。十字架と復活の主の赦しによってしか、この悲哀は癒されることはないでありましょう。互いに愛し合いなさいとは、また、互いに“赦し合いなさい”ということです。最後の極みまで、わたしたちを赦し、愛し続けられた、主イエスの姿を、仰ぎ見つつ歩みましょう。
ヘブライ人への手紙は、御子キリストを万物の創造者と定められたと語ります。そして、この御子によって世界は想像されたのであると。しかしまた、その御子によって、「この終りの時代」には、神はお語りになられるのだとも。「終わりの時代」とは、主イエスが天に戻られた後、聖霊によって臨んでくださっている時代=教会の時代(主の再臨を待ち望む時代)です。教会は、今も私たちの罪を赦す十字架と復活の御子キリストを信じ続けています。
神の偉大な業を目の当たりにした人は驚きます。人間業ではないからです。しかし、そこから人々は信仰に導かれます。あの日(使徒言行録2章)聖霊の働きによって起こったような、心が揺さぶられる経験を経て、多くの人々は信仰に導かれてゆきます。わたしたちも、きっと大なり小なり(気づく気づかないにしろ)そういう経験を経て信仰に導かれているのです。
主イエスは言われます。「事の起こる前に、今言っておく」と。十字架の悲劇が起こる前に申し伝えておくのだと。“事が起こったとき”すなわち、十字架と三日後の復活の出来事が起こったとき、“わたしはある”(救いはある)という存在をあなたがたが信じるようにするために今語るのだと。今は分からなくとも、いつの日か必ず理解できる日が来ると、主イエスはおっしゃられます。
主イエスは、イスカリオテのユダだけではなく、ペトロもヨハネも、そしてわたしたちをも含めて、完全には神には従い得ない人間であることを、はじめから知っておられて、選び出されます。すなわち、罪人を選び出しているのです。しかし、ただ選ばれているのではありません。主イエスの痛みによって選び出されているのです。ここに救いがあります。神への不実によって起こる痛みと悲劇を、主イエスは担う覚悟を決心されておられるのです。
主イエスは、イスカリオテのシモンの子ユダのことを指して、『皆が清いわけではない』と言われます。イスカリオテのユダは、既に全身を清められたわたしたちの中に、今も存在しています。洗礼を受けて全身清くなったはずであるのに、わたしたち罪を犯します。その罪の汚れは、主イエスによって、生涯、洗い続けていただかなければなりません。「完全に洗い清められる」その日、その時まで、主の洗いを受け続けてゆくのです。
神を知っているユダヤ人も、神を知らなかったギリシア人(異邦人)にも同じ主が臨んでくださり救いに与ることが出来ます。そのことを信じるためには、「口でイエスは主であると公に言表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことが大切です。教会は「イエスは主であり救い主」との告白による共同体です。同じ一つの主を信じる群れです。ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、誰でも、教会へ来て、告白に同意するなら救われます。
パウロは語ります。「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができます」と。聖書の言葉を神からの恵みの言葉として受け取ることが出来たとき、その言葉に聞き続けるわたしたちとその人生は、思いもよらない“完成”へと導かれます。神の言葉である聖書がキリストに捕らえられた豊かで確信に満ちた人生を造り上げます。それを可能とするために聖書の言葉に聴き続けてゆくのです。
人は神によって心開かれて、信仰の目が開けたとき、心から信じて主の言葉を救いの真理として受け取ることが出来ます。エマオへの途上で主に出会った二人は、食事の席で主イエスがパンを裂かれたとき、信仰の目が開かれて、主の言葉を想い起こし、紛れもなく救いの言葉であることを燃える思いをもって受け取ります。礼拝(格別聖餐式)において、御言葉に聞くとき、わたしたちの心の目は開かれて、燃えるような思いをもって、救いに導かれるのです。