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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2022年02月27日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 16章25節〜28節「神は永遠に愛の神」 道家紀一牧師

十字架の死、三日後の復活、そして昇天、このことを通して、わたしたちにも、神に至る道が開かれるのです。主イエスキリストの御名と信じる者には、この方の御名を通して、あらゆることを神に願うことが可能となるからです。なぜならば、御子キリスト・イエスの御名を愛する者を、父なる神もまた、間違いなく愛してくださるからです

2022年02月20日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 16章16節〜24節「たとえ悲しみに出遭っても」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「人生には、いつも答えられない問いがあり、解くことのできない謎が満ちている。しかし結局のところ、世にあっては、見て確かめて生きるのではなく、信仰によって歩まねばならない」と。わたしたちがなすべきことは、救い主キリストを通して、神との関係を常に見失わないようにしておくことではないでしょうか。神にはいつでも何でも問うことができる、何でも願い求めることができる、という安堵感の中に生かされる、ということが大切です。それは、とりもなおさず、礼拝を中心とした信仰生活を整えてゆく中で得られるものです。神の霊に満たされ、導かれる生き方を志すとき与えられます。

2022年02月13日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 16章12節〜15節「真理の霊が来ると」 道家紀一牧師

真理の霊は、ただひたすら、主イエスが語った事柄、伝えた事柄、行った事柄について、啓き示すだけです。主イエスから託されたものを、世の終わりに至るまで告げ続けてゆく霊です。そのことによって、わたしたちは、自分のことについて、世界のことについて、神が、そこに込められている真理を知りなお将来へと向かってゆくのでありましょう。

2022年02月06日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 16章4b節〜11節「罪と義と裁き…、神の支配の下に生きる」 道家紀一牧師

わたしたち、実に、支配欲(支配したい気持ち)が強い存在です。多くの罪は、その思いが遂げられないところから発生しています。自らの誤った支配欲が裁かれ、神に治めていただくということがなければ、わたしたちに救いはありません。主イエスは、十字架に架かられた後、復活され、天に戻られました。聖霊となって、わたしたちのもとへ来られて、今も、わたしたちの罪を明らかにし、神の義を宣言され、真実な裁きを行い、わたしたちをまことの救いへと導いてくださっています。

2022年01月30日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 16章1節〜4a節「信仰のスキャンダル」 道家紀一牧師

十字架は“スキャンダリオン”です。スキャンダルの原語です。それは“つまずき”を意味します。多くの人々にとって、“つまずき”となった十字架は、イエスを救い主と信じる者において何ものにも変え難い救いのしるしです。主イエスは迫害の警告をされます。しかし、その時には、十字架のわたしの姿を思い起こしなさいと語られます。そこに、神の救いがあり、あながたの罪を覆う“聖なる配慮”が啓き示されている、と語られます。

2022年01月23日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 15章26節〜27節「生きる希望と喜び」 道家紀一牧師

人間的な希望から喜んだり、感謝したりするのではなく、神から来る希望によって喜び、感謝することの勧めです。厳しくも労苦の多い人生の荒波の中にあっても、キリストによる救いの希望をもって生きられる人は、感謝と喜びに満たされて、キリストを証しし続けることが出来ます。それは、いうまでもなく、礼拝によって養われます。この礼拝で、真理の霊なるキリストに出会って、生きる希望と喜びに包まれ感謝をもって歩みだしてゆくのです。

2022年01月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 15章22節〜25節「キリストが来られたからには」 道家紀一牧師

十字架に架けるのは、あたかも、キリストが来られていないかのように生きているわたしたちなのです。キリストが来られたからには、もはやわたしたちは“言い逃れる”ことができません。神から離れている罪の現実に目を背けることなく、罪を認めて悔い改めて、罪の赦しを祈り求めてゆく他にありません。

2022年01月09日(主日礼拝)ヘブライ人への手紙 2章10節〜13節「救いの創始者」 平澤基幸牧師

わたしたちの「救いの創始者」である主イエスは、(神の子である)わたしたちを救いの栄光へと導くために“数々の苦しみ”を通して「完全なもの」となってくださいました。このことは、万物の目標であり源である方(主なる神)にとっては相応しいことでありました。すなわち神のご計画でありました。キリストはまことの人として、わたしたち兄弟姉妹の先頭に立って、神への信頼を示してくださいました。それは、十字架の極みまでも続く神への揺るぎない信頼でした。

2022年01月02日(新年:栄光祭礼拝)詩編 92章2節〜16節「神に庭に植えられた人生」 道家紀一牧師

神を信じる人は、高さが30メートル以上になるナツメヤシや、樹齢千年にも及ぶレバノン杉のようにパレスチナの荒れ野にあって力強く立ち続ける木です。「主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正はない」と。どんなに激しい人生を送ろうとも、神の庭に茂っている限り、神を信じて、生き生きと最後まで生きることができます。

2021年12月26日(年末感謝礼拝)ヤコブの手紙 1章9節〜11節「貧しい者と富んでいる者」 永瀬よしこ牧師

ヤコブは「貧しい者と富んでいる者」を、立場を逆転して描きました。貧しい人々には、神より“恵み”として与えられ高められていると言うのです。ヤコブは、この世での幸福感とは、異なる幸福感について、思いを巡らすのです。この世で、報われることのない貧しい人々は、神の来るべき日に、恵みを受ける約束があると励ますのです。