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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020年06月07日(三位一体主日礼拝)詩編 8章2節〜10節「なぜ神は人を顧みられるのか」 道家紀一牧師

人は何ものなので神は顧みられるのでしょう。これは、旧約聖書の詩人の疑問です。しかし、この問いは今も続いています。人は、時に、何ゆえに生きているのか分からなくなる時があります。落ち込んだ時、間違いを犯したとき、罪の苦しみにある時、自分の存在が消えかかる時があります。「こんな自分がなぜ生かされているのか」と。詩人は答えます。「神は、人を、ほんのわずかに、ご自分に劣る者として造られた」と。神は、したがって、わたしたちに期待を寄せておられます。神に従う健やかさに生きることを。主イエスがその希望です。

2020年05月31日(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2章1節〜13節「分裂を繕う聖霊の働き」 道家紀一牧師

聖霊降臨は、天に戻られた主イエスが、“約束の聖霊”を弟子たちに降り注がれた出来事です。弟子たちは、主イエスの約束を信じ切ることが出来ずに恐れと戸惑いの中にありました。人は見える“確かさ”の中で安心します。しかし、必ずしもそうとはならないときがあります。信じるしかないときがあります。「見ないで信ずる者は幸いである」と主は語られます。今、わたしたちは見えない不安(コロナウイルス感染症)の中にいます。しかし、もう一つの恐れることのない“確かさ”(聖霊)の中に生かされていることもおぼえましょう。

2020年05月24日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章37節〜44節「人生に渇く者が飲む水」 道家紀一牧師

神によって造られたと信じる(理解する)人が、次に望むことは、人を愛し、 人に愛される健やかな人生を過ごすことです。聖人君子のような生涯を送りた いと願うことです。もちろんそうなれば喜ばしいことでありますが、現実は必 ずしもそうとはなりません。人を思わず傷つける言動、他者の過ちを赦せない自分がいます。知らず知らずの内に犯す過ちもあります。罪という問題を解決できない限り、神によって造られた麗しい人生を送ることはできません。そのためには、主イエスが注がれる“生きた水”=聖霊を受けるしかありません。

2020年05月17日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 7章25節〜36節「今がその時」 道家紀一牧師

神の業は、わたしたちの想像を超えたところに顕れ出ます。そのしるしこそは 主イエス・キリストです。まことの神であり、救い主(メシア)であった主は、 ナザレの人となられます。 “受肉”その意味は、日常の景色の中に神はいてくだ さるということです。神は、特別な時と場所ではなく、ごく当たり前の日々の 中に、普通の人生の中に関わっていてくださる=インマヌエルの神です。楽し い日々、苦しい日常に関係なく共にいてくださいます。新型コロナウイルス禍 に苦しむ今も間違いなく、共にいてくださる救い主と信じてよい神なのです。

2020年05月10日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章10節〜24節「神の真実と人間の都合」 道家紀一牧師

神の真理と人間の都合はしばしばぶつかります。神において最高の事柄は、人 間にとっては正反対だからです。主イエスが故郷のガリラヤから都エルサレム へ現れた時、評価はまっ二つに分かれました。 「悪霊に取りつかれている」と騒ぎたてる者もいれば、「良い人だ」と言う者もいました。しかし、どちらも確信がないことは同じでした。主ご自身が「遣わされた方の言葉を語っている」と 言われていることが信じられないのです。主は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」といわれます。神について何を見るのかが問われます。

2020年05月03日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章1節〜9節「神の時とわたしの時」 道家紀一牧師

人生にはあらゆる“時”(カイロス)があります。旧約聖書のコヘレト(集会の指導者)は、人生には様々な時があるが、それらはみな「神の御心に適う時」であると説きます。聖書で言う“時”(カイロス)とは“決定的な時”です。クロノスという時系列の時とは違います。神との関係で考える時のことです。それはまた時をささげることを意味します。人生の様々な時の中で、格別節目となるような時を自分のためにではなく、神のためにささげる時にすることが出来るのか?十字架に身をささげた主イエスの姿にそれを見ることが出来ます。

2020年04月26日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章66節〜71節「留まった12人」 道家紀一牧師

主イエスの言葉に次第に人々は躓き始めます。最後に残ったのは12人でした。12使徒のことです。彼らは、多くの人々が離れ去って行く中で、残った12人でした。彼らが残れた理由は、主イエスの言葉を信じたからです。今日のように完全な形で受け入れていたとはいえませんが、少なくとも真実な神の言葉として受け入れたのです。わたしたちもそういう意味で留まった12人として礼拝をささげます。時には、十字架の恐ろしさに匹敵するような艱難によって離れ去ることもありますが、再び呼び戻されて、真に礼拝する者となって行くのです。

2020年04月19日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章60節〜65節「許しがなければ…」 道家紀一牧師

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今朝より皆で礼拝室に集まって共に礼拝をささげることを休止しました。オンラインでつながって同時間に礼拝をまもる人、自宅で一人祈って同じ時間に過ごしておられる方、様々です。しかし、今朝、わたしたちの主なる神は、一人ひとりを礼拝に招いてくださっています。ささげる仕方は異なっていても、わたしたちは霊においては一つの群(礼拝共同体)です。どんな礼拝であろうとも神の許しの招きがなければ、ささげることは出来ません。一つに結び合わされ、ささげられる幸いに感謝します。

2020年04月12日(復活祭礼拝)マタイによる福音書 28章1節〜6節「ここにはおられない」 道家紀一牧師

コロナウイルス感染症拡大の恐れの中で復活祭の日の礼拝を迎えました。死人の復活=神の大きな奇跡(絶大な力)を信じることが出来ない私たちの前には、躓きの大きな石があります。罪という頑なな石です。それは、主イエスの墓の入り口を塞いでいた石のようです。朝早く主イエスの墓へ向かう婦人たちの愚かな望み(主イエスの遺体に触れたいという儚い望み)に立ち塞がったのが大きな石でした。しかしその石は神が取り除いてくださいました。罪の石が取り除かれた先にはあるのが、主の復活という神から来る大いなる希望です。

2020年04月05日(棕櫚の日礼拝)マタイによる福音書 21章1節〜5節「主がお入り用です」 道家紀一牧師

棕櫚の日を迎えました。救い主イエス・キリストは、ただ一つのことのためにエルサレムへ入城されます。人の罪を赦すために「十字架に架かる」ためです。間違っても、イスラエルの王(世の王)になるためではありません。しかし、人々は取り違えて、歓喜の声を持って迎え入れます。「ホサナ、ホサナ」と。世と人々を救うのは「人ではなく神」であるということが分かりません。救いは神のご計画の下に実現します。御子キリストが十字架に架かられるのは、神の御心です。ろばに乗って入城するキリストに、それを見なければなりません。