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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020年04月19日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章60節〜65節「許しがなければ…」 道家紀一牧師

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、今朝より皆で礼拝室に集まって共に礼拝をささげることを休止しました。オンラインでつながって同時間に礼拝をまもる人、自宅で一人祈って同じ時間に過ごしておられる方、様々です。しかし、今朝、わたしたちの主なる神は、一人ひとりを礼拝に招いてくださっています。ささげる仕方は異なっていても、わたしたちは霊においては一つの群(礼拝共同体)です。どんな礼拝であろうとも神の許しの招きがなければ、ささげることは出来ません。一つに結び合わされ、ささげられる幸いに感謝します。

2020年04月12日(復活祭礼拝)マタイによる福音書 28章1節〜6節「ここにはおられない」 道家紀一牧師

コロナウイルス感染症拡大の恐れの中で復活祭の日の礼拝を迎えました。死人の復活=神の大きな奇跡(絶大な力)を信じることが出来ない私たちの前には、躓きの大きな石があります。罪という頑なな石です。それは、主イエスの墓の入り口を塞いでいた石のようです。朝早く主イエスの墓へ向かう婦人たちの愚かな望み(主イエスの遺体に触れたいという儚い望み)に立ち塞がったのが大きな石でした。しかしその石は神が取り除いてくださいました。罪の石が取り除かれた先にはあるのが、主の復活という神から来る大いなる希望です。

2020年04月05日(棕櫚の日礼拝)マタイによる福音書 21章1節〜5節「主がお入り用です」 道家紀一牧師

棕櫚の日を迎えました。救い主イエス・キリストは、ただ一つのことのためにエルサレムへ入城されます。人の罪を赦すために「十字架に架かる」ためです。間違っても、イスラエルの王(世の王)になるためではありません。しかし、人々は取り違えて、歓喜の声を持って迎え入れます。「ホサナ、ホサナ」と。世と人々を救うのは「人ではなく神」であるということが分かりません。救いは神のご計画の下に実現します。御子キリストが十字架に架かられるのは、神の御心です。ろばに乗って入城するキリストに、それを見なければなりません。

2020年03月29日(受難節第Ⅴ礼拝)マタイによる福音書 3章1節〜12節「救いの道を整えよう」 道家紀一牧師

今日、世界は様々な課題を抱えています。格別、新型コロナウイルスによって混乱する世界があります。洗礼者ヨハネは、バビロン捕囚で苦しむユダヤの人々に向かって語ったイザヤの預言「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」の通り現れた神の人です。神は彼を通して呼びかけます。見るに耐えない世界の中から“救いの道”を示す声が響き渡っている。これに聞けと。神は厳しい時代状況の中でこそ救いの道を示されます。大切なのはその道を見出すことです。いつの時代も洗礼者ヨハネの声は響いています。

2020年03月22日(受難節第Ⅳ礼拝)マタイによる福音書 17章1節〜13節「今こそ神の声に聴く時」 道家紀一牧師

主イエスは、十字架に架かられる前に、「わたしはエルサレムへ上り捕えられ、鞭打たれた後、死に渡される。しかし三日の後に復活する」と弟子たちに語られました。しかし、弟子たちは理解できませんでした。そこで主イエスは、それを悟らせるために高い山に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて登られます。そこで主イエスは栄光の衣に包まれますが、それは復活の“先取り”でした。見終えた後、主イエスはペトロらに、今見たことを告げることを禁じられます。誤解を避けるためでした。十字架から復活という順番をまちがえないために。

2020年03月15日(受難節第Ⅲ礼拝 日本伝道推進を祈る日)マタイによる福音書 16章13節〜23節「神の前に出てはならない!」 道家紀一牧師

主イエスに問われたペトロは「あなたこそ救い主キリストです。」と答えます。大正解です!「あなたの上に教会を建て、“天の国へ入る鍵”を預ける」とさえいわれます。しかし直後に、主イエスが「わたしは、十字架に架かって死んで復活する」と語られますと、途端にペトロは主をいさめ始めます。「そんなことがあってはなりません」と。これは主の救いの道筋を曲げる行為です。神が思われる道筋と人が考える道とは異なっています。そのことが分からないとき、「サタンよ、退け」といわれてしまいます。神の前に出る行為となるからです。

2020年03月08日(受難節第Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 12章22節〜32節「神の働きを妨げるもの」 道家紀一牧師

古代イスラエルでは、病気など不幸な事が起こると「悪霊の仕業」としていました。悪霊の仕業=神の祝福を受けられない状態、という理解です。しかし、それは神は悪霊をも支配される力であられる、という信仰に真っ向から逆らう考え方です。神を神として信じていない者=自分中心に信仰を組み立てる者は、納得できない(治められない)事柄はすべて、悪霊の仕業に追いやって関わろうとしません。しかし主イエスなる神は、まさにそこに切り込んで来られます。悪霊をも統べ治める方として、神の力を信じない人間の罪を癒されるのです。

2020年03月01日(受難節第Ⅰ礼拝)マタイによる福音書 4章1節〜11節「神の言葉によって生きる幸い」 道家紀一牧師

わたしたちの主イエスは、まことの神であり、同時にまことの人です。それはこの世にあっては超人であった、ということではありません。むしろ、弱くて脆くて、そして罪深い一人の人間として、この世を歩まれました。しかし、「罪」を犯す方ではありませんでした。ただ、罪を抱えた一人の人間を“経験”された(味わわれた)ということです。主は、すでに罪に勝たれた方だからです。マタイ4章の「悪魔の誘惑」は“罪に打ち勝つ信仰者”の在り方(姿)を示しています。「退けサタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。

2020年02月23日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章52節〜59節「キリストが来ました」 道家紀一牧師

初任地の四国で伝道していたとき、高知(土佐)で長く伝道している牧師から聞かされました。「土佐では“さかな屋”が来たとは言わないんだよ。“さかな”が来ましたと言うんだよ。この違いがわかるかい。キリスト教とキリストは違うと言うことなんだよ」と。人が信仰をもつには、キリスト教を学んでも身に着けても駄目だということです。キリストを信じなければ信仰に至りません。主イエスが言われる「わたしの血と肉を食べる者は永遠に生きて終りの日に復活する」とはそういう意味です。キリストに結ばれて生きる大切さのことです。

2020年02月16日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章41節〜51節「命の定まり」 道家紀一牧師

旧約聖書の民は「救い主」を待ち望んでいました。しかし、そこで求められる救い主の像は、どうしても人間の考える領域(イメージ)を越えるものではありませんでした。主イエスは、そういったイメージとはかけ離れていました。「ガリラヤの大工のせがれヨセフとその母マリアの息子ではないか」と。神はあえて、この世の王や富裕な者ではなく、貧しく小さな人間の中に降り立たれました。それが神の愛と救いのメッセージです。世を生かすパン=キリストを信じるとは、世の価値観に惑わされない定まった人生を生きる“命の糧”です。