ラザロの死を悲しむマルタとマリア、そして、彼女らを取り巻く人々を前にして、キリストは涙されますが、その前に、例えようもない怒りを発せられます。この怒りの意味は、言語的にも解釈できないような表現です。単なる怒りでもありません。憤懣やるかたないという意味でもありません。主は心の底から言いようのない怒りにとらわれて、激しく憤られたのです。その怒りは涙になります。死をもって何もかも終わるしかない人間の“限界”に涙されたのです。この涙は十字架の涙に繋がります。復活は涙から喜びへの転換です。
「死をもって何もかもが終わる」それが、わたしたちの常識です。しかし主なる神キリストは、その常識を破る言葉を語られます。「死んでも生きる」と。死という誰一人乗り越えられない壁を打ち破る言葉です。ラザロの死は、人間が乗り越えられない壁を表しています。主なる神キリストは、その限界を超えて行かれます。死をもってすべてが終わることはない。否、死んでからが真の人生だと言わんばかりです。わたしたちは「終末的に生きます」それは希望のない人生ではなく、神と共に生きる希望にあふれた人生を歩むことです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」こうして、わたしたちは罪と死から解放されました。わたしたちの思いをキリストの思いと一つにしましょう。そして、わたしたちを御心のままに望ませ、行わせて頂きましょう。
ラザロの死は、主イエスにとって、神の栄光の力を垣間見せる“絶好のチャンス”でした。神は、死人をよみがえらせる栄光の神であると。“ラザロは死んだ”という絶望の中から神は復活の希望を語られます。何もかも尽き果てるとき、神の栄光が鮮やかに輝き出すときとなると。そのときをそうと捉える(受け止める)ことが出来るかどうかに、わたしたちの信仰=キリスト教信仰のすべてはかかっていないでしょうか。「一緒に死のうではないか」と、トマスの愚かさに生きることであるともいえます。そのとき、神の救いの世界へ扉が開きます。
「一緒に死のうではないか」と、主イエスの弟子トマスは愚かとも思える言葉を語りました。しかしそれは、主イエスに対する素朴な信頼からしか出て来ない言葉です。死に至る病で伏せっているラザロを前にして、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と語られます。地上の死をもって全てが終わってしまう、というわたしたちの世界観を打ち破る神の言葉です。時間制限のない永遠の主の栄光について主イエスは語られます。そのしるしとして、主イエスはラザロを死の眠りから呼び覚まされるのです。
1+1=2というのがわたしたちの世界です。物事にはある決まった法則があって、それが原理となって、様々な事象は起こっていると。ところが、世界には必ずしも1+1=2とはならない事柄があります。それを計算外、または想定外といって来ました。あるいは“不可思議”という言葉で片づけて来ました。信仰の世界は、まさにそのような事柄の連続です。格別、主イエスが語られ、実際に行われた世界は、1+1=2ではない世界です。父と子は一つである、という聖なる事実が、1+1=2ではない神の世界を造り出すのです。
主イエスは、神の牧草を食べるための“門”です。昔イスラエルでは、囲いの一か所が開いており、そこに羊飼いが寝そべって門のような働きをしていたようです。主イエスはそれを譬えています。羊が勝手に囲いの外に出ようとするならば捕まえます。入ろうとするなら入れてあげます。神の国への救いの扉のような働きを、主イエスはなさるのです。神さまをなんとなく知っているだけでは不十分です。キリストという救いの門を通らなければ、神の永遠なる牧草地にはたどり着けません。救いの扉は、イエス・キリストだけです。
聖書の中でも最も有名な話の一つです。「羊飼いと羊のたとえ」です。主イエスがわたしたち羊の良い羊飼いである、というたとえです。しかしよく読みますと、なかなか難しいたとえでもあります。羊の囲いとは何か、囲いの門を通って外に出て行くのは何をたとえているのか、門番とは誰か…イメージを膨らませるとかえって分からなくなります。ただ一つだけはっきりしていることは、真の羊飼いである主イエスの御声を聴くことによって、わたしたちは神の牧草にありつけて、健やかな日常と人生を歩み出せるのだ、ということです。
キリスト教は愛の宗教であるとともに言葉の宗教ともいわれます。それゆえに、しばしば「聖書を読む」あるいは、「聖書を学ぶ」と言う姿勢が大事にされます。しかしそれと同時に、わたしたちは「礼拝する」という聖なる跪きを忘れてはなりません。主イエスはいわれます。「見える」と言い張るそこに罪があるのだと。キリスト教は解る宗教ではなく、信じる宗教です。「そうなんだ」と納得する宗教ではなく、「信じます」と告白する宗教です。生まれつき目が見えなかった人は、救われた恵みの事実の前に、「信じます」と告白する他なかったのです。
神が起こされる事実(奇跡)に出会った人は、この世の諸々の勢力に対する恐れがなくなります。主イエスに目を開けていただいた“彼”は、もはやユダヤ当局(神殿祭司 律法学者 ファリサイ派)の追求に、真実しか答えなくなりました。どんなにユダヤ当局者たちが罠を仕掛けようが、彼は陥れられません。「あの方はわたしの目を開けてくださいました」彼は彼に起った真実だけを語ります。それ以外に語ることはないからです。神の真実に出会った者はいたずらな飾りはしません。自分が味わった真実な恵みのみを証しするのみです。