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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020年06月28日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 8章12節〜20節「ただひたすらキリストに」 道家紀一牧師

聖書は「罪からの救い」を語り示します。その中心はイエス・キリストです。教会は、そのことを、信じ続けて来ました。信徒信条で告白する通りにです。しかし、初めて、主イエスが、ガリラヤのナザレから出て来られたとき、そうではありませんでした。素性も良く分からないイエスと言う男の語る救いの道など信じる人はいませんでした。格別、律法学者やファリサイ派の人々は彼を退けようとしました。「わたしは命であり、世の光である」この言葉を語られる主イエスは天から遣わされた真実な方です。この方以外に救いはありません。

2020年06月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 8章1節〜11節「行きなさい」 道家紀一牧師

「まず罪のない者から石を投げなさい」女性の罪を裁こうとする人々に向けた主イエスの御言葉です。わたしたちは、人を批判すること早く、事柄を非難することを喜び、物事の良し悪しを直ぐに判断しようとします。その基準はどこにあるのでしょうか。多くは、自分です。自分の価値観、あるいは、自分の気持ちです。しかしそれは確実ではありません。昨日と今日では気持ちも状況もかわります。他者を裁くとしたら、その基準はあなたにはない!と主イエスははっきりと言われたのです。裁きは神の業であり、同時に赦すのも神の業なのであると。

2020年06月14日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章45節〜52節「人間の思い込みと神さまのなさりよう」 道家紀一牧師

神さまの働きはどこに顕れるのか。聖書の民ユダヤ人にはいろいろな言い伝えがありました。「預言者、〇〇から生まれる」…しかしその中に“ガリラヤ”はありませんでした。むしろ、「ガリラヤから何の良いものが生れるだろう」とさえ言われていました。ところが、その“ガリラヤ”から「救い主イエス」は生まれたのです。「まさか、そんなことが」というようなところから救い主は誕生したのです。それが聖書の語るメッセージです。わたしたち人間は都合よく考えるその愚かさを打ち破るようにして、神は救いの御業を起こされます。

2020年06月07日(三位一体主日礼拝)詩編 8章2節〜10節「なぜ神は人を顧みられるのか」 道家紀一牧師

人は何ものなので神は顧みられるのでしょう。これは、旧約聖書の詩人の疑問です。しかし、この問いは今も続いています。人は、時に、何ゆえに生きているのか分からなくなる時があります。落ち込んだ時、間違いを犯したとき、罪の苦しみにある時、自分の存在が消えかかる時があります。「こんな自分がなぜ生かされているのか」と。詩人は答えます。「神は、人を、ほんのわずかに、ご自分に劣る者として造られた」と。神は、したがって、わたしたちに期待を寄せておられます。神に従う健やかさに生きることを。主イエスがその希望です。

2020年05月31日(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2章1節〜13節「分裂を繕う聖霊の働き」 道家紀一牧師

聖霊降臨は、天に戻られた主イエスが、“約束の聖霊”を弟子たちに降り注がれた出来事です。弟子たちは、主イエスの約束を信じ切ることが出来ずに恐れと戸惑いの中にありました。人は見える“確かさ”の中で安心します。しかし、必ずしもそうとはならないときがあります。信じるしかないときがあります。「見ないで信ずる者は幸いである」と主は語られます。今、わたしたちは見えない不安(コロナウイルス感染症)の中にいます。しかし、もう一つの恐れることのない“確かさ”(聖霊)の中に生かされていることもおぼえましょう。

2020年05月24日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章37節〜44節「人生に渇く者が飲む水」 道家紀一牧師

神によって造られたと信じる(理解する)人が、次に望むことは、人を愛し、 人に愛される健やかな人生を過ごすことです。聖人君子のような生涯を送りた いと願うことです。もちろんそうなれば喜ばしいことでありますが、現実は必 ずしもそうとはなりません。人を思わず傷つける言動、他者の過ちを赦せない自分がいます。知らず知らずの内に犯す過ちもあります。罪という問題を解決できない限り、神によって造られた麗しい人生を送ることはできません。そのためには、主イエスが注がれる“生きた水”=聖霊を受けるしかありません。

2020年05月17日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 7章25節〜36節「今がその時」 道家紀一牧師

神の業は、わたしたちの想像を超えたところに顕れ出ます。そのしるしこそは 主イエス・キリストです。まことの神であり、救い主(メシア)であった主は、 ナザレの人となられます。 “受肉”その意味は、日常の景色の中に神はいてくだ さるということです。神は、特別な時と場所ではなく、ごく当たり前の日々の 中に、普通の人生の中に関わっていてくださる=インマヌエルの神です。楽し い日々、苦しい日常に関係なく共にいてくださいます。新型コロナウイルス禍 に苦しむ今も間違いなく、共にいてくださる救い主と信じてよい神なのです。

2020年05月10日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章10節〜24節「神の真実と人間の都合」 道家紀一牧師

神の真理と人間の都合はしばしばぶつかります。神において最高の事柄は、人 間にとっては正反対だからです。主イエスが故郷のガリラヤから都エルサレム へ現れた時、評価はまっ二つに分かれました。 「悪霊に取りつかれている」と騒ぎたてる者もいれば、「良い人だ」と言う者もいました。しかし、どちらも確信がないことは同じでした。主ご自身が「遣わされた方の言葉を語っている」と 言われていることが信じられないのです。主は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」といわれます。神について何を見るのかが問われます。

2020年05月03日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 7章1節〜9節「神の時とわたしの時」 道家紀一牧師

人生にはあらゆる“時”(カイロス)があります。旧約聖書のコヘレト(集会の指導者)は、人生には様々な時があるが、それらはみな「神の御心に適う時」であると説きます。聖書で言う“時”(カイロス)とは“決定的な時”です。クロノスという時系列の時とは違います。神との関係で考える時のことです。それはまた時をささげることを意味します。人生の様々な時の中で、格別節目となるような時を自分のためにではなく、神のためにささげる時にすることが出来るのか?十字架に身をささげた主イエスの姿にそれを見ることが出来ます。

2020年04月26日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 6章66節〜71節「留まった12人」 道家紀一牧師

主イエスの言葉に次第に人々は躓き始めます。最後に残ったのは12人でした。12使徒のことです。彼らは、多くの人々が離れ去って行く中で、残った12人でした。彼らが残れた理由は、主イエスの言葉を信じたからです。今日のように完全な形で受け入れていたとはいえませんが、少なくとも真実な神の言葉として受け入れたのです。わたしたちもそういう意味で留まった12人として礼拝をささげます。時には、十字架の恐ろしさに匹敵するような艱難によって離れ去ることもありますが、再び呼び戻されて、真に礼拝する者となって行くのです。