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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019年11月10日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 5章31節〜36節「キリストを証しする愛の業」 道家紀一牧師

キリストはキリストご自身で完結される方です。人間の証明など必要はありません。しかしあえて、洗礼者ヨハネを引用されます。「彼は神の真理を示していた」と。ですが、人々はヨハネの証しする真理=イエス・キリストを捉え損ないます。主イエスは、もはや、ご自身によって、ご自身を証明するしかなくなります。それは、すなわち、わたしたちの罪深く愚かな人間を救うための愛の業=十字架と復活の出来事です。十字架と復活の業のみが、主イエスが父から遣わされた救い主なる御子キリストであることを指し示します。

2019年11月03日(聖徒の日礼拝)ローマの信徒への手紙 6章1節〜11節「軽やかな命の希望に生きる」 道家紀一牧師

キリスト教の歴史は教会の歴史です。格別、教会の信仰に生きた人々の歴史です。彼らのことを「聖徒」と呼びます。今彼らは眠っています。その日その時を待って。キリストが再び地上に降り立ち、私たち一人ひとりと、世界の全てについて“総決算”なさる日(最後の審判日)まで、彼らは眠っています。私たちもまた、定められた時に、彼らの列に加わります。死を迎えます。しかし、そこで終わることはありません。彼らと共に主の前によみがえって、永遠の命を得ます。この本物の命の希望に生かされて、軽やかな今があるのです。

2019年10月27日(宗教改革記念礼拝)ヨハネによる福音書 5章19節〜30節「人生の最期における大きな違い」 道家紀一牧師

宗教改革はルターの「塔の体験」から始まりました。当時のローマカトリック教会が発行していた免罪符に疑問をもった彼は大学の図書館で聖書を読み続けました。そして「キリストの恵みのみ」「キリストへの信仰のみ」「聖書のみ」という福音(救いの信仰)の真理を発見します。主イエスはいわれます。「私が父なる神の全てを示している(証ししている)」と。聖書を通してキリストのみを信じる信仰が、私たちを救いの真理(永遠の命の世界)に導きます。人生の最期において問われることは、ただこの一点のみです。

2019年10月20日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 5章1節〜18節「健やかに立つ人生」 道家紀一牧師

エルサレムにべトザタという池がありました。羊の門(ベニヤミンの門)の傍らにあった不思議な池でした。そこの池の水が動く時一番初めに池に入った者がその病が癒されると信じられていました。その池の畔に38年もの間暮らす人がいました。一度も池に入れなかったからです。自分の力ではどうにもならないと分かっていながらそこにいざるを得なかったのです。諦めと期待の狭間で苦しんでいる人でした。主イエスはその人に命じます。「立って床を担げ」と。38年間の苦しみを背負って健やかに生きなさいと。私も一緒に担ぐのだからと。

2019年10月13日(神学校日礼拝)マルコによる福音書 2章13節〜17節「神のお召し」 道家紀一牧師

本日は「神学校日」礼拝です。神学校に行く人を「献身者」といいますが、主に招かれて、罪の赦しの洗礼を受けた者はみな、「献身者」です。神に従う決心をした人だからです。洗礼を受けてキリスト者になるとは、「罪が赦されて」、よかったよかったといって終わるのではありません。主に従う決心をして生きてゆくのです。しかしそれは、独りの孤軍奮闘ですることではありません。神の招き(お召し)の下で行うことです。神の招きなく、献身することはありません。罪の赦しの恵みに感謝しつつ、喜んで主に仕え続ける道のことです。

2019年10月06日(世界聖餐日礼拝)ヨハネによる福音書 4章43節〜54節「神に縋って何が悪い」 道家紀一牧師

主イエスが故郷ガリラヤへ戻られたとき、一人の役人が懇願に来ました。息子が死にそうだったからです。この役人は「主よ、死なないうちにお出で下さい」と頼みます。「主よ、死んでからではおそいのです」と。この言葉は重要です。「死んでから主に来ていただいても意味がない」と告白しているからです。わたしたちも罪によって死にかかった存在です。放っておけば死んでしまいます。「主よ、死なないうちにお出で下さい」と懇願する必要があります。そのためには、この役人のように、ひたすら主にすがる信仰が求められるのです。

2019年09月29日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 4章27節〜42節「大いなるきっかけ」 道家紀一牧師

シカルの井戸でキリストに出会い救われたサマリアの女性は、そこで終わったのでありません。彼女は、水汲みも忘れるほどの喜びと感謝に満たされて町へ帰り、誰彼となく「救い主に出会った」という救いの喜びを証ししました。すると大勢の人々(今まで彼女を避けていた人も含めて)が彼女の言葉を信じて、主イエスのもとへ来て、キリストに出会って、救いに与りはじめました。彼女は“大いなるきっかけ”をつくった人です。救いの信仰とはひとり救われたことをほくそ笑むのではなく、次の人へ(次の世代へ)伝えてゆくのです。

2019年09月22日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 4章1節〜26節「人を生かす命の水」 道家紀一牧師

サマリア人はエルサレムの人々からは嫌われていました。その昔、アッシリア帝国に北王国が占領され、入植政策によって混血人種ハーフとなったからです。血筋を重んじる南王国の人々はそれを嫌いました。しかし、主イエスはサマリヤを通られます。そして、そこで一人の不幸な女性と出会って救われます。暑い昼の最中に水を汲みに来た女性のすべてをご存知な主イエスは、「尽きることのない命の水」(霊の賜物)を注がれます。わたしたちは肉の糧にのみ生きるのではなく、霊の糧をもって養われる必要があります。この女性のように。

2019年09月15日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3章22節〜36節「聖霊が留まる方の言葉」 道家紀一牧師

バプテスマのヨハネは主イエスの前に現れた偉大な人物=預言者です。当時は主イエスと同列と思った人々が多くいました。しかし彼(バプテスマのヨハネ)は、「わたしは彼(メシア)ではない」「彼は栄え、私は滅びる」とさえいいました。主イエスがまことの救い主であることを告白したのです。この謙虚な姿はわたしたちの模範です。神より自分を優れたものと置き換えて行く罪を糺されます。主イエスこそが、わたしたちの救い主であることを信じ続けること、聖霊(神の霊)が注がれた方として仰ぎ見続けることの大切さを教えています。

2019年09月08日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 3章16節〜21節「神の光を信じて歩む」 道家紀一牧師

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉はヨハネによる福音書の中でも有名な箇所です。わたしたちはともすれば「罪深い」ということを取り違えています。世と人は最初から悪であったから罪深いと。創世記1:31で神は「甚だ良かった」とお造りになったものを見ていわれます。美しい神の作品である私たちの中にはいった悪(罪)によって滅びへと向う私たちを救うために神は“独り子”をささげられました。ここに救いの真理があります。