クリスマスの出来事のほんとうの意味を告げても、今日、多くの人々は不思議がるだけでありましょう。2000年前と同じように。「そんなことがあろうか」と。自分では何一つ守ることができない小さな幼子を、他ならない神が守っておられる。この聖なる事実を見ることが信仰のはじまりです。“自分のような”あるいは“こんな世界”と思っている人は、実は、人間の力に頼った生き方をしています。そこから一歩踏み出して、“その自分に救いが来た”“その世界が贖われた”、人ではなく神によって可能となった、と信じる人が、御心に適う人となり、地に平和をもたらす祈りに生きる人々となれるのです。
救い主に出会った東の国から来た占星術の学者たちは、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを受けます。それは、もう二度とヘロデ的勢力にとらわれないで生きなさいという示しです。彼らはその通りに、別の道を通って、再び自分たちの国=人生の馳せ場へと(持ち場へ)帰って行くのでした。わたしたちもまた、改めて、救い主に出会い、ヘロデ的勢力にとらわれないで生きる道を歩み出したいと願います。
語られることの少ないマリアの過酷な出産を通して、現代に生きる私どもが考えねばならない視点を、神は時空を超えて私どもに準備してくれていました。神が人間として救い主を私どもにお与えくださったことの意味もそこに隠されています。私どもがマリアの出産が下層に生きる労働者と天の軍勢によって守られ、平和な世を願ってあったことを知るのなら、今の世にマリアのように過酷な状況にある女たちがいることを覚え、彼女らの平安を祈りと共にいる者でありたいと願います。
バプテスマのヨハネは、公に登場するまでは、荒れ野に下ってゆきます。アドベント、それは、メシア(救い主)到来(誕生)を待つ期間です。ヨハネが荒れ野に下ったように、わたしたちもそのときを待って、それぞれの荒れ野に下りましょう。そして、メシアが到来したとき=クリスマスの恵みが来た時、喜びと感謝をもって、ヨハネのように救い主の誕生を証しし、“主による平和”の実現のために働くものとなりましょう。
主の日は、神を信じて救いを待つ者には恵みのときとなりますが、神を忘れて肉の放縦に生きている者には、襲い来る恐ろしい裁きの日となります。肉の思いに埋もれてはなりません。人の思いに左右されてはなりません。形あるもの、目に見えるものに揺り動かされてもなりません。それらは壊れてゆくものであり、他ならぬ、神が、わたしたちの救いのために壊されるからです。その崩壊のしるしを見据えながら、わたしたちは、目を凝らし、祈り深く歩むのです。最後の日、人の子と呼ばれる救い主の前に立てる、その大きな希望が、今のあなたを支えるのであり、魂を真の意味でたくましく整え、一つひとつの事柄に、携わってゆく平穏な日々と人生が与えられ、築かれてゆくのです。
ギリシャ哲学の徳目の中心には「人間の感情を超越した冷徹な心」と「何ものにも揺り動かされない不動の精神」というものがあります。しかしパウロは、それらとは全く無関係なところから、しかし、それら以上の力強い核心を示しています。聖霊が結ぶ実としての徳目です。それは、わたしたちの罪と過ちのために十字架に架かって死なれるという圧倒的な神の愛によって支配されるところから生じてくる力です。愛のないわたしたちの現実と神の愛とが切り結ぶところに生じる“愛の結実”の諸相(諸々の徳目)が生じるのです。
ヘブライ人への手紙は、大祭司キリスについて語りますが、その中で、旧約聖書の二人の人物に言及します。一人はアブラハムです。アブラハムは、神との契約に基づいて、神を信頼し、神がそれに応える仕方で、祝福に与った人です。わたしたちの救いは、神の祝福です。わたしたちも、神との約束に基づいて、大祭司キリストを信じて歩むことによって、救いの祝福に与ります。もう一人は、理想的な旧約聖書の祭司メルキゼデクです。神とイスラエル(人)との間に立った仲介者です。大祭司キリストは、この大祭司以上の仲介者です。
教会で信仰生活を過ごして亡くなった方(召された方)を「聖徒」(在天者)といいます。11月最初の主日を「聖徒の日」と定めて、方々を記念します。わたしたちが天に召されるのは、すべての神のご計画によります。創世記5章にアダムの系図がありますが、生涯の年齢の後にこう記されています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と。「神が取られたので」人は天に召されるのです。しかし、そこはヨハネ黙示録に記されている世界です。「然り、労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(14:13)と。「神に結ばれて死ぬ人は幸いです」と言われる生涯を送った人が住む世界です。
神の、わたしたちに対する願い(求め)は、ただ一つのことです。神によって造られながら、神から離れ、罪を犯した状態に陥り、生きにくくなり、苦しみと悩みの連続にあるわたしたちが、キリスト・イエスの恵みの出来事(十字架の贖いの業)に触れて、再び、神の御顔を仰げるものとなることです。そのときまで、神は、御子キリストを犠牲にしてまでして、忍耐強く待ち続けてくださっているのです。この恵みに気づき、お応えする人生を志してゆくこと、それが、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者の生き方です。
主イエスに対する判決は、不当極まりないものになろうとしています。もはやピラトは、尋常ではない事態に陥っていることを知ります。ひとたび走り出した人間の罪の暴走を止められるものは、この世にはいません。まことの神なるお方、主イエス・キリストが十字架に架かられることによってのみ、罪の歴史に終止符が打たれるのです。