教会で信仰生活を過ごして亡くなった方(召された方)を「聖徒」(在天者)といいます。11月最初の主日を「聖徒の日」と定めて、方々を記念します。わたしたちが天に召されるのは、すべての神のご計画によります。創世記5章にアダムの系図がありますが、生涯の年齢の後にこう記されています。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と。「神が取られたので」人は天に召されるのです。しかし、そこはヨハネ黙示録に記されている世界です。「然り、労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」(14:13)と。「神に結ばれて死ぬ人は幸いです」と言われる生涯を送った人が住む世界です。
神の、わたしたちに対する願い(求め)は、ただ一つのことです。神によって造られながら、神から離れ、罪を犯した状態に陥り、生きにくくなり、苦しみと悩みの連続にあるわたしたちが、キリスト・イエスの恵みの出来事(十字架の贖いの業)に触れて、再び、神の御顔を仰げるものとなることです。そのときまで、神は、御子キリストを犠牲にしてまでして、忍耐強く待ち続けてくださっているのです。この恵みに気づき、お応えする人生を志してゆくこと、それが、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれる者の生き方です。
主イエスに対する判決は、不当極まりないものになろうとしています。もはやピラトは、尋常ではない事態に陥っていることを知ります。ひとたび走り出した人間の罪の暴走を止められるものは、この世にはいません。まことの神なるお方、主イエス・キリストが十字架に架かられることによってのみ、罪の歴史に終止符が打たれるのです。
パウロがエフェソの教会の人々に語っていることは、すべてわたしたちに向かって語られている言葉です。今ここに洗礼を受けて集っている一人ひとり、また、これから洗礼を志そうとしている一人ひとり、すでに洗礼を受けて人生を全うして天に召されている一人ひとり、さらには、これから導かれようとしている一人ひとりを、神は、キリストにおいて救いの選びに与らせたのです。それはすべて、神の秘められた計画であり、約束された聖霊の証印を押すためであります。したがって、この証印を受けた者はみな、すなわち洗礼を受けた者はみな、神の子に取り戻されて=神のものとなって、神の栄光をほめたたえて生きる者となるのです。
主イエスに従うという事を弟子に命じられます。この世の死で終わる運命に嘆く事を止める事。この世の嘆きは、この世の死に行く運命に留まっている人々に任せて、私に従いなさい。と、弟子を励まされるのです。主イエスは、「父を葬りたい」と、悲しむ弟子に対して、一見冷たいと感じる言葉を命じます。しかし主を第一にして従う道にこそ、本当の父を愛する平安が与えられるという励ましの命令でした。Luku 9:23(それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…)そこには、主イエス御自身が、天の父に従う弟子としての姿があったのです。今週も共に主に感謝を献げたいと思います。
“祈りは行為です”。真に祈ることは、真実な行動になって実を結びます。どんな花を咲かせるのかは、神の御心です。わたしたちがすべきことは、信じて、愛を込めて、祈ることです。「有り得ない」と決め込んで、最初から祈りを放棄することは、信仰も愛もない証拠です。愛のある人は、信じて、粘り強く祈ることができる人です。愛も信仰も足りないで、祈ることを簡単にやめてしまうのでありましょう。旧約聖書の詩人は祈りの人ですが、その中でも13編の詩人の祈りには粘り強さがあります。「いつまで、主よ」と祈り続け、最後に「主はわたしに報いてくださった」と感謝と喜びの祈りで終わっています。愛と信仰の伴った、粘り強い祈りを、共に献げてゆきたいと願います。
エフェソの信徒への手紙は、教会が一つのキリストの体であることを語ります。そのことは、一つの信仰(信仰告白)によって互いに結び合され、一つの洗礼を受けて、キリストの体の中に組み込まれてゆくことによって示されます。このキリストの体に組み込まれた一人ひとりは、それぞれが、主から与えられた賜物(タラント)によって、教師、預言者、など、様々な働きをもって仕えます。キリストに仕える一人ひとりが、キリストの体なる教会を建て上げるのです。
わたしたちは、聖書を、人間の願いや創作に基づいて書かれた書物として読むことは避けねばなりません。聖書(預言)の言葉を書いたかの人々は例外なく、神からの聖霊に導かれて、偽りのない神の言葉として、これを書き残した(書き記した)のです。ですから、わたしたちも、そのように、聖書の言葉を読んでゆくべきなのです。そのことが、聖書を信仰と生活との誤りなき基準(ものさし)とさせるのです。
ヘブライ人への手紙は、主イエスを旧約聖書時代の大祭司になぞらえます。4章の後半から5章にかけて、そのことが語られます。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」と書きはじめ、「また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されているのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」と。罪の贖いの務めに当る大祭司が、自分を献げる仕方で大祭司となったのです。
「実を結ばなければ切り倒される」という神のご意志は変わることはありません。しかし、主イエスは、恐ろしい神のご意志の決済を、少しでも待っていただくために、十字架にひとりお架かりになられたのであります。この深い主の恵みを味わい知ったわたしたちは、ほんとうの悔い改めに導かれるはずです。洗礼を受けたということは、このキリストの恵みを受け入れて、常に神のもとに立ち帰ってゆく者(=悔い改める者)に変えられた、ということです。