神の前に立とうとするが立てないのがわたしたちなのです。主を否認したペトロですが、それでも彼は、火にあたってその場を立ち去ろうとはしません。主を否みながらも、なおも、主を信じようとする姿が、そこにはあります。神を信じることにおける、心の揺れと人間の脆さを、ペトロは示しています。そんなわたしたちを丸ごと救ってくださるのが主イエス・キリストです。
大祭司はすべて人間の中から選ばれました。彼は人間の罪の贖いのために犠牲の供え物をささげる務めに仕えていました。しかし大祭司も弱さをまとっている一人の人間でした。それゆえ、人を思いやることができたのです。そして、その弱い自分自身のためにも、罪の贖いの供え物をささげなければなりませんでした。それと同じように、いやそれ以上の方としてキリストも神によって選ばれ、人間を救う犠牲の供え物として自らをささげられ、永遠の救いの源となられました。
主イエスはペトロを諌めます。「剣は納めよ」と。もはや人間の力は必要ではなくなった。十字架の上の死という犠牲の愛だけが求められる時代に入るのだと主イエスはいわれているかのようです。そして、それは主イエスだけが“飲むべき苦い杯”でもあるのだと。主イエスのこの決意=覚悟の死によって救いの道が開かれていることを感謝しましょう。
教会で礼拝をささげるとき、わたしたちはその栄光に与り、救いの希望を確信します。主イエスは、わたしたちに、“御名”という救いに満ちた父の栄光を示し続けて下さいます。わたしたちは、その主イエスを、自分たちの中に招き入れて、ここから旅立ち、人生の歩みと生活の中で“愛の業”に生かされるとき、そのことによって益々、天上における救いの栄光を見ることが出来るのです。
ナザレのイエスとして、地上の歴史に現れなさった方を、「罪からの救い主」と信じ、この方によって、この方を通して、わたしたちの造り主である「父なる神」に結び合されて行く(神の子としての身分を取り戻して行く)ことにより、健やかな“生”(命の歩み)を取戻して行くのです。教会とキリスト者が存在する意味は、この真理(神の命に結び合されて=神の息を吹き込まれて生きる幸い)を示し続ける(証しし続ける)ことにあります。
異邦人である百人隊長は、一人の部下、息子の命を得る事を心から願います。彼はこの世の常識を振り返る事なく、主イエスの御前に身を投げ出したのです。「主よ」と救いを求める彼の執り成しの信仰は、主イエスに、『これほどの信仰』と喜ばれて、認められました。その時、彼の息子は、命を得たのです。
「キリストのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」とパウロは語ります。欲情や欲望にとらわれて枯れた骨のようになっていた罪深いわたしたちは、十字架のキリストによって、今一度、命の霊を注がれて“生き返った”のです。神を愛し、神に仕える健やかな生き方を取り戻したのです。神によって造られたわたしたちは、神に仕えるという使命にほんとうに生きるとき、健やかな人生に生きられるのです。
わたしたちの世界が、今、なぜ行き詰まっているのか。その原因にある罪の問題(愛のないこと、正しさが貫かれないこと 真実がかくされてしまうこと…)を聖書の真理はつまびらかにします。主の御名によって洗礼を受けた者は、その真理を帯びている者です。したがって、その真理によって、わたしたちは生きるように召されています。真理によって生きることは、聖なる者、つまり、罪ある世とは“分け隔てられた存在”として生きるようになることです。
御言葉を守り続けて行く人々とは、主イエスが、父なる神から遣わされたことにまったき信頼をおいて行く人々なのです。人間的な力みや努力で、これを成し遂げてゆく人々のことではありません。神によって創造されていること、その神によって選ばれ続けていることに、主イエスとの出会いを通して、気づかされている人々のことであります。
わたしたちは、主イエスを信じ仰ぎ見ることによって、神の栄光に至る門を見出し、そこを通ることが出来るのです。主イエスが語られた“狭き門”がそれであり、それは、また詩篇24編で歌われる門のことです。「城門よ、頭をあげよ とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」主イエスの十字架を信じることによって、この栄光の門を見出し、主イエスと共にくぐり、永遠の救いの道に至りたいと願います。