断食するとき、頭に油をつけ顔を洗って、それと分からないようにするように、”人に気づかれず”キリスト者であることを証しすることが大切です。聖書の神が隠れておられるということは、また、次のような神であることを、意味しています。どこからでもみておられる神です。あえて、世と人々の前で、これみよがしの態度をとって、神に向かって叫ばなくとも、神は、わたしたちの信仰の姿を、格別、目立たない仕方で証ししている信仰の姿を、きちんと見ていてくださる、ということです。そういう信仰と実践が、神において認められて、何ものにも代え難い「祝福と救いの恵み」を受け取れるようになるのです。
赦しについて、主イエスは説明を付け加えられます。人が人の負い目と過ちを赦し合うことが出来ない。それが今日まで続いているわたしたちの問題です。国と国が、人と人がいつまでも諍いを続けているのはそこに「赦し」がないからです。「赦し」と「救い」と「神の国」はすべてつながっています。神の御心は、神によって造られた者が、互いに助け合うだけに留まらず、互いに赦し合う関係を築き、神の元へと戻されてゆくことです。キリストの十字架と復活の恵みに拠って、罪赦された者は、赦しの恵みを増し加えてゆく祈りを続けて、神の国が実現するために用いられることが求められていることです。主イエスは、そのことをも、主の祈りを通して、教えられたともいえましょう。
主イエスの十字架の死と葬りの墓は、わたしたちが生きる希望を失っていることの象徴です。ルカ福音書のエマオ途上の二人の弟子たちのように。しかし、そこに復活の主は必ず現れてくださり、生きる希望を授けてくださるのです。主の復活は、墓のような場所で生きてしまっている希望のなさからの解放です。「あの方は、もうここにはおられない」のです。わたしたちも「もうそこにはいない」のです。
エルサレムというこの世の権力が詰まった町に住んでいる人々は口を揃えていいます。みすぼらしい主イエスの姿をみて「これはどういう人だ」と。穏やかではないからです。世の楽しみと権力を手に入れても、魂の平安と神の国への切符を手に入れられない人々の叫びです。それに比べて主イエスを迎えている群衆は違います。「この方はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。この群衆が三日後には”心変わりする”と批判的な解釈がなされて来ました。ですが、救い主と明確に告白できなくとも、「預言者」として認める(気づく)ことから、救いの信仰は始まっていくのではないでしょうか。
主イエスは、具体的な祈り方についてお教えくださいます。異邦人とは本当の神を知らない人々という意味です。「父」と呼ばせていただけるような関係を作れていない者は、神への絶対的な信頼関係がないので、結果として、くどくどとした、言葉数が多い祈りになっているのだと。信頼関係がない間では空しい言葉がいたずらに飛び交うだけです。そういう祈りになってはならないと。神はすべてをご存じだから、祈らなくてよいのではないのです。全てをご存じだからこそ、なお一層わたしたちは、父なる神を信頼して、祈りをささげてゆくのです。祈りは「委ねること」でもあります。この方ならと信じて、祈るとき、思いもよらない神からの報いが与えられます。
善き業である施しをするにあたっては次のことを心がけねばなりません。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないために」と。右の手のすることを左の手に知らせるなとは不可能です。それほどにして人の目には触れないようにすべきであるという意味です。信仰らしい演技は止めなさいの教えです。
そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださると。隠れた業とはこっそりとではなく、観客を呼び込むような施しは意味がないということです。世には、演技をして、賞賛を得ることを顧みない働きをしている人々がいます。そういう人が、神から永遠の命という何ものにも代え難い報いを、神から間違いなく授けられるのです。
ここでの主イエスの教えの帰結は、「天の父のように完全になる」です。それは神の愛そのものに包み込まれてしまうということを意味しています。しかし、それは本当に難しい道です。十字架の主イエスの後ろ姿を見失うことなく、歩み続けねばならない道だからです。主の背中には、鞭を打たれて肉が裂け、血潮が噴出しています。それはすべて、わたしたちの愛のなさであることを意味しています。罪そのものを背負われている主イエスの愛の背中を見つめ続けることによって、わたしたちは、キリストの愛を一歩一歩知ってゆくのです。
主イエスは「神に対して誓ってはならない」とはいわれません。神のものとされているものの生き方のことです。誓いには願いや意志が入り込みます。それを神がどう判断なさるかは神に委ねるほかありません。願いは聞かれたかのように誓い始めてしまうという、神に「然り」と「否」をお聞きすることなく、都合や願いを一方的に神に押し付けるように誓い始めることによって引き起こされる「罪の問題」を指摘されるのです。神に対して誓いをするならば、神が然りと言われることにも神が否といわれることにも従う覚悟をもつべきであるというのが主イエスの教えです。その覚悟を身をもって示されたのが十字架の主です。そのことを、レントのときもう一度思い起こしたいと思います。
ファリサイ派や律法学者が、主イエスに厳しく批判されてしまった原因は「神の愛に応えて生きる」という姿勢を見失ったからです。むしろ、神の愛を手に入れるための手段として、厳しい戒めを守るという方向に向かってしまったのです。十字架に架かり、神の子としての命を投げ出すほどに愛を注いでくださった恵みにどう応えて行くのか?そのことを考えるレントでありたいと思います。
「信教の自由」から考えるわたしたちキリスト者の自由とは、自分を主語主体として、何を信じてもよいということとは違います。十字架のキリストが約束してくださった罪の赦しと永遠の命という報い以外には何一つ望まないという信仰から来る(信仰者の)応答による「自由な生き方」のことをさしているといえましょう。