本日は、平和主日を迎えています。しかし、世界中を見渡せば、冒頭でもいいましたように、人と人とのいがみ爭いばかりです。そのために今も、幼い命をはじめ沢山の命が奪われています。神の怒りの下にわたしたちは置かれています。しかしわたしたちが、滅ぼされないで、世界が保たれているのはキリストの十字架の赦しのゆえです。「へりくだって」「十字架の死に至るまで従順であった」主イエス・キリストによって世界は保たれているのです。主なる神は、正しい(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、悪い(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、変わることなく、救いの恵みを注がれる方であることを信じ、キリストの愛と平和を伝えてゆきたいと思います。
ユダヤ人にとって神の業が顕現することは恐怖です。神の前に汚れている自分たちは、神に撃たれて消え去る定めにあると信じているからです。「人間に=ナザレの人イエスにこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」とあります。神を恐れることは、また、神をほめたたえていることにつながります。神をまことに畏れ(恐れ)る者は、神に対して謙遜となります。それが、神への礼拝となります。神に出会うとは、神に選ばれることでもあります。汚れた罪深いこのわたしに(わたしたちに)御心を向けてくださったことを、まずは、恐れ、そして、感謝と賛美をささげてゆくところに、健やかに人として生きる道への解き放たれが起こるのです。癒され起き上がった病人のように。
悪しき霊の支配力を、この話のように奇跡的な業で簡単には追放することはできません。最後は、主イエスが十字架に架かることによってしか実現することはありません。益々、合理化と利潤を優先する現代において、そうでない者たちを排除して生き残ろうとする社会は健全な社会ではありません。聖書はそのことを一貫して語ります。「キリスト者は、損を承知で、物事を引き受ける歩みをすることを祈り続ける人である」と語った人がいます。100%は無理でしょうが、わたしたちは、主イエスの十字架の恵みの力を借りて、悪霊の支配を遠ざけ、健やかな命の営みを作り出すことを目指してゆきたいと思います。それが、今の時代に、わたしたちキリスト教会が伝えて行くことだと信じます。
主が嵐を静められたことを見ていた人々は驚きます。「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。この感嘆は、もちろん主への圧倒的な権威に対してです。しかし、人々のこの驚きを、わたしたち一人ひとりと教会も自分たちに向けられるものとしてゆかねばなりません。「こんな時でも、教会というところは、キリスト者と呼ばれる人たちは」と感嘆を受けられるようになりたいと願います。嵐は簡単には治まることはないでしょう。しかし主にしっかりと結び付けられている教会とそこに生きる一人ひとりは、いつも”凪”なのです。「あなたがたを選んだのは私である」という主の招きを信じて船に乗り込み、神の国を目指して出航しましょう。
主イエスは、弟子となることを厳しく説かれます。だれ一人として弟子になれないのではないのかと思うほどに。ですが主イエスは語られます。あなたに与えるわたしの恵みはそれだけ価値があるのだと。「信従」(弟子となる)という課題は、信仰を与えられた一人ひとりが最期のときまで問い続ける主題の一つです。救いの恵みを受けるだけに留まらず、弟子となって信仰の道を歩み、永遠の命の世界へ入るために、主イエスは、天から降られて十字架にお架かりになられ、復活の栄光の出来事をもって、わたしたちを最後の最期まで、導いてくださる方となられたのです。信じて歩みましょう。
ある人はこういいました。「もう人生の問題があり過ぎて教会へ通うどころではありません。」この人の立場や気持ちはわかります。しかしほんとうにはわかってはならないと思います。そういうときだからこそ、「教会へ来て、主イエスの下で祈るべきなのです」夕方になって、すなわち、人間の事情が終わってから、自分の力で片付けてから主イエスのもとへ来るのではなく、即座に、主イエスのもとへかけつける者でありたいと願います。
主イエスは、百人隊長の信仰に答えらます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるよう」と。「信じる者は救われる」という素朴な信仰が実現した瞬間です。しかしそれは、いわゆるご利益信仰ではありません。主イエスは百人隊長の信仰に対して「アーメン」と同意してくださっただけなのです。主が同意される=義とされる。そこに思いもよらない奇跡が起こっていくのです。
重い皮膚病は癒されますが、治癒という次元を超えて、いのちの回復へと向かいます。ユダヤ社会への復帰です。主イエスは、モーセの手続きを勧めます。注目すべきは、このことを「誰にも話さないように」と命じられている点です。主の目的は「癒しの奇跡による信仰」ではありません。驚くべき奇跡の業を通して「神の栄光と権威」が示されることであり、そのことにより神の下に回復されてゆくことです。しかしそのために主イエスは十字架に架かって、人々を神の下へ取り戻してゆくしかありませんでした。神の栄光はそこに示されることとなり、それを確証するのが「主の復活」となります。
主イエスが示された権威は、この世からではなく、天の父なる神からのものです。それは、真摯に神の言葉(主イエスの教え)に聴き、その通りに生きようと志す者には、自ずと感じられる天の権威です。教会は、その権威を授けられたところであり、またそこに生きる一人ひとりにも、その権威が授けられています。パウロが「あなたがたは神の神殿です」という通りです。主イエスのみを信仰の土台に据え、信仰の家を建て上げるところに、神の権威は宿ります。
「良い実を結べ」という主の声が響き渡ります。ヨハネ15章には、ぶどうの木の譬えがあります。主イエスという木につながって、そこから良い実を結ぶことの大切さが語られていますが、最後でこういわれています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」と。「愛にとどまる」ということが繰り返されています。良い実を結ぶということはこのことではないでしょうか。そして、父の御心を行うとは、父の掟を守ってその愛に留まり続けるということだと思います。