12弟子の中から、主イエスを裏切る者が出ます。イスカリオテのユダです。彼については、様々な解釈がありますが、それはすべて、人間の思いです。神の思い=主イエスのお考えではありません。思えば、イスカリオテのユダだけを責めるのもおかしなことです。その他の11弟子も全員、十字架の主イエスを置いて逃げ去ったのです。主を裏切ったのです。それでも、主イエスは、この12弟子を選ばれた。神の選びの不思議さを思うと同時に、わたしたち一人ひとりも、また、主の基準で選ばれて、ここに集っている一人ひとりです。そのことを思うとき、主の深い愛と恵みをも思わざるを得ません。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。「収穫は多い」とは、主の憐みを受け、真実な飼い主の下に取り戻されねばならない多くの人々がこの世にはいるということです。しかしその収穫を得るために働く人が少ないと。これは伝道者が少ないという意味ではありません。熱心に神に向かって、嘆きと悲しみと罪に満ちた地上に神の力が及ぶように、神に祈り願いなさい!と。実際の「働き手」はその祈りから呼び起こされるのだと。それは、祈ったあなたかもしれない。神さまがお決めになり、選びだされることです。教会とそこに集う一人ひとりが、神の収穫のためになすべき務めは、それはまず、祈りなのです。
主イエスがなさろうとしたことは、神から引き離す悪しき諸々の勢力=罪を、世の人々から取除き、神の前にすべての人が取り戻されて、健やかな命の回復がなされ、平安の内に歩み始めることです。シャロームと互いに心から挨拶できる世界を実現するために、主イエスは来られたということを、心に刻みたいと思います。そして、それが伝わらなかった、にも関わらず、主は、わたしたちの罪の救いのために、十字架の上で死んでくださったということも併せて、心に刻みたいと思います。
マタイがここで言おうとしていることは、死んだ人がすぐに生き返ったとか、重い病がたちまち癒されたということではありません。重要なことは神に向き直って、回復された、ということです。使徒パウロは、後に、ローマの信徒への手紙でこう言っています。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14:8)
ハイデルベルク信仰問答問1でも「あなたにとって唯一の慰めは何ですか」への答えは「生きているときも、死んでいるときも、イエスキリストのものであることです」と。キリストを通して、神のものに回復されたとき、本当の「生」を受けたといえましょう。それが救いなのです。神と共に生きるいのちの「永遠の命の回復」のことです。
新しいものが存在する(やって来ている)のに、いつまでも、古いものに拘ったりしがみつくようなことをしていたら、神からの救いと祝福=新しい命の歩みは得られません。「信仰とは変革である」と語った人がいますが、信仰者は、パウロのいうように、外側(ハード)は衰え古びていっても、内側(ソフト)は常に新しくされ続けていき、やがて、新しき天と地が実現したとき=主イエスが再び地上に来られて、世を統べ治められ、救いを完成されるとき、神の命の世界へと救い上げられて行くのだといえましょう。そのときまで、神の命(永遠の命)に与かる希望の内に、キリストにあって、常にこの世とは全く異なる”新しさ”の中に、わたしたちは生かされてゆくのです。
主イエスは力や権力によってではなく、愛に生きるように=聖霊の実りに生きるように言われます。パウロも、いつも自分の中に新しく生まれてくる聖霊の実りを発見して、感謝して喜んでいたように思います。からしだね伝道所が豊かな実を結ぶとは単に人数が増えることではなく、聖霊に従う新しい生き方の実りが日々豊かに育っていくこと、古い人間である自分の中に、聖霊の新しさを発見していく群れになることが大切です。わたしの中に、家族との関係の中に、わたしたちの職場や学校や社会の中に、そして、世界の中で、キリスト者たちが富や力を神から与えられ、預かっている賜物をささげつつ、古い自分(罪)を悔い改めて、聖霊に従う新しい生き方をしていきたいと思います。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と主はいわれます。世の人々は、自分も含めて”正しさ”(わたしは間違っていない)が大好きです。あなたも「罪人の一人だ」といわれることに耐えられません。キリストは反対です。罪人の一人として数え上げられることをよしとされるのです。「あの人は罪人だ」と指摘しているあなたも「罪人の一人だ」ということに気づかされねばなりません。神からすれば全員「罪人」なのです。罪人を招くために、地上に来られ、しかも十字架に主イエスは架かられた。この恵みの食事会に招かれていることに感謝し、一人でも多く人を招くことができるように祈り努めたいと思います。
本日は、平和主日を迎えています。しかし、世界中を見渡せば、冒頭でもいいましたように、人と人とのいがみ爭いばかりです。そのために今も、幼い命をはじめ沢山の命が奪われています。神の怒りの下にわたしたちは置かれています。しかしわたしたちが、滅ぼされないで、世界が保たれているのはキリストの十字架の赦しのゆえです。「へりくだって」「十字架の死に至るまで従順であった」主イエス・キリストによって世界は保たれているのです。主なる神は、正しい(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、悪い(とわたしたちが勝手に思う)者の上にも、変わることなく、救いの恵みを注がれる方であることを信じ、キリストの愛と平和を伝えてゆきたいと思います。
ユダヤ人にとって神の業が顕現することは恐怖です。神の前に汚れている自分たちは、神に撃たれて消え去る定めにあると信じているからです。「人間に=ナザレの人イエスにこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」とあります。神を恐れることは、また、神をほめたたえていることにつながります。神をまことに畏れ(恐れ)る者は、神に対して謙遜となります。それが、神への礼拝となります。神に出会うとは、神に選ばれることでもあります。汚れた罪深いこのわたしに(わたしたちに)御心を向けてくださったことを、まずは、恐れ、そして、感謝と賛美をささげてゆくところに、健やかに人として生きる道への解き放たれが起こるのです。癒され起き上がった病人のように。
悪しき霊の支配力を、この話のように奇跡的な業で簡単には追放することはできません。最後は、主イエスが十字架に架かることによってしか実現することはありません。益々、合理化と利潤を優先する現代において、そうでない者たちを排除して生き残ろうとする社会は健全な社会ではありません。聖書はそのことを一貫して語ります。「キリスト者は、損を承知で、物事を引き受ける歩みをすることを祈り続ける人である」と語った人がいます。100%は無理でしょうが、わたしたちは、主イエスの十字架の恵みの力を借りて、悪霊の支配を遠ざけ、健やかな命の営みを作り出すことを目指してゆきたいと思います。それが、今の時代に、わたしたちキリスト教会が伝えて行くことだと信じます。