神の愛と憐みは律法主義(律法順守)の中にこそあるとして譲らないファリサイ派は、いつの間にか、安息日の主(支配者)となっていました。神の上に立って、神の御心を実現しようとする傲慢な思いを打ち砕くために、主イエスは、安息日の(を定められた)本当(本物)の主として地上に来られたことを、改めて心と身体に刻みたいと思います。そのことはまた、なぜ毎週礼拝を守るのかということにも繋がってゆきます。わたしたちキリスト者と教会にとって安息日である主日礼拝をささげることの意味は、御子キリストを遣わす程にして神のもとへ取り戻そうとされる神の憐みへの感謝と、神の愛と慈しみに生きる希望を確かなものとするときなのである、ということを。
主はいわれます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
しかし、これを聞く多くの人は思うでしょう。主イエスの軛は何と負い難く、その荷は重いであろうと。それでも、主イエスは、あえていわれます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」のだと。「一人で担うには重かろうと」と主イエスは言われているかのようです。わたしが模範となって、共に、罪と弱さによって生じたあなたの重荷と疲れを担って行こうではないか。あなたに教えよう、いや、是非学んでほしい。「本当の軽やかな生き方」というものを、主イエスはそう語っていると思います。
主イエスが奇跡の御業を起こされる前には「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」という御言葉があったことを忘れてはなりません。今でも神が関わってくださったに違いないと思うような奇跡は起こっています。そのとき、わたしたちは何を思うか。間違っても自分の信仰が高まったとか深まったとか思ってはなりません。神を一層畏れ悔い改めるしかありません。滅ぼされてしまったソドムよりもあなたがたの罪は重いと主イエスから言われることがないように、思い上がったわたしたちが、神の裁きに遭うことを恐れ謙遜に歩むことに努めたいと思います。と同時に、裁きの恐ろしさは、主イエスが全て担っていてくださることに感謝をささげてゆきたいと祈ります。
神から授けられた知恵は、神を畏れつつ用いてこそ、始めて、知恵は知恵としてその正しさが証明されるのです。「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とはそういうことだと思います。人間の英知=知恵は軽んじられる必要はまったくないといえましょう。ただ、その知恵が何処から来ているのか、なぜ与えられたのか、そして、それを何のために用いればよいのか。その用い方(働き)によって、その知恵が持っている正しさというもの、すなわち、神が与えた本物の知恵であるかどうかは明らかになるといえましょう。神を畏れ、神への祈りをもって、与えられた知恵を用いるとき、知恵の元である神の知恵と真理とは自ずと証明される(明らかとなってゆく)こととなります。
神の永遠の救いとは、これまでに汗を流し、あくせく稼いで、持ち合わせたあらゆる物を並べ立てても、手に入るものではありません。一度はすべて手放さなければなりません。洗礼者ヨハネは、その意味では、わたしたち信仰者の模範でもあります。悔い改めて=神の方へ向き直って、ただひたすらにキリストが来られる(救いが与えられる)ときを祈って待ち望む。信仰者のあるべき姿は、それしかないといえましょう。
荒れ野、それは、場所とか地形ではありません。世俗の中にあっても神に近づくことが出来る場所です。わたしたちプロテスタント教会は、ある意味、世俗を重んじて来ました。それは世俗にまみれて信仰生活を送るということではありません。神がそこで生きよと命じられた場所でありながら、しかしそこが神から自分を遠ざける場所であることを弁えつつ、荒れ野に立って歩むことを志す信仰を積み重ねる道なのです。そのためには、主イエスがヨハネについて語られた言葉「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」の深い意味を祈ってゆかねばならないといえましょう。
この個所(博士来訪)のこれまでの解釈の多くは、「希望の星」が救い主の場=救いへと導くというものです。その解釈も間違っていないでしょう。しかし、その救いの星は、いつもそれと分かるような仕方で、希望の星として輝いているとはかぎりません。いやむしろ、そう見えないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。東の方の博士らが「不気味な星」として認識したように、わたしたちを惑わせ、訝しがらせるような状況へ追い込む現象として起こっているかもしれません。しかし、まさに、そのときに、東の方の博士らのように「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と救い主誕生の場所=救いの場を尋ねる求めることから始めてゆきたいと思います。
起き上がって光を放つようになるあなたがたの働きによって、やがて、数え切れない人々が颯のように、あなたの子となるために、金銀を携えてわたしのとこへやってくるであろう。これはイザヤが幻のうちに見た壮大な光景かもしれません。しかしそれが現実となると信じるとき、今の状況は徐々に変わってゆくのです。その積み重ねの先で最後には、ただ、主の御名が、神の民イスラエルの栄光なる神の聖なる名がほめたたえられるのです。「ただ、神の栄光のために」それが、神によって造られ、御子をキリストを遣わされるほどにして救ってくださった神にささげる祈りと応答です。
一年を終えるにあたり、もう一度、思いを新たにして、歩み出したいと願います。
夢から覚めたヨセフは、すべてのことを理解し、マリアを迎え入れる決断をします。今自分に課せられた務めは、神の大いなる救いの計画の一端を担うことなのだと信じて。「神は我々と共にいる」ということは、信仰者ヨセフが、神の民イスラエル(ユダヤ人)が、そして、わたしたちが、本当に”正しく”生きるとは何か、ということに気づくまで、伴われる神なのです。わたしたちも、ヨセフのように、神の救いの計画を担う一人ひとりとなる祈りをささげつつ、クリスマスの御子キリストをお迎えしましょう。
光の主イエス・キリストが来られるまで、ユダヤ人(とユダヤ人を救いの基とする人類)は律法を守ることによってしか手段をもっていませんでした。しかし、それは律法主義という帰結で破断します。もはや、律法は罪を暴き立てるだけで、救いは授けられないと。ゆえに創造主なる神は、ここに救いの恵みと真理を目いっぱい(尽きることなく)携えた御子キリストを遣わされたのです。したがって、この方の言葉、この方のなさることの中に、神の全てが示されているといえましょう。「神を見た者はいない。父のみふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」これはキリストを信じる者は「救いを見る者となる」という意味です。御子の誕生を祈りつつ待ちましょう。