• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年12月29日(年末感謝礼拝)イザヤ書 60章1節〜9節「栄光と救いの到来」 道家紀一牧師

起き上がって光を放つようになるあなたがたの働きによって、やがて、数え切れない人々が颯のように、あなたの子となるために、金銀を携えてわたしのとこへやってくるであろう。これはイザヤが幻のうちに見た壮大な光景かもしれません。しかしそれが現実となると信じるとき、今の状況は徐々に変わってゆくのです。その積み重ねの先で最後には、ただ、主の御名が、神の民イスラエルの栄光なる神の聖なる名がほめたたえられるのです。「ただ、神の栄光のために」それが、神によって造られ、御子をキリストを遣わされるほどにして救ってくださった神にささげる祈りと応答です。

一年を終えるにあたり、もう一度、思いを新たにして、歩み出したいと願います。

2024年12月22日(クリスマス主日礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「神は我々と共にいる」 道家紀一牧師

夢から覚めたヨセフは、すべてのことを理解し、マリアを迎え入れる決断をします。今自分に課せられた務めは、神の大いなる救いの計画の一端を担うことなのだと信じて。「神は我々と共にいる」ということは、信仰者ヨセフが、神の民イスラエル(ユダヤ人)が、そして、わたしたちが、本当に”正しく”生きるとは何か、ということに気づくまで、伴われる神なのです。わたしたちも、ヨセフのように、神の救いの計画を担う一人ひとりとなる祈りをささげつつ、クリスマスの御子キリストをお迎えしましょう。

2024年12月08日(待降節第Ⅱ礼拝)ヨハネによる福音書 1章6節〜18節「キリストが来られる」 道家紀一牧師

光の主イエス・キリストが来られるまで、ユダヤ人(とユダヤ人を救いの基とする人類)は律法を守ることによってしか手段をもっていませんでした。しかし、それは律法主義という帰結で破断します。もはや、律法は罪を暴き立てるだけで、救いは授けられないと。ゆえに創造主なる神は、ここに救いの恵みと真理を目いっぱい(尽きることなく)携えた御子キリストを遣わされたのです。したがって、この方の言葉、この方のなさることの中に、神の全てが示されているといえましょう。「神を見た者はいない。父のみふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」これはキリストを信じる者は「救いを見る者となる」という意味です。御子の誕生を祈りつつ待ちましょう。

2024年12月01日(待降節第1礼拝)イザヤ書 2章2節〜5節「戦いは終わった」 道家紀一牧師

主なる神は、わたしたちと世界を見捨てられることはされません。「ヤコブの家」に集う者よ、いや、呼び戻される者たちよ、「主の光の中を歩もう」ではないかと、よびかけ続けられるのだと、イザヤは語ります。神の教えと神の言葉に耳を傾けようとする人々は必ず現れます。主がお選びになられます。「その日」は「終りの日」として必ず来ます。今一度の艱難は、その日に向かっている「神の裁き」のときなのです。そのこと悟って、この裁きの時を、受け止めて待ち続けて、人々と世界の模範となること、それが、教会には求められていることだと信じます。剣を鋤に、槍を鎌に変えることがおできになる方が、今年も、まもなく誕生されます。光の主イエス・キリストの誕生を、待ち望みましょう。

2024年11月24日(収穫感謝礼拝)マタイによる福音書 11章2節〜6節「主イエスに何を見るか」 道家紀一牧師

主イエスはいわれます。「わたしにつまずかない人は幸いである」と。つまずくの語源はスキャンダルです。多くの人にとって、主イエスは”つまずき”です。主イエスの姿と言葉を見聞きして、人は戸惑いを覚えます。「まさか、そんなことがあろうか」と。しかしそのつまずきの中にこそ、真の救いへの”道”が隠されているのです。驚くべき主イエスの御業にこそ、救いがあります。御言葉を謙遜にへりくだり受け入れるとき、わたしたちは、そこに、神の救いを見ることが出来るのです。使徒パウロはいいます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」(一コリント1:18)十字架の主の姿に救いはあります。

2024年11月17日(主日礼拝)マタイによる福音書 10章40節〜11章1節「キリスト者は小さき者」 道家紀一牧師

異邦人の国日本はキリスト者でない人々ばかりです。家族も、職場も、学校も、地域も。そのような環境で、神に仕える「小さき者」(少数者であるキリスト者)がいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような反応を得ることが出来るかどうかが問われます。「どうせ話しても無駄だとか」「関心などもたいないだろう

」と諦めてはなりません。(教会の外にいる)人々の救いに関わることなのです。「永遠の命になど興味はない」とか「死んだらそれで終り」と呟いている人々からいかにして「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」ような関心を得られるか。それが、主イエスを伝道するということであり、一人でも多くの人を救いの真理(信仰)へ導くということになるのです。

2024年11月10日(主日礼拝)マタイによる福音書 10章34節〜39節「命のふさわしい用い方」 道家紀一牧師

自分の十字架を担うことを恐れ、担おうとしない者は、「自分の命を得ようとする」=「守ろうとする」者であると一蹴されます。その人は、結局は神から与えられている「命」(生きる生命そのもの)を失うことになるであろうと。たとえ命を長らえても、生きているようで死んでいる人生に過ぎないのだと。しかし、主イエスのために、少しでも、自分の十字架を担おうとする者は、神から与えられている命を全うして、人生を終え、永遠の命(神の命)の世界へ導かれるであろうと。神から与えられた命を、何のために用いるのか。神の愛と真理を証しするため、神の栄光を指し示すために、わたしたちは、喜んで、感謝して、命をささげてゆきたいと願います。「主よ用いてください」と。

2024年11月03日(聖徒の日礼拝)コリントの信徒への手紙 二 1章3節〜7節「唯一の慰め」 保科 隆牧師

「慰め」という言葉を聞くと「慰められる」という感傷的な響きを感じるが、そうではない。キリストと結び付けられる言葉である。キリストから与えられる「慰め」である。宗教改革期(16世紀)の有名な「ハイデルベルク信仰」の問1「唯一の慰めは何ですか」に対し「生きている時も死んでいる時もイエス・キリストのものである」と答えている。これはローマ14:8「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」に基づいている。友人の最期に見舞いをしたときに「体も魂も主のものです」と祈った。慰めという字は、心を「熨す」という意味がある。萎えた心を引き延ばすのが、キリストによる「唯一つの慰め」であることを確信したい。

2024年10月27日(主日礼拝)マタイによる福音書 10章26節〜33節「恐れずに進もう」 道家紀一牧師

わたしたちは最後に問われます。神を信じ、キリストを仰ぎ見て生きたのかと。世を恐れて、キリスト者であることを恥じて、過ごすことはなかったのかと。キリスト者は、最後の審判を恐れるべきです。主イエスに執り成していただけるような歩みを心がけるべきです。しかし気を付けるべきことは、神の恵みに応えて行くという姿勢です。
キリスト者らしい発言をしたとか、実践したとかいう積み上げ(功績)ではなく、ただひたすらに、神を恐れて、神の愛と恵みの支配の下に生きようと祈り努めた結果として、最後の審判のときに「あなたはわたしの仲間である」といっていただけるよう「恐れることなく、信仰が伴う人生と生活とを歩んで行くこと」です。

2024年10月20日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 10章16節〜25節「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 道家紀一牧師

主イエスは、耐え忍ぶ者の「心構え」の言葉を残されます。弟子が師に勝ることがないように、僕が主人を超えることがないように、神には仕えるのだと。神を超えてはならないということです。信仰の道は、どこまでいっても、先立つ主の後ろ姿を仰ぎ見つつの歩みです。たとえ、その主がベルゼブル=十字架に架けられる罪人といわれようとも、その主を信じて、世の迫害に耐えて行くのが信仰者です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、『逃れの道』をも備えていてくださいます」(一コリント10:13)