• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2024年06月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 8章1節〜4節「御心ならば」 道家紀一牧師

重い皮膚病は癒されますが、治癒という次元を超えて、いのちの回復へと向かいます。ユダヤ社会への復帰です。主イエスは、モーセの手続きを勧めます。注目すべきは、このことを「誰にも話さないように」と命じられている点です。主の目的は「癒しの奇跡による信仰」ではありません。驚くべき奇跡の業を通して「神の栄光と権威」が示されることであり、そのことにより神の下に回復されてゆくことです。しかしそのために主イエスは十字架に架かって、人々を神の下へ取り戻してゆくしかありませんでした。神の栄光はそこに示されることとなり、それを確証するのが「主の復活」となります。

2024年06月09日(主日:花の日礼拝)マタイによる福音書 7章24節〜29節「土台が大切」 道家紀一牧師

主イエスが示された権威は、この世からではなく、天の父なる神からのものです。それは、真摯に神の言葉(主イエスの教え)に聴き、その通りに生きようと志す者には、自ずと感じられる天の権威です。教会は、その権威を授けられたところであり、またそこに生きる一人ひとりにも、その権威が授けられています。パウロが「あなたがたは神の神殿です」という通りです。主イエスのみを信仰の土台に据え、信仰の家を建て上げるところに、神の権威は宿ります。

2024年06月02日(主日礼拝)マタイによる福音書 7章15節〜23節「良い実を結ぶ行い」 道家紀一牧師

「良い実を結べ」という主の声が響き渡ります。ヨハネ15章には、ぶどうの木の譬えがあります。主イエスという木につながって、そこから良い実を結ぶことの大切さが語られていますが、最後でこういわれています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」と。「愛にとどまる」ということが繰り返されています。良い実を結ぶということはこのことではないでしょうか。そして、父の御心を行うとは、父の掟を守ってその愛に留まり続けるということだと思います。

2024年05月26日(三位一体主日礼拝)マタイによる福音書 7章13節〜14節「狭い門と広い門の違い」 道家紀一牧師

古くから「キリストに倣いて」という信仰があります。“イミタチオ・クリスティ”。

“キリエ・エレイソン”(主よ憐みたまえ)と共に大切な信仰の在り方です。縋るだけが信仰ではありませんが、何のために縋るのか。そのことがしっかりとしていないとご利益宗教(信仰)で終わってしまいます。神の律法に生きられない我、しかし、その愚かな自分を、救い出してくださった、主イエスに縋りつつ、一つまた一つと、わたしたちは天の御国への階段を上ってゆくのです。それは、「ラクダが針の穴を通るような」と言われてしまうほどに「狭い門」かもしれません。しかし、それを実現してくださるのが、わたしたちの救い主なる主イエス・キリストなのです。

2024年05月19日(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2章1節〜13節「一つになるとは」 道家紀一牧師

今日は多様性の社会ですが危険も秘めています。バラバラであって良いという個人主義です。根底では一致しているとの確認があってこそ多様性は生きます。一致をこの世の事柄に求めてしまうことが今起こっている痛ましい出来事の原因です。バベルの塔を築こうとする人々は今もいます。わたしたちは、神によって造られて、共生、共存して行き、次の世代へ負いきれない課題を残さないようにし、希望をもって生きられる世界を描き役割を終えたら、神のもとへ帰ってゆくだけです。違っていることを喜んで受け入れて、共に祈り、互いに愛し合い、支え合って生きて行きたいと願います。それを可能とするのは、父子聖霊なる神であると信じて。新しいぶどう酒に酔っているといわれながらも…。

2024年05月12日(母の日主日礼拝)マタイによる福音書 7章7節〜12節「良い物をくださる方」 道家紀一牧師

本日は母の日です。その始まりは教会での一人の婦人の行為にあったと伝わっています。母の追悼式で母が好んだ白いカーネーションを参列者に配ったことにあります。この母は南北戦争中に敵味方関係なく看護に務めた人でした。その愛を忘れることなく伝えるために子であるこの婦人は白いカーネーションに願いを託したのかもしれません。わたしたち教会の務めと働きは、神がくださる”良い物”・愛の御業(十字架の主イエス)をいつまでも伝えて行くことにあります。わたしたちが伝えて行く愛の業は、十字架の主イエスに基づく”良い物”であることを、大切にしてゆきたいと願います。

2024年05月05日(主日礼拝)マタイによる福音書 7章1節〜6節「主が治められる」 道家紀一牧師

人が人を赦すということはそう簡単には起こらないことです。神が統べ治めてくださらなければ実現はありません。しかしそれを実現するには、神の子の死があったことを、主イエスは伝えようとしているのではないでしょうか。主イエスが神の国の福音を説けば説くほどに反感を示す人は多くなり、十字架の死に至ったのです。ある人はこう言います。「人がその人を本気で赦したり愛したならば、その人に向けられているあらゆる非難や中傷を、ときには死をも受けなければならない。それをまず、主イエスその方がなさったのだ。わたしたちの救いは、その方にどれだけ倣えるかにかかっている」と。

2024年04月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 6章25節〜34節「思い煩う信仰」 道家紀一牧師

今ここに、食べられて、飲んで、着られて、住まうことが出来ている自分は、神によって造られ、神によって養われ、神によって、その過ちを正されて生きている存在であることを忘れてはならないということでしょう。そうすれば、わたしたちの人生はなお一層豊かなものとなるに違いありません。食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで楽しむ人生ではない、別のもう一つの意義ある景色が見えて来るのであり、その先には、永遠の命の世界という神の国がかなたにあるのです。そうなったとき、少しずつ、「思い悩み」から解き放たれてゆきます。「今日は今日、明日は明日」という軽やかさに生きられます。

2024年04月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 6章19節〜24節「あれもこれもではなく」 道家紀一牧師

わたしたちは、人生を謳歌して、あるいはまた、思いのままに生きて、その上で、神に愛されて祝福の内に、天の御国へ凱旋できると考えることは慎まねばなりません。主はいわれます。「神と富」という二つの主人に仕えることは難しいと。人はどちらかを愛し、どちらかを疎んじるからであると。思えば、わたしたちの信仰生活は、日々このこととの戦いであるといえます。「あれもこれも」は信仰では成り立ちません。信仰生活で常に問われることは「あれかこれか」=「神か富か」=「天か地か」ということではないでしょうか。

2024年04月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 6章16節〜18節「新しい禁欲」 道家紀一牧師

断食するとき、頭に油をつけ顔を洗って、それと分からないようにするように、”人に気づかれず”キリスト者であることを証しすることが大切です。聖書の神が隠れておられるということは、また、次のような神であることを、意味しています。どこからでもみておられる神です。あえて、世と人々の前で、これみよがしの態度をとって、神に向かって叫ばなくとも、神は、わたしたちの信仰の姿を、格別、目立たない仕方で証ししている信仰の姿を、きちんと見ていてくださる、ということです。そういう信仰と実践が、神において認められて、何ものにも代え難い「祝福と救いの恵み」を受け取れるようになるのです。