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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年07月06日(主日礼拝)マタイによる福音書 14章1節〜12節「B.ヨハネの死と主イエスの死」 道家紀一牧師

洗礼者ヨハネの弟子たちは遺体を引き取り葬ります。そして、主イエスのところへ行き、悲惨な結末を伝えます。主イエスも同じ運命を辿ることになります。洗礼者ヨハネの死は、主イエスの十字架の死を予期させるものです。しかし、主イエスの十字架の死は、神に背く悪しき者の手にかかって悲惨な死を迎えること以上の出来事となります。父なる神の御手によって「死者の中から復活」することとなるからです。そのことにより、主イエスの十字架の死は、単なる預言者の死から、世と人の罪を贖う「犠牲の死」(贖罪の死)に昇華されることとなります。奇しくも領主ヘロデが語った「死者の中から生き返ったのだ」という出来事が、父なる神の救いの計画の中で実現するのです。

2025年06月29日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章53節〜58節「まことの人・まことの神」 道家紀一牧師

信仰の応答がないところでは、主イエスの奇跡=神の恵みは起こりません。「人々が不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。」と。神の圧倒的な救いの恵みは、まことの神である御子キリストが、地上の中に降り立ってまことの人であるナザレのイエスになってくださったという点に表れています。「まさか」「こんなところに」「なぜあの人なのか」という驚きの中に、神の国の秘密は隠されているのです。それを見出すには、わたしたちの中に無意識に育っている偏見や思い込みや差別といった罪=神に反する思いを、主イエスに打ち破っていただくことからしか生じません。まことの神がまことの人になられた、神の深い御心に思いを馳せたいと思います。

2025年06月22日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章44節〜52節「天の国に似ている種」 道家紀一牧師

倉から新しいものを取り出す主人、古いものも取り出す主人のようであると、主イエスはたとえられます、その意味は、主イエスからの直接の教えと旧約聖書の教えです。その二つの、神の国についての教えを、弟子と呼ばれる者は、取り扱うことができるようになったということです。聖書が今日、旧約と新約と両方用いることにも引き継がれています。わたしたち(教会とキリスト者)は主イエス以前の古い教えからも主イエス以後の新しい教えからも神の国の秘密を学んでいるものであり、取り扱える者でもあるのです。「神の愛の結晶(結実)である律法を完成なさるのはキリストである」ことを忘れてはなりません。

2025年06月15日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 13章31節〜35節「賜物として聖霊を受ける」 道家紀一牧師

主イエスは、神の国の種を、様々な機会を捉えて、一人ひとりと世界に蒔かれています。たとえとは謎を意味していますが、神の国の秘密はこの世の原理原則で捉えるものではありません。主イエスが、たとえをもってお示し下さったことは、そういうことではないでしょうか。『神の支配は人間社会のスケールではない。天地創造の時より、気づいてないかもしれないが、隠された仕方で、神は種を蒔き続けており、わたしたちの意思にかかわらず、成長する=実現する』のだと。やがて、終りの日、主イエスが来られるとき、その種は完成します。その時まで、わたしたちは、(神に国の完成に向けた)神の働きを信じて、神と共に働くことを、志してゆきたいと願います。

2025年06月08日(聖霊降臨日礼拝)使徒言行録 2章14節〜42節「賜物として聖霊を受ける」 道家紀一牧師

ペンテコステの日、ペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と語ります。邪悪とは神に背くということです。今の時代にも起こっている悪しき勢力に囚われてしまうような時代状況です。そこから救われるには洗礼以外にはありません。その日、数え切れない多くの人々(三千人)が洗礼を受けて使徒たちと共に加わったとあります。教会の始まりです。「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」に熱心であったという教会の姿は変わることなく、賜物としての聖霊が、教会とそこに生きる一人ひとりに授けられている(注がれている)ことを信じ、神に背く邪悪な時代状況に対して、祈りをもって、教会は向き合っていきたいと願います。

2025年06月01日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章24節〜30節 36節~43節「毒麦とは何か」 道家紀一牧師

終末はキリストにあって選ばれている者には喜びに満ちた日です。毒麦のたとえで、主イエスが示そうとされたことは、わたしたちが勝手に救いについて決めてはならないということです。自分も含めて、どう考えても毒麦と呼ばれるまま終わってしまいそうな人や出来事、雑草のまま引き抜かれるに決まっていると思えてしかたがない人や出来事はこの世にはたくさんあります。しかし最後に救われるか救われないかは神がお決めになられます。ある人はいいます。「キリスト者は、すべてのことにおいて、忍耐して待ち続けるのだ」と。主の救いの時を信じて待つ信仰を養わねばなりません。

2025年05月25日(主日礼拝)使徒言行録 1章3節〜11節「約束の聖霊は今も」 道家紀一牧師

教会は、使徒たちの継承です。教会が使徒的である(あらねばならない)ということは、聖書に記されている救いの出来事を信じ、受け継いでいるからです。日本基督教団信仰告白でこう告白します。「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛の業に励みつつ、主の再び来りたまうを待ち望む」と。主が再び来られるとき(主の再臨)まで、教会は、キリストの証し人として歩み続けるのです。

2025年05月18日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 13章18節〜23節「神の国を来たらせる種になる」 道家紀一牧師

主イエスがいわれる良い土地では、主イエスに聞き従うような信仰を育める状態にあるのかということが問われます。道端のような心、石地のような気持ち、茨に塞がれた思いに置かれているような場所から主イエスに倣う信仰は生み出されません。信仰の種は始めから良い地に蒔かれるのではありません。いえむしろ、道端や石地や茨に覆われたような地であるわたしたちの心に蒔かれるのかもしれません。しかしそこから、わたしたちは蒔かれた種である信仰が良い実を結べる良き土地になれるように”自分の畑”を懸命に耕してゆくのです。

2025年05月11日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章10節〜17節「御言葉を聞ける幸い」 道家紀一牧師

ここで主イエスがいわれている弟子たちとは、すなわち、わたしたち教会のことです。教会は、したがって、神と神の国(神の支配)についての主イエスの言動を見聞きして、悟っているところ(群れ:集まり)なのです。毎週ささげられている礼拝を通して教会は聖霊に導かれ、主イエスから発せられる「救いの言葉」を見聞きしています。たとえをもって語られるような存在では、もはやなくなっていることを覚えねばなりません。この世に迎合して、主イエスの御業と御言葉とを、濁すことも薄めてしまうこともなく、わたしたち教会は、伝えて行く者でありたいと願います。

2025年05月04日(主日礼拝)マタイによる福音書 13章1節〜9節「種を蒔く人と場所」 道家紀一牧師

御言葉に聞いて、自分が蒔かれた畑を、それが世間から見て(人の目から見て)好ましい場所であれ、そうでない場所であれ、耕し続けて行くということが大切です。パウロは語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれ働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(一コリント3:6~9)どこに蒔かれようと「神の畑」と信じて、神による成長を確信し「御言葉に聞き続ける」ことが大切と思います。