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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年10月07日(世界聖餐日礼拝)エフェソの信徒への手紙 4章1節〜7節「一つの希望に結ばれて」 道家紀一牧師
一つになる(一致する)ということほど難しいものはありません。なぜなら、人は元々、異なって造られているからです。人は本来ばらばらなのです。人間の歴史ではしばしば一致が強調されます。それは見た目には美しく、何よりも為政者(支配者:権力者)にとって好都合なことだからです。しかしそれは、人が満足する一致であって、神がお望みな一致ではありません。一つの主(一つの洗礼)を信じる以外には異なっていてよいのです。信仰告白によって一致した後は、それぞれが自由な証し人として生きるよう進められているのです。
2018年09月30日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章20節〜28節「解放の時は近い」 道家紀一牧師
豪雨、台風、地震…次々と起こっています。「世の末」と思えるようなことが続きます。人々は不安になります。すると多くの「偽預言者」が現れます。そして、さらに人心をかき乱してゆきます。主イエスの時代も穏やかな時代ではありませんでした。しかし主イエスは、多くの人々が「世の末」を恐れる中で、さらにそれをかきたてるかのようなことをいわれます。天地も揺すられるであろう。だが、その日「人の子」が来られて「解放を告げる」と。だから「神を仰ぎみなさい」と。終わるのは人の時代であって、神の時代が完成するのです。
2018年09月23日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章5節〜19節「忍耐は命を勝ち取る」 道家紀一牧師
災害が続く夏でした。酷暑、台風、豪雨、地震…、次から次へと続きました。政治も経済も外交も、表向きは安定しているかのようですが、右傾化政策の継続、非正規雇用と格差の増大、隣国との平和条約締結への道程の困難…と問題が山積みです。しかし聖書の時代も、問題山積みでした。ローマに占領され、国内世情は不安定であり、宗教者も退廃し、天災も多く起こりました。世の末と思われるような中で異様な光を放っていたのは神殿でした。だが主はそれが崩れるとさえいわれます。最後の最後まで主を信じて耐え忍ぶ者が救われます。
2018年09月16日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章1節〜4節「貧者の一灯を越える信仰」 道家紀一牧師
神に「献げる」ことは、信仰者なら“当たり前のように”考えます。しかしこの点で、わたしたちは間違います。(罪を犯します)「献げる」ことで信仰を測り、「献げられない」ことで信仰を測ります。その点を主イエスは糺されます。「どこを向いて献げているのか」と。“自分なのか”“他者なのか”すなわち、自他ともに認められるような献げ方が「献げる」ことになるのか。「違うであろう」「献げる」とは神に向かって献げることであると。そこで一人のやもめの明日をも考えない(神に委ね切った)献げ方に目を留められるのです。
2018年09月09日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章45節〜47節「神が先に遜られる」 道家紀一牧師
信仰と生活とは同じです。生活は信仰を映し出し、信仰は生活に現れます。しかしそれは、形式的なことではありません。信仰の内容(内実)が問われることです。主イエスの時代、ファリサイ派と律法学者は、内実を問うことなく、“形”に拘りました。信仰深い祈りをとうとうとすること、いかにも信仰深い服装をすること、それが信仰深いことであると勘違いしていました。主イエスは、それを問われます。「最も愚かで体裁の悪い中に=十字架の恥辱の中に」神のみ心と栄光が輝いている、という真理を伝えるために主イエスは最期まで歩まれます。
2018年09月02日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章41節〜44節「メシアはダビデの子か」 道家紀一牧師
「救い主キリストは“ダビデの子”」という呼び名は教会ではよく知られています。しかし、その深い意味を知らねばなりません。力強い権力、知恵ある王の家系にある(子孫である)キリストという意味ではないからです。教会の主は十字架の主です。愚かな死を迎えた実に情けない主です。しかしその主は復活されることによって神の栄光を示されました。「十字架の恥辱の中に神の栄光がある」(ルター)という真実を明らかにされるために、神は主イエスを陰府から引き上げられました。ダビデの子は低きに下る神の子としての称号なのです。
2018年08月26日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章27節〜40節「生きるにしても死ぬにしても」 道家紀一牧師
「死人の復活」これほど分かりにくいもの、また、誤解されていることはありません。聖書の民は、神のいのちによって生み出されたと信じます。そして、地上の生涯を終えたならば、再び神のいのちに取り戻されると信じます。そのことを「死者のよみがえり」という仕方で、聖書は証します。しかしそれが誤解され続けました。主イエスは、その誤解をただされます。「復活するときはめとったりとついだりはしないのだ」と。すなわち、地上のあり方が、そのまま復活の有様ではないと。全く異なった神のいのちの世界に生まれ変わるのだと。
2018年08月19日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章20節〜26節「神は神に、皇帝は皇帝に」 道家紀一牧師
「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と主イエスはいいます。それは世俗と教会、信仰と生活をうまく使い分けなさいということではありません。そうではなく、信仰を持って生きるあなたは「主を明確にしなさい」ということです。この世はこの世と割り切るのではなく、むしろ、この世の中で、祈りつつ、「譲れないことと譲れること」を一つ一つ丁寧に祈って行きなさい、ということです。器用な生き方を主イエスは勧めません。十字架に架かる愚かさに徹することを求められます。間違っても使い分ける言葉に用いてはなりません。
2018年08月12日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章9節〜19節「神からぶどう園を任されて」 道家紀一牧師
わたしたちとわたしたちを取り巻く世界は、神がお造り下さったぶどう園です。耕して良い実を実らせるのがわたしたちの務めです。肥料は祈りと奉仕です。どんなぶどう園にするかは、わたしたちにかかっています。神はわたしたちを抜きにして何一つ事柄を実現されません。わたしたちに期待しているからです。わたしたちは、神からそれぞれのぶどう園の管理を託されているのです。神のぶどう園の良き管理人として、わたしたちは生きるのです。一人一人が良い実を実らせることによって、世界もまた神の望まれるぶどう園となります。
2018年08月05日(平和主日礼拝)ルカによる福音書 20章1節〜8節「本物の権威にひれ伏す」 道家紀一牧師
毎年、8月は平和をおぼえます。73年前に何が起こったのか、そして、何が間違っていたのかと考えます。その一つは、「権威」についてです。わたしたちの教会は本物の権威を知りつつも、それを忘れて、間違った権威に服した痛みをもっています。主イエスの時代も間違った権威がありました。祭司、律法学者、長老たちの権威の拠り所は、真の権威=主なる神の権威ではありませんでした。主イエスは偽りの権威の下に民を支配しようとする彼らの権威を糺されます。しかしその道は、十字架の死という道を通らねばならない険しい道でした。