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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年08月19日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章20節〜26節「神は神に、皇帝は皇帝に」 道家紀一牧師
「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と主イエスはいいます。それは世俗と教会、信仰と生活をうまく使い分けなさいということではありません。そうではなく、信仰を持って生きるあなたは「主を明確にしなさい」ということです。この世はこの世と割り切るのではなく、むしろ、この世の中で、祈りつつ、「譲れないことと譲れること」を一つ一つ丁寧に祈って行きなさい、ということです。器用な生き方を主イエスは勧めません。十字架に架かる愚かさに徹することを求められます。間違っても使い分ける言葉に用いてはなりません。
2018年08月12日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章9節〜19節「神からぶどう園を任されて」 道家紀一牧師
わたしたちとわたしたちを取り巻く世界は、神がお造り下さったぶどう園です。耕して良い実を実らせるのがわたしたちの務めです。肥料は祈りと奉仕です。どんなぶどう園にするかは、わたしたちにかかっています。神はわたしたちを抜きにして何一つ事柄を実現されません。わたしたちに期待しているからです。わたしたちは、神からそれぞれのぶどう園の管理を託されているのです。神のぶどう園の良き管理人として、わたしたちは生きるのです。一人一人が良い実を実らせることによって、世界もまた神の望まれるぶどう園となります。
2018年08月05日(平和主日礼拝)ルカによる福音書 20章1節〜8節「本物の権威にひれ伏す」 道家紀一牧師
毎年、8月は平和をおぼえます。73年前に何が起こったのか、そして、何が間違っていたのかと考えます。その一つは、「権威」についてです。わたしたちの教会は本物の権威を知りつつも、それを忘れて、間違った権威に服した痛みをもっています。主イエスの時代も間違った権威がありました。祭司、律法学者、長老たちの権威の拠り所は、真の権威=主なる神の権威ではありませんでした。主イエスは偽りの権威の下に民を支配しようとする彼らの権威を糺されます。しかしその道は、十字架の死という道を通らねばならない険しい道でした。
2018年07月29日(主日礼拝)ルカによる福音書 19章45節〜48節「わたしの家は祈りの家」 道家紀一牧師
主イエスがエルサレムの神殿に向かわれると強盗の家になっていました。境内では、両替商や鳩売りの商人たちが所狭しと店を並べていました。当時、神殿には神殿に納めるための貨幣や犠牲の動物の基準がありました。それにそぐわない者は神殿の境内に店を広げている商人たちに手数料を払って“交換”するのでした。そこに利権が発生します。神殿の上納金と商人たちに莫大な儲けとなりました。主イエスはそれを見て怒られたのです。わたしたちの礼拝も大切なものを見失ってはなりません。神にささげるべき第一のことは祈りです。
2018年07月22日(主日礼拝)ルカによる福音書 19章28節〜44節「圧倒的な恵みを注がれて」 道家紀一牧師
エルサレムは神の都と呼ばれます。“エル・シャローム”(平和の丘)というのが語源です。神の平和(シャローム)によって治められる町だからです。今やエルサレムは、人間の権力と欲望が支配する町と化していました。主イエスと弟子たちは、その町へ向かいます。主イエスと弟子たちとの思いには隔たりがあります。主イエスは悲しみと嘆きを抱きながら向かいます。弟子たちは逸る心をもって向かいます。神の権威と人の権威の隔たりです。神の圧倒的な恵みを注がれた者のみが知る本物の権威です。主の十字架と復活による恵みです。
2018年07月15日(主日礼拝)ルカによる福音書 19章11節〜27節「信じる人は、信じられる人に」 道家紀一牧師
ムナのたとえの話は、タラントのたとえとしてよく知られています。神さまが創造してくださったどんな人にも必ず何か“賜物”を与えられていると。しかし主イエスは、人間の才能のことを語っているのではありません。神によって作られた一人ひとりの誰もがもっている“力”、何があっても神に信頼している生き抜く力のことをたとえているのです。神を本気で信じる人は、周りから本気で信じられる人になり、信仰が伝わります。伝道の力とは、神を本気で信じる心にかかっています。そして、その力は神から頂いています。
2018年07月08日(交換講壇礼拝)創世記 1章26節〜2:4 詩編8編節「あなたは神様の最高傑作」 北原葉子牧師
先週は、交換講壇でした。西国分寺教会の北原葉子牧師から、創世記の最初のみ言葉を通して「あなたは神様の最高傑作」という説教を語っていただきました。人はときには間違いを犯したり、大きな失敗をします。しかし、「あなたは神様の失敗作品」ではない!と、神様ご自身が、そして何よりもイエス・キリストご自身が、命を捨てられるほどにして、高らかに宣言してくださっています。これほどに大きな恵みはありません。主にある誇りをもって生きてゆきましょう。
2018年07月01日(主日礼拝)ルカによる福音書 19章1節〜10節「徴税人ザアカイの救い」 道家紀一牧師
ザアカイという徴税人がいました。徴税人は人々に疎まれる仕事でした。彼は、心の底では悩みながらも、この仕事に就いていました。ローマ帝国の手先となって、同胞ユダヤ人の人々から税金を取り立てていました。しかし救いを求めていた一人であることには違いありません。ある日、そんな彼のところにイエスは来てくださいました。喜びと感謝に溢れた彼は、主イエスを家に導き入れます。主を迎える!それが救いです。主は来てくださいます!喜んで迎え入れるところに救いの喜びが与えられます。
2018年06月24日(西東京教区の日 教団創立記念日 礼拝)ルカによる福音書 18章35節〜43節「本当に見えているのか」 道家紀一牧師
「見えている」=「分かっている」わたしたちの口癖です。わたしたちは、自分で思っているより人生に自信があります。自分から自分を引き下げることは構いませんが、他者から引き下げられるとき、嫌な思いに満たされます。誰も好んで自分を高く言いふらす人はいないでしょうが、いたずらに引き下げる人もいないのです。それは、自分が守る範囲(守備範囲)が“分かっている”からです。自分も周りも、信仰も生活もよく分かっている=見えているのだと。主イエスはその過ちを問われるのです。本当に見えているのかと?
2018年06月17日(主日礼拝)ルカによる福音書 18章31節〜34節「神の言葉は実現する」 道家紀一牧師
キリスト教の信仰の中心は「主イエスの十字架と復活」です。しかしときに、十字架を除いた信仰がみられます。それは「罪の自覚」がない信仰を生み出します。贖罪信仰の欠如です。そして、そのことは信仰に基づく人生にも大きな影響を与えます。信仰は、苦しみや悲しみから逃れる“手段”となります。信仰がある、信仰がないに関係なく、人生には労苦や嘆きはあります。信仰は、それを真正面から受け止めて、なお、そこに踏みとどまる力を与えるのです。主の十字架の先にある復活の希望を信じて。