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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年03月11日(受難節第四主日礼拝)マルコによる福音書 9章2節〜13節「十字架の御子キリストに聴き続ける」 道家紀一牧師
ガリラヤでの伝道活動のある日、主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登りました。頂上に至った時、主イエスの姿が変貌しました。白く輝き始めました。そしてその両脇には偉大な預言者エリヤと指導者モーセが見えました。ペトロたちは驚きつつも、この輝きをそのままとどめようとします。しかし神は「わが子に聴け」と告げます。主イエスは「十字架の死と三日後の復活」を語ります。神の救いの栄光は十字架の死を経た先にあると主は語られたのです。十字架のない復活は、本物の赦しの恵ではありません。
2018年03月04日(受難節第三主日礼拝)マルコによる福音書 8章27節〜33節「神の前に出てはならない!」 道家紀一牧師
神を信じるようになりますと、いろいろ“お願い”をしたくなります。「神さま、あのね…」となります。しかし、なかなか神さまが答えてくださらない、あるいは、自分が願った通りにならない、ということがあります。そのとき、「自分の祈りが間違っていたのかも」と思えればよいのですが、なかなかそうとも行きません。「もういい、思う通りにしよう」と思うことがあります。しかしそのときまさに「神の前に出る」という罪を犯します。主イエスのペトロに叱責「サタンよ去れ」とは、神の前に出る罪を戒めているのです。
2018年02月25日(受難節第二主日礼拝)マタイによる福音書 12章22節〜32節「赦しの力を確かにする」 道家紀一牧師
主イエスの働きは聖霊の御力でもあります。しかし多くの誤解する人々がいます。悪しき霊によって、不思議な御業を行っているに違いないと。イエスが神の子キリストであることを認めない人たちです。主イエスは言われます。「神とわたしを冒涜する罪は赦されるが、聖霊を冒涜する罪は赦されない」と。神の働きそのものである聖霊の働きを認めない者は、神とキリストを拒む者より罪が重いと言うのです。どんなにキリストを否定する人がいても構いません。しかし、神の赦しの働き=聖霊の御力を拒むことは出来ません。
2018年02月18日(受難節第一主日礼拝)マタイによる福音書 4章1節〜11節「神の言葉に生きる幸い」 道家紀一牧師
受難節(レント)を守る習慣は、古代教会からありました。イースター前の40日間です。ただし、主の復活日である主日は除きました。この期間はまた、洗礼準備の期間でもありました。心身ともに神の前に清めて洗礼を受ける備えに入るのでした。洗礼を既に受けている者も、思い起こして、神の前に赦されている幸いをおぼえるのでした。この40日は、マタイによる福音書4章にある「悪魔の誘惑」に主イエスが40日40夜遭われたことに起源があります。主イエスは、そこで、「ただ神の御言葉によって生きる幸い」を示されました。
2018年02月11日(主日礼拝)ルカによる福音書 16章1節〜13節「不正にまみれたお金で友を作る?!」 道家紀一牧師
不正にまみれたお金で友を作る!?そんな話が聖書の中に、しかもイエス様の話として書かれています。本当なのでしょうか?キリスト教は、そして聖書は、「清く、正しく、美しく」を勧めるものであって、間違っても不正なお金の話など、ましてや、それを使って友だちを作りなさいなど、信じられる話ではありません。しかし聖書には書かれているのです。イエス様は次のことを教えられたのではないでしょうか。「『肉の体を持って地上を生きる限り罪は犯す』しかし、それでも、罪にまみれながら、赦されつつ生きるのが人間である」と。
2018年02月04日(主日礼拝)ルカによる福音書 15章11節〜32節「神の深い愛に触れて帰る」 道家紀一牧師

聖書の中でとても有名な話です。「放蕩息子」の話です。絵画や小説など芸術の世界でもたくさん描かれています。往々にして、話の焦点は「放蕩した息子」に当てられますが、本当の主題は「父なる神の愛」です。どんなに愚かで失敗の連続をしている者も、神は本気で赦し、受け入れてくださる。神の測り知れない深い愛が、この話の父です。この父にはもう一人息子がいました。堅実な兄です。彼は赦された弟を受け入れません。そして父の愛も理解できません。しかし父は、この兄も変わらない息子として愛しているのです。

2018年01月28日(主日礼拝)使徒言行録 27章39節〜44節「錨を切り離して進む」 平澤基幸牧師
使徒パウロは、ローマで弁明するために、囚人たちといっしょに舟に乗せられました。ところが、暴風雨に遭い(こういうことはしばしばありました)、舟が難破してしまいます。囚人を管理していた兵士は、逃亡をおそれて、囚人を殺すと計ります。ところが、全員を率いていた百人隊長は、それを思い留まらせて、全員を助けます。ここにパウロの言葉はありません。しかしパウロは、「主イエスの言葉」に留まり続けていたと思います。「わたしは必ずローマに行かねばならない」との信念を、神はあらゆる形で支えられるのです。
2018年01月21日(交換講壇礼拝)マルコによる福音書 1章14節〜20節「神の国、近づけり」 長谷川洋介牧師
主イエスは、洗礼者ヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ向かわれ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の福音の宣言をされました。福音は、「神の国が近づいた」ということです。神の国は神の支配です。神の国が来た以上、その事実を知った者は、“悔い改めて”つまり、神の方に向き直って、神の国到来を受け入れる=信じることへ向かわねばなりません。主イエスのこの呼びかけに応えた者=神の方へ向き直った者が、最初の弟子たちです。彼らは皆、神の国到来の福音を信じた人たちです。
2018年01月14日(主日礼拝)ルカによる福音書 15章1節〜10節「なくなったままで良いのか」 道家紀一牧師
ルカにはルカによる福音書特有の「たとえ話」が幾つかあります。ここでの話「99匹と迷い出た1匹のこひつじ」もその一つです。99:1という構造は、わたしたちの世の中にはしばしば生じることです。教会にも(教会にこそ!?)起こり得ることです。「勝手に迷い出て行った“たった1匹”のために」なぜそこまで面倒を見る必要があるのか?という声です。それよりも残っている正しい99匹こそ大事にするべきではないのかと。それは社会の常識です。人間の正しい判断です。しかし神のまなざしは、迷い出た1匹に注がれるのです。
2018年01月07日(新年・栄光祭礼拝)エフェソの信徒への手紙 3章14節〜21節「広く、長く、高く、深い愛」 道家紀一牧師

新年最初の礼拝を「栄光祭礼拝」といいます。礼拝は神の栄光をほめたたえることが大切です。礼拝の最後で「頌栄」を歌いますが、それはただ礼拝に出席出来て“よかったよかった”と神をほめたたえるためではありません。もっと大きなレベルで神の御名をほめたたえるのです。礼拝には、一週間の生活の中での様々な思い、人生の節目における苦悩や喜びなど、いろいろなものを抱えて出席します。しかし礼拝が終わったときには、すべて神からのものと受け止めて“アーメン”とうなづき再び世に出かけるのです。それが頌栄です。