新年最初の礼拝を「栄光祭礼拝」といいます。礼拝は神の栄光をほめたたえることが大切です。礼拝の最後で「頌栄」を歌いますが、それはただ礼拝に出席出来て“よかったよかった”と神をほめたたえるためではありません。もっと大きなレベルで神の御名をほめたたえるのです。礼拝には、一週間の生活の中での様々な思い、人生の節目における苦悩や喜びなど、いろいろなものを抱えて出席します。しかし礼拝が終わったときには、すべて神からのものと受け止めて“アーメン”とうなづき再び世に出かけるのです。それが頌栄です。
わたしたちは肉のイエスに会っていません。会っていないのに信仰(主イエスを信じる思い)が湧き上がります。あたかも歴史のイエスに(本物のイエスに)会ったかのようにして。なぜでしょう。ヨハネの手紙の著者は語ります。「目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」を伝えますと。そしてこの方は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの」である「命の言葉」なる方、主イエス・キリストであると。命の言葉、それが代々の教会に伝えられて来た方です。聖書(御言葉)と聖餐(パンと杯)という形で聞き続けている方です。
救いの星はいつもわたしたちの上に輝いています。それを見出せないのは、わたしたちが、諦めているからです。希望がないところに生きているからです。希望があるのに、希望がないかのように生きている。それがわたしたちです。なぜ、希望がなくなるのか。本物の救いに触れていないからです。東の国の学者たちは、行動を起こしました。救いの星が見えると同時に全てを投げ打って。希望がないとつぶやく人に限って行動を起こそうとしないものです。起こしているも知れません。しかし神を本気で信じて行動する中心点がないのです。
イエス・キリストの誕生にはある人の激しい葛藤がありました。神との格闘です。祈りの激しさとでもいいましょうか…父ヨセフです。彼はいいなずけの妻マリアの妊娠を知ります。彼は神の正しさに生きる人でした。神の正しさとは裁きで終わらない赦しの真理のことです。はじめ彼はマリアと離縁することによって真理を貫こうとしました。しかしそれは神の計画とは違っていました。神は恐れずマリアを受け入れることを命じます。この出来事の正しさの主は私にあると言って…人が主語である間には分からない神の恵みです。
新約聖書の始まりマタイによる福音書は「アブラハムの子イエス・キリストの系図」から始まります。なぜこのような系図から始めたのでしょうか。もっと読みやすい始まりの方がよいに決まっています。しかし、この系図には意味があります。神の長きに亘る「忍耐とご計画」が込められています。アブラハム、ダビデ、ソロモンと続く神が選ばれた人々、そして、その最後はヨセフ。このヨセフからイエス・キリストは生まれました。単純に計算しても2000年以上のときが流れています。神は人間の救いのためには待ち続ける神なのです。
一年の終りは、新しい一年の始まりでありつつ、確実に終りに近づいています。聖書で終りを意味する言葉は「主の日」です。テサロニケの人々は「主の日」を真剣に受け止めました。ところがその結果、「明日は主の日」「明後日は主の日」と勝手に決めてしまい、やがて「どうせ明日(明後日)来るならば」と、ある人は諦めはじめ、ある人は自暴自棄になりました。パウロはそれを戒めて、「キリストを信じるならば終りの日が恐ろしい裁きの日ではなく、救いの日となる」ことを説きます。十字架の主は裁き主であり救い主でもあるのだと。
終りの日=終末などと聞きますと、多くの人々は「世の終わり」というような“世の末”を思い浮かべます。しかし聖書の信仰は、違っています。聖書が語る世の終りは「神のわたしたちに対する総決算」の日のことです。神の愛によって生み出されたわたしたちは、神の愛によって導かれ続けます。しかし、神に従うことは出来ず、結局、罪を抱えたまま、最後の日を迎えます。その日、神は、わたしたちの行いの一つひとつを吟味され、「審判」をくだされます。その審判に耐えられるかどうかはキリストの贖罪の恵をしんじるかによります。
ときに主イエスは恐ろしいことをいわれます。「あなたの愛する人々を捨てて来なければわたしの弟子にはなれない」と。洗礼を受けてキリストの弟子となって生きて行こうとするとき、わたしたちは「何かを捨てる」ということは知っていますが、その何かは、出来る限り、自分の損失にならないようにと願います。しかし主イエスは「愛する者を捨てよ」といわれる。これは弟子の覚悟のことです。一度、わたしたちがしがみついている愛着あるものから離れて、キリストを信じる者として本当に必要なものを拾い直すことが求められます。