受難節(レント)を守る習慣は、古代教会からありました。イースター前の40日間です。ただし、主の復活日である主日は除きました。この期間はまた、洗礼準備の期間でもありました。心身ともに神の前に清めて洗礼を受ける備えに入るのでした。洗礼を既に受けている者も、思い起こして、神の前に赦されている幸いをおぼえるのでした。この40日は、マタイによる福音書4章にある「悪魔の誘惑」に主イエスが40日40夜遭われたことに起源があります。主イエスは、そこで、「ただ神の御言葉によって生きる幸い」を示されました。
不正にまみれたお金で友を作る!?そんな話が聖書の中に、しかもイエス様の話として書かれています。本当なのでしょうか?キリスト教は、そして聖書は、「清く、正しく、美しく」を勧めるものであって、間違っても不正なお金の話など、ましてや、それを使って友だちを作りなさいなど、信じられる話ではありません。しかし聖書には書かれているのです。イエス様は次のことを教えられたのではないでしょうか。「『肉の体を持って地上を生きる限り罪は犯す』しかし、それでも、罪にまみれながら、赦されつつ生きるのが人間である」と。
聖書の中でとても有名な話です。「放蕩息子」の話です。絵画や小説など芸術の世界でもたくさん描かれています。往々にして、話の焦点は「放蕩した息子」に当てられますが、本当の主題は「父なる神の愛」です。どんなに愚かで失敗の連続をしている者も、神は本気で赦し、受け入れてくださる。神の測り知れない深い愛が、この話の父です。この父にはもう一人息子がいました。堅実な兄です。彼は赦された弟を受け入れません。そして父の愛も理解できません。しかし父は、この兄も変わらない息子として愛しているのです。
使徒パウロは、ローマで弁明するために、囚人たちといっしょに舟に乗せられました。ところが、暴風雨に遭い(こういうことはしばしばありました)、舟が難破してしまいます。囚人を管理していた兵士は、逃亡をおそれて、囚人を殺すと計ります。ところが、全員を率いていた百人隊長は、それを思い留まらせて、全員を助けます。ここにパウロの言葉はありません。しかしパウロは、「主イエスの言葉」に留まり続けていたと思います。「わたしは必ずローマに行かねばならない」との信念を、神はあらゆる形で支えられるのです。
主イエスは、洗礼者ヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ向かわれ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の福音の宣言をされました。福音は、「神の国が近づいた」ということです。神の国は神の支配です。神の国が来た以上、その事実を知った者は、“悔い改めて”つまり、神の方に向き直って、神の国到来を受け入れる=信じることへ向かわねばなりません。主イエスのこの呼びかけに応えた者=神の方へ向き直った者が、最初の弟子たちです。彼らは皆、神の国到来の福音を信じた人たちです。
ルカにはルカによる福音書特有の「たとえ話」が幾つかあります。ここでの話「99匹と迷い出た1匹のこひつじ」もその一つです。99:1という構造は、わたしたちの世の中にはしばしば生じることです。教会にも(教会にこそ!?)起こり得ることです。「勝手に迷い出て行った“たった1匹”のために」なぜそこまで面倒を見る必要があるのか?という声です。それよりも残っている正しい99匹こそ大事にするべきではないのかと。それは社会の常識です。人間の正しい判断です。しかし神のまなざしは、迷い出た1匹に注がれるのです。
新年最初の礼拝を「栄光祭礼拝」といいます。礼拝は神の栄光をほめたたえることが大切です。礼拝の最後で「頌栄」を歌いますが、それはただ礼拝に出席出来て“よかったよかった”と神をほめたたえるためではありません。もっと大きなレベルで神の御名をほめたたえるのです。礼拝には、一週間の生活の中での様々な思い、人生の節目における苦悩や喜びなど、いろいろなものを抱えて出席します。しかし礼拝が終わったときには、すべて神からのものと受け止めて“アーメン”とうなづき再び世に出かけるのです。それが頌栄です。
わたしたちは肉のイエスに会っていません。会っていないのに信仰(主イエスを信じる思い)が湧き上がります。あたかも歴史のイエスに(本物のイエスに)会ったかのようにして。なぜでしょう。ヨハネの手紙の著者は語ります。「目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」を伝えますと。そしてこの方は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの」である「命の言葉」なる方、主イエス・キリストであると。命の言葉、それが代々の教会に伝えられて来た方です。聖書(御言葉)と聖餐(パンと杯)という形で聞き続けている方です。
救いの星はいつもわたしたちの上に輝いています。それを見出せないのは、わたしたちが、諦めているからです。希望がないところに生きているからです。希望があるのに、希望がないかのように生きている。それがわたしたちです。なぜ、希望がなくなるのか。本物の救いに触れていないからです。東の国の学者たちは、行動を起こしました。救いの星が見えると同時に全てを投げ打って。希望がないとつぶやく人に限って行動を起こそうとしないものです。起こしているも知れません。しかし神を本気で信じて行動する中心点がないのです。
イエス・キリストの誕生にはある人の激しい葛藤がありました。神との格闘です。祈りの激しさとでもいいましょうか…父ヨセフです。彼はいいなずけの妻マリアの妊娠を知ります。彼は神の正しさに生きる人でした。神の正しさとは裁きで終わらない赦しの真理のことです。はじめ彼はマリアと離縁することによって真理を貫こうとしました。しかしそれは神の計画とは違っていました。神は恐れずマリアを受け入れることを命じます。この出来事の正しさの主は私にあると言って…人が主語である間には分からない神の恵みです。