わたしたちは日々何かを選び取って生きて行かねばなりません。しかし何を選び取るかは、多くの場合、自分が損失を被らないようにということが先だちます。ところが、神を信じる者は違うのです。「キリスト・イエス」が基準だからです。神は最後のとき大宴会(神の国の宴)を開かれます。その宴がいつ開かれるかは神だけが知っておられます。その宴の招待を受けたとき=神の招きのとき、わたしたちはどう答えれたらよいのでしょうか?
それこそ、日々の選択が問われます。信仰によって、多くの中から何をどう選び取れるのかを。
聖書で語られる、あるいは教会で語られてきた「罪」とは、命の支配者である主なる神へ“言い逆らう”ことです。そして、その罪ゆえに、まことの命(命の尊さ)を失い、生きづらさを感じて疲弊し、また、あり得ない過ちを犯してしまうことがあるのです。救い主イエス・キリストは、この問題から解き放つために地上に遣わされて、十字架に架かって死なれました。十字架の上でわたしたちの愚かな命に生きる罪の体は滅ぼされ、新しい命によって生きる神の前に取り戻された体が与えられたのです。
宗教改革は、1517年のマルティン・ルターのヴィッテンベルグ城門に95の提題を貼ったことに始まりますが、そこに至るまでのルターの葛藤がありました。彼は神の義について、深く悩み続けていました。もしも神の義が現れたら、罪ある人間は死ぬしかない。救われることはないというジレンマから抜け出せなくなっていました。しかし、なお懸命に聖書 (ロマ書)を読み進める内に世紀の大発見をします。「キリストへの信仰のみに因って救われる神の義」です。神の義は神自らの命の犠牲によって示される救いの恵であったのです。
わたしたちの社会にはいろいろな会合・会議・宴席があります。そのとき困ることの一つは、どこに座ったらよいのか、ということです。いわゆる“上席”というのがあるからです。
はじめから上席に座ると叱られますし、かといって余りにも末席に座ると、もっと前の席へと勧められます。ちょうど好い加減の席などはありません。では、神が開かれる宴席に上座とか下座とかあるのでしょうか。あります。上座は天国に近い席です。下座は天国から遠い席です。しかし、どこに座れるかは、神を信じて生きた信仰によります。
安息日=礼拝日は、人間の休息日ではありません。神が“ひと息”入れられた日です。だから、人間も休むのです。この日は、神の御心がもっとも示される日でもあります。神の愛の心がよく分かる日です。ファリサイ派が形式的に守っていたように、日曜日に礼拝をささげても、そこに神の愛はありません。「自分の子どもや家畜が井戸に落ちたら助けないか」という神の子としての当然の愛の行為に訴えて、主イエスは安息日の本来の意味を問い返されます。神の子として神の愛を取り戻す日、それが安息日です。
神の都エルサレムは、神の都であり続けねばなりません。しかし、その歴史は残念なことに、神に逆らう歴史でした。神は何度も呼びかけます。「悔い改めて、立ち返れ」と。ですが、エルサレムは立ち返ることはなく、一度は滅びます。しかし神は、再び、これを、いいえ、何度でも建て直します。神の都は、地上の救いの基だからです。わたしたちの教会も、この都エルサレムにつながっています。この世の救いの基であらねばなりません。主イエスの嘆きの声、「ああ、エルサレム」と言われないように励みたいと願います
神の都エルサレムは、神の都であり続けねばなりません。しかし、その歴史は残念なことに、神に逆らう歴史でした。神は何度も呼びかけます。「悔い改めて、立ち返れ」と。ですが、エルサレムは立ち返ることはなく、一度は滅びます。しかし神は、再び、これを、いいえ、何度でも建て直します。神の都は、地上の救いの基だからです。わたしたちの教会も、この都エルサレムにつながっています。この世の救いの基であらねばなりません。主イエスの嘆きの声、「ああ、エルサレム」と言われないように励みたいと願います
礼拝をささげるのはただ神を賛美しているのではありません。礼拝をささげるとき、わたしたちは、「神の被造物」であることを思うのです。神の作品として造られていることを感謝して、本来の姿に立ち返らせていただき、神の愛を伝える者として、世に遣わされてゆくのです。礼拝をささげる教会は、かぎりなく神の国に近いのです。神に愛が満ち満ちています。その愛に触れた一人ひとりが、悪と罪に支配された世において、神の愛を満たしてゆくのです。神にあっては敵対する者は誰一人いないことを伝える。それが伝道です。
神を信じ、天の御国に入るには、“神のとき”を知らねばなりません。主は、それについて一つのたとえを話されます。「狭い戸口から入るように努めよ」とのたとえです。家の主人が思うような入り方をしなければその戸は永遠に閉められてしまうのだと。多くの人=わたしたちは思うのです。家の主人が戸を開けてくれるに相応しい“とき”を刻んできたのだと。しかし家の主人は言います。「知らない不法な者よ」と。わたしたちが神に従っていると思う“とき”と神が定められる“とき”には違いがあります。それを見分けねばなりません。
からしだねのたとえは、この伝道所の名前です。それははじめは小さくとも、やがて大きくなって木になる。多くの鳥がやって来て巣を作るような木になる、という話しです。からしだね伝道所も、そのような成長をしたいと名づけました。しかし、それは、一気に起こることではありません。毎日の、毎月の、毎年の、礼拝をはじめとする一つひとつの小さな働きの積み重ねです。どんなにつまらないと思えるようなことでも祈って仕えて行きたいと願います。その先に成長があると信じて。