神に「献げる」ことは、信仰者なら“当たり前のように”考えます。しかしこの点で、わたしたちは間違います。(罪を犯します)「献げる」ことで信仰を測り、「献げられない」ことで信仰を測ります。その点を主イエスは糺されます。「どこを向いて献げているのか」と。“自分なのか”“他者なのか”すなわち、自他ともに認められるような献げ方が「献げる」ことになるのか。「違うであろう」「献げる」とは神に向かって献げることであると。そこで一人のやもめの明日をも考えない(神に委ね切った)献げ方に目を留められるのです。
信仰と生活とは同じです。生活は信仰を映し出し、信仰は生活に現れます。しかしそれは、形式的なことではありません。信仰の内容(内実)が問われることです。主イエスの時代、ファリサイ派と律法学者は、内実を問うことなく、“形”に拘りました。信仰深い祈りをとうとうとすること、いかにも信仰深い服装をすること、それが信仰深いことであると勘違いしていました。主イエスは、それを問われます。「最も愚かで体裁の悪い中に=十字架の恥辱の中に」神のみ心と栄光が輝いている、という真理を伝えるために主イエスは最期まで歩まれます。
「救い主キリストは“ダビデの子”」という呼び名は教会ではよく知られています。しかし、その深い意味を知らねばなりません。力強い権力、知恵ある王の家系にある(子孫である)キリストという意味ではないからです。教会の主は十字架の主です。愚かな死を迎えた実に情けない主です。しかしその主は復活されることによって神の栄光を示されました。「十字架の恥辱の中に神の栄光がある」(ルター)という真実を明らかにされるために、神は主イエスを陰府から引き上げられました。ダビデの子は低きに下る神の子としての称号なのです。
「死人の復活」これほど分かりにくいもの、また、誤解されていることはありません。聖書の民は、神のいのちによって生み出されたと信じます。そして、地上の生涯を終えたならば、再び神のいのちに取り戻されると信じます。そのことを「死者のよみがえり」という仕方で、聖書は証します。しかしそれが誤解され続けました。主イエスは、その誤解をただされます。「復活するときはめとったりとついだりはしないのだ」と。すなわち、地上のあり方が、そのまま復活の有様ではないと。全く異なった神のいのちの世界に生まれ変わるのだと。
「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と主イエスはいいます。それは世俗と教会、信仰と生活をうまく使い分けなさいということではありません。そうではなく、信仰を持って生きるあなたは「主を明確にしなさい」ということです。この世はこの世と割り切るのではなく、むしろ、この世の中で、祈りつつ、「譲れないことと譲れること」を一つ一つ丁寧に祈って行きなさい、ということです。器用な生き方を主イエスは勧めません。十字架に架かる愚かさに徹することを求められます。間違っても使い分ける言葉に用いてはなりません。
わたしたちとわたしたちを取り巻く世界は、神がお造り下さったぶどう園です。耕して良い実を実らせるのがわたしたちの務めです。肥料は祈りと奉仕です。どんなぶどう園にするかは、わたしたちにかかっています。神はわたしたちを抜きにして何一つ事柄を実現されません。わたしたちに期待しているからです。わたしたちは、神からそれぞれのぶどう園の管理を託されているのです。神のぶどう園の良き管理人として、わたしたちは生きるのです。一人一人が良い実を実らせることによって、世界もまた神の望まれるぶどう園となります。
毎年、8月は平和をおぼえます。73年前に何が起こったのか、そして、何が間違っていたのかと考えます。その一つは、「権威」についてです。わたしたちの教会は本物の権威を知りつつも、それを忘れて、間違った権威に服した痛みをもっています。主イエスの時代も間違った権威がありました。祭司、律法学者、長老たちの権威の拠り所は、真の権威=主なる神の権威ではありませんでした。主イエスは偽りの権威の下に民を支配しようとする彼らの権威を糺されます。しかしその道は、十字架の死という道を通らねばならない険しい道でした。
主イエスがエルサレムの神殿に向かわれると強盗の家になっていました。境内では、両替商や鳩売りの商人たちが所狭しと店を並べていました。当時、神殿には神殿に納めるための貨幣や犠牲の動物の基準がありました。それにそぐわない者は神殿の境内に店を広げている商人たちに手数料を払って“交換”するのでした。そこに利権が発生します。神殿の上納金と商人たちに莫大な儲けとなりました。主イエスはそれを見て怒られたのです。わたしたちの礼拝も大切なものを見失ってはなりません。神にささげるべき第一のことは祈りです。
エルサレムは神の都と呼ばれます。“エル・シャローム”(平和の丘)というのが語源です。神の平和(シャローム)によって治められる町だからです。今やエルサレムは、人間の権力と欲望が支配する町と化していました。主イエスと弟子たちは、その町へ向かいます。主イエスと弟子たちとの思いには隔たりがあります。主イエスは悲しみと嘆きを抱きながら向かいます。弟子たちは逸る心をもって向かいます。神の権威と人の権威の隔たりです。神の圧倒的な恵みを注がれた者のみが知る本物の権威です。主の十字架と復活による恵みです。
ムナのたとえの話は、タラントのたとえとしてよく知られています。神さまが創造してくださったどんな人にも必ず何か“賜物”を与えられていると。しかし主イエスは、人間の才能のことを語っているのではありません。神によって作られた一人ひとりの誰もがもっている“力”、何があっても神に信頼している生き抜く力のことをたとえているのです。神を本気で信じる人は、周りから本気で信じられる人になり、信仰が伝わります。伝道の力とは、神を本気で信じる心にかかっています。そして、その力は神から頂いています。