主イエスがエルサレムの神殿に向かわれると強盗の家になっていました。境内では、両替商や鳩売りの商人たちが所狭しと店を並べていました。当時、神殿には神殿に納めるための貨幣や犠牲の動物の基準がありました。それにそぐわない者は神殿の境内に店を広げている商人たちに手数料を払って“交換”するのでした。そこに利権が発生します。神殿の上納金と商人たちに莫大な儲けとなりました。主イエスはそれを見て怒られたのです。わたしたちの礼拝も大切なものを見失ってはなりません。神にささげるべき第一のことは祈りです。
エルサレムは神の都と呼ばれます。“エル・シャローム”(平和の丘)というのが語源です。神の平和(シャローム)によって治められる町だからです。今やエルサレムは、人間の権力と欲望が支配する町と化していました。主イエスと弟子たちは、その町へ向かいます。主イエスと弟子たちとの思いには隔たりがあります。主イエスは悲しみと嘆きを抱きながら向かいます。弟子たちは逸る心をもって向かいます。神の権威と人の権威の隔たりです。神の圧倒的な恵みを注がれた者のみが知る本物の権威です。主の十字架と復活による恵みです。
ムナのたとえの話は、タラントのたとえとしてよく知られています。神さまが創造してくださったどんな人にも必ず何か“賜物”を与えられていると。しかし主イエスは、人間の才能のことを語っているのではありません。神によって作られた一人ひとりの誰もがもっている“力”、何があっても神に信頼している生き抜く力のことをたとえているのです。神を本気で信じる人は、周りから本気で信じられる人になり、信仰が伝わります。伝道の力とは、神を本気で信じる心にかかっています。そして、その力は神から頂いています。
先週は、交換講壇でした。西国分寺教会の北原葉子牧師から、創世記の最初のみ言葉を通して「あなたは神様の最高傑作」という説教を語っていただきました。人はときには間違いを犯したり、大きな失敗をします。しかし、「あなたは神様の失敗作品」ではない!と、神様ご自身が、そして何よりもイエス・キリストご自身が、命を捨てられるほどにして、高らかに宣言してくださっています。これほどに大きな恵みはありません。主にある誇りをもって生きてゆきましょう。
ザアカイという徴税人がいました。徴税人は人々に疎まれる仕事でした。彼は、心の底では悩みながらも、この仕事に就いていました。ローマ帝国の手先となって、同胞ユダヤ人の人々から税金を取り立てていました。しかし救いを求めていた一人であることには違いありません。ある日、そんな彼のところにイエスは来てくださいました。喜びと感謝に溢れた彼は、主イエスを家に導き入れます。主を迎える!それが救いです。主は来てくださいます!喜んで迎え入れるところに救いの喜びが与えられます。
「見えている」=「分かっている」わたしたちの口癖です。わたしたちは、自分で思っているより人生に自信があります。自分から自分を引き下げることは構いませんが、他者から引き下げられるとき、嫌な思いに満たされます。誰も好んで自分を高く言いふらす人はいないでしょうが、いたずらに引き下げる人もいないのです。それは、自分が守る範囲(守備範囲)が“分かっている”からです。自分も周りも、信仰も生活もよく分かっている=見えているのだと。主イエスはその過ちを問われるのです。本当に見えているのかと?
キリスト教の信仰の中心は「主イエスの十字架と復活」です。しかしときに、十字架を除いた信仰がみられます。それは「罪の自覚」がない信仰を生み出します。贖罪信仰の欠如です。そして、そのことは信仰に基づく人生にも大きな影響を与えます。信仰は、苦しみや悲しみから逃れる“手段”となります。信仰がある、信仰がないに関係なく、人生には労苦や嘆きはあります。信仰は、それを真正面から受け止めて、なお、そこに踏みとどまる力を与えるのです。主の十字架の先にある復活の希望を信じて。
子どものようにならなければ天国へは入れない。よく聞く言葉です。しかし、間違ってはなりません。子どもが天国ではないのです。子どもはときに残酷なほど素直です。主イエスは、その素直さに目を留められているのです。子どものようになりなさいと。弟子たちは、そしてわたしたちは、神への素直さが求められます。それは、大人の事情、大人の屁理屈を持ち出さないことです。黙って主に従う、まっすぐな信仰が問われるのです。教会もわたしたちも、持ち出したら切がない言い訳があります。しかし、主に従うのです。
二人の人がいました。一人は見るからに信仰深いファリサイ人、もう一人は見るからに信仰深くない徴税人です。ある日、二人は、神殿へ向かい祈りをささげます。「わたしはすべてにおいてささげています」と祈ったファリサイ人、「神よ憐れみを」と祈った徴税人、神に顧みられた(義人とされた)のはどちらであったか?と、主イエスは問いかけます。神への信仰は、神を徹底的に主語とすることです。それには“我”との戦いがあります。信仰さえ“我”を主語とする“我”との戦いです。十字架の主の憐れみ請う他ありません。
祈りは願いからといいます。しかしときに、わたしたちの祈りは“お願い”だけで終わってしまいます。なぜでしょうか。願いが聞き届けられない、と考えるからです。しかしその見極めは余りにも早過ぎはしないでしょうか。主イエスはしつこく求めるやもめの譬を用いて、神に諦めることなく祈る大切さを諭されます。神の答えは人間の早さとは違います。神は神なりに速やかに裁きを行われます。スピード感にずれがあるのです。願いが願いで終わることなく本物の祈りになる道は、諦めずに祈る中に隠されています。