子どものようにならなければ天国へは入れない。よく聞く言葉です。しかし、間違ってはなりません。子どもが天国ではないのです。子どもはときに残酷なほど素直です。主イエスは、その素直さに目を留められているのです。子どものようになりなさいと。弟子たちは、そしてわたしたちは、神への素直さが求められます。それは、大人の事情、大人の屁理屈を持ち出さないことです。黙って主に従う、まっすぐな信仰が問われるのです。教会もわたしたちも、持ち出したら切がない言い訳があります。しかし、主に従うのです。
二人の人がいました。一人は見るからに信仰深いファリサイ人、もう一人は見るからに信仰深くない徴税人です。ある日、二人は、神殿へ向かい祈りをささげます。「わたしはすべてにおいてささげています」と祈ったファリサイ人、「神よ憐れみを」と祈った徴税人、神に顧みられた(義人とされた)のはどちらであったか?と、主イエスは問いかけます。神への信仰は、神を徹底的に主語とすることです。それには“我”との戦いがあります。信仰さえ“我”を主語とする“我”との戦いです。十字架の主の憐れみ請う他ありません。
祈りは願いからといいます。しかしときに、わたしたちの祈りは“お願い”だけで終わってしまいます。なぜでしょうか。願いが聞き届けられない、と考えるからです。しかしその見極めは余りにも早過ぎはしないでしょうか。主イエスはしつこく求めるやもめの譬を用いて、神に諦めることなく祈る大切さを諭されます。神の答えは人間の早さとは違います。神は神なりに速やかに裁きを行われます。スピード感にずれがあるのです。願いが願いで終わることなく本物の祈りになる道は、諦めずに祈る中に隠されています。
主イエスが天に戻られた後、弟子たちは母マリアをはじめ婦人たちと祈っているとき、突然激しい風が吹き始め、炎のような舌が、天から吹き荒れます。ルカが描く、ペンテコステの出来事です。わたしたちの想像を超える物凄いことが起こったのでしょうか?聖霊は、優しい風でも、和みの息でもありません。人をして、主イエスの赦しの福音の信仰に生きる力を与えるものです。弱弱しい霊ではありません。教会とそこに生きる一人ひとりは、天から注がれる、この力強い聖霊によって生み出され、支え続けられるのです。
主イエスは復活なさった後、40日間弟子たちのところにおられました。しかし復活された主は、もはや地上の身体ではなく、天の身体(御体)です。長く地上に留まることは出来ません。そこで、主は、天に戻られる時が来ます。そのとき、約束をなさいました。「わたしが天に戻った後、約束の聖霊が降って地の果てまで“証し人”になるであろう」と。教会の始まりの約束です。すなわちペンテコステの予告です。その後、天の主は戻られます。しかしこの主は再び地上に来られます。そのときまで証し人として生きるのです。
ときに主イエスはドッキッとすることを言われます。「死体のあるところに禿鷹が集まるであろう」と。これは、終わりの日の様子について語られた最後の言葉です。わたしたちは、目に見えて、手で触って、確かめられる時間の中に生きています。そして一喜一憂しています。自分の人生も世界の行く末も、この時間の枠の中でしか考えません。しかし神(キリスト・イエス)にあっては、もう一つの時間=神の時を備えておられます。多くの人は(信仰者でさえも)これを知ることなく、最期のときに「そうだったのか!」と気づかされます。
聖書(福音書)にはキリストの癒しが数多く書かれています。福音書を編集した人々は、たくさんの主イエスの癒しの言い伝え(伝承)を知っていたのでしょう。福音書の記事のところどころに書き記してあります。しかし主イエスはなぜ癒しをなさったのかについて、わたしたちは誤解してはなりません。主は奇跡を見て信じることを求められたのではありません。奇跡は神の力のしるしです。わたしたちは、この神の力の凄さを、奇跡を通して知るのみです。神の力の真髄は、罪の癒しです。その癒しによって健やかな人生を築くのです。
人生の中で一番難しいことは「赦し」です。他者に傷つけられた。自分を嫌いになる。人は、赦しを実行できなくて苦しみます。主イエスはいわれます。「悔い改めるなら赦しなさい」と。もしそれが出来なければ、「首をひき臼に縛られて海に投げ込まれる方がましだ」と。それはあなたにとって“もっとも小さな人”をつまずかせることになるからであると。赦せない他者は“小さな人”です。嫌な隣人、不利益を被らせてくる人、…みな“小さな人”です。主にまず赦されている幸いに感謝し、赦しの信仰に生きることがもとめられています。
ルカによる福音書の中でも分かり易い話です。金持ちは陰府(地獄)へ、貧しいラザロは天国へという話しです。しかし主イエスは、そんなこと(因果応報とか宿命論)を語るために話されたのではありません。神の国へ入るのは、神のみがお決めになられるということです。そこには人の事情や思いが入る余地はまったくありません。金持ちであったとか貧乏であったとか…実はどうでもよいことなのです。神が、その人の人生をご覧になって、お決めになられるのです。わたしたちに出来ることはひたすらに御言葉に聞くことだけです。
神の国へ入りたい!永遠の命(神の命)を授かりたい!神を信じる者の偽らざる願いです。課題は、ではその道は(方法は)ということです。神を信じる者は神に頼るのが本筋です、ところが、そこでわたしたちは間違うのです。この世の原理と同じように、信仰の原理も進められると思うのです。人の目に立派と映る信仰が、神の国へ入る資格になり得ると思い始めます。一生懸命に奉仕をしている、礼拝を休まない、献金を献げている、当然のことが人間の努力にすり替わります。十字架と復活の主のみが与える信仰を忘れてはなりません。